この記事のポイント:

・「ハケン」や「ベンダー」といった言葉に込められた上下関係は、日本社会・文化に限られたことではない。人は、あらゆることに優劣・上下をつけ、他者と自分を比較したがる

・問題なのは、他人が勝手に決めたヒエラルキーに自分が左右されてしまう「他人軸」の考え方。

・自分軸で自分の価値を見つけて「ブランディング」しない限り、より上の存在と自分を比較して卑下する無限自虐ループからは抜けられない

 

 

 

さて、前回の記事まではビジネスにおけるヒエラルキーの上下関係が「ハケンさん」「ベンダーさん」などの呼称に表れることについて掘り下げました。

 

派遣契約社員だったAさんは、言葉にも敏感な方だったので、やはり「ハケンさん」と呼ばれることがとても嫌だったのでしょう。

では、これは日本語・日本文化・社会特有の現象なのでしょうか?実はまったくもってそうではないのです。

 

私が尊敬しているかつての上司は、香港系カナダ人。彼は、会議で誰かが

「ベンダ=Vendor」

という言い方をすると、

“I hate when people say that.  It’s so disrespectful and condescending.”

「ベンダーって言い方は嫌いだ。すごく相手方へのリスペクトに欠けるし、見下している」

とぷりぷりと怒っていました。英語環境でも、欧米の企業社会でも、同じ感覚があるのです。

 

数年前、PR業界大手で電通系列企業の「電通PR」が「電通PRコンサルティング」へと社名を変更したことが話題になりました。

「電通PR」は、「電ピー」と略され、さらに言えば「電Pさん」と「さん」づけで呼ばれていました。名称変更によって、「業者=ベンダー」から「コンサル」になろうとしたのです。

 

個人のレベルでも、似たようなことがあります。かつて、お世話になったヘッドハンティング会社のアメリカ人の担当者の方に、

「リクルーターの仕事は、、、」と私が切り出すと、

“I’m not a recruiter.  I’m a headhunter.”

「私はリクルーターではない。私はヘッドハンターだ」

 

と憮然とされたことがあります。

「ヘッドハンター」と「リクルーター」では大違いなんだそうで、「間違えてもらっちゃ困る」ということでした。

 

ではこの二つの違いは何なのでしょう?

 

「業者」VS「コンサルティング・ファーム」

「リクルーター」VS「ヘッドハンター」

 

ひとことで言えば「ブランディング」の差です。

自らをどのように「ブランディング」し、付加価値をつけるのかによってその企業や個人の呼称が変わるのです。

 

ブランディングの差は、収益の差をうみ出します。

 

雇い主に言われた通りに手や足だけを動かす業務をやっているのではなく、より高レベルの「戦略コンサルティング」を提供している、という自負(もちろん結果も伴わないといけませんが)が、時間当たりや案件ごとに支払われるフィーの差に繋がります。

私がお世話になった「ヘッドハンター」が「リクルーター」と呼ばれて怒ったのも、

 

「俺は戦略的に人材を配置するプロだ。質よりも何人採用につながったかという<数>が勝負のリクルーターと一緒にするな」

という、自分の「ブランド」に対する確固たるプライドと信念があったのでしょう。

 

興味深いのは、高給取りの代名詞の様に言われている(最近構造変化が起きているようですが)「コンサル」も「案件ごとに値札がついて仕事を請け負う」という意味では「請負業者」=「ベンダー」であることに変わりはないということです。

 

でも、「コンサル」のことは「ベンダー」とは呼びません。「コンサル」、「ファーム」ないし「エージェンシー」と呼びます。コンサルタントや弁護士も、「出入りの業者」という立ち場は同じなのに「業者さん」とは呼ばれません。

 

なぜ?

そこには、彼らが「業者」よりも「格が上」という「リスペクト」があるから。

そのリスペクトは、その組織なり個人なりの自らの「ブランディング」に左右されます。

 

「どうせハケンだし」

と自分で言っていると、

「どうせハケンだな」

と言われる人にしかならないのです。

 

それは、心の姿勢であって、「ハケン」に限ったことではありません。


ある会社の日本法人の役員が、本社のCEOに関して

 

「どうせあの人は俺のことなんて虫けらとしか思ってないんだ」

 

と言っているのを聞いてびっくりしたことがあります。(落ち目であるとは言え)世界経済の主要なプレイヤーである日本市場の拠点の幹部のことを、本社の上層部が「虫けら」と思うなんてことは、無いと思うのです。でも、経営幹部に上り詰めてですら、その様に自分のことを卑下する人がいるのです。

 

そのような「心の姿勢」の人は、どこまで行けば、自虐と自己卑下をしなくて済むくらいに偉い立場だというのでしょう?

 

役人の世界では、国家I種に対して専門職の人が「どうせ私は専門職だから」

慶応に高校受験で入った人は「どうせ俺は幼稚舎からじゃないから」

弁護士は「どうせ私は現役時代に司法試験に受かってないから」

ロキは「どうせ俺は弟で、ソーじゃないから」

 

どこまで上にのぼりつめれば、人に対してコンプレックスを抱かなくて済むようになるのでしょうか?

最終的に「神」?(もしくはサノス?)。

 

つまり、問題はその人の「役職・立場・呼称」など、「外から」与えられる属性にあるのではないのです。

問題は、その人自身が「自らをどう定義し、ブランディング」するか。


自分で自分の価値を評価し、信じているかどうか、「自分軸」で生きているかどうか、にかかっています。


周りが自分に投影する「イメージ」に卑屈になる自虐スパイラルを断ち切らなければ、「どうせ私なんて」と言い続ける人生から抜け出すことはできません。

 

そのためにはどうすればいいのでしょうか?

既に今回の記事は長くなり過ぎてしまったので、続きは「どうやったら本当の自信を持てるのか」「自分の強味を見つけて、自分のブランディングができるのか」をテーマとする記事で取り扱いたいと思います。

 

この投稿は以下の記事の続きです: