20188.29              PROTEST

ルカ22:6670

66 夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、

 67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、

 68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

 69 しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」

 70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。

 

 今日は英語の「Pro test」という単語から、その意味を把握しながら、聖書のみ言葉を分かち合いたいと思います。英語の「Pro test」とは、直訳しますと、「抗議をする」、或いは「反対の意見を出す」という意味です。しかし、ここで「Pro」とは、「前に」、「おおやけに」の意味で、「test」とは、試すという意味ではない、「Witness(証言する)の意味を持っていまして、一つは「おおやけに証言する」意味と、もう一つは「不義を持たずに相手に立ち向かう」という深い意味をもっていることが分かります。

ルカ福音書226670節を見ますと、主イエスは、ユダヤの祭司長と律法学者たちの前でProtestしていることが分かります。つまり、公に証言しています。

70節に、「あなたは神の子ですか。」という質問に対して、主イエスは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と公に神の子であることを証言しています。

 私たちが普段考えます、「Protest」とは、反対の意見を出したり、抗議をすることをイメージしがちですが、例えば、会社で上の人から言われた通りに行動するのではなく、少し自己主張して見せたりすることもそれに当たります。自己主張をすると、やはり周りから反感を買うときもあります。主イエスもそうでした。

また、未だに北朝鮮に数万人の政治犯たちが収容所に入れられているそうです。彼らのほとんどはクリスチャンだそうです。彼らは、劣悪な環境で何れ自由になることを夢見て、絶対に生きて、真実を証言しようとします。これも不義を持たずに相手に立ち向かおうとする「Protest」です。

 ドイツの宗教改革者ルターも不義に立ち向かって戦いました。1517年、カトリック教会の免罪符販売を批判し、そして聖職者たちの堕落などを95箇条の文書をもってカトリック教会を批判しました。それまでのカトリック教会は、礼拝に置いては意味の分からないラテン語で説教され、会衆は意味を解らないまま、礼拝を形式的に捧げていました。ところが、ルターの宗教改革を切っ掛けに民衆が分かりやすい英語やドイツ語に聖書が翻訳されることになります。それによって、聖職者以外にも一般人が聖書を読めるようになりました。そして、さらにより多くの人々に聖書を読んでもらうためにこの時初めてドイツに置いては印刷技術が発達しました。当時、ヨーロッパではカトリック教会が国家権力を牛耳ていただけに、ドイツで印刷した英語の聖書を持ちこんでイギリスに渡る際に、見つかった場合、没収され、拷問を受けたりしたそうです。

そういったカトリック教会の力から逃げて聖書に生きようとしてProtestし、16世紀の宗教改革を切っ掛けに、多くの人たちがアメリカに渡りました。この人たちをピュ―タンとも言われます。これが今のアメリカにプロテスタント教会が普及された原因になったのです。プロテスタントも「Protest」から派生したことが分かります。

 さて、パウロもまた、ローマでProtestをします。

使徒の働き281620節です。

16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。

 17 三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。

 18 ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。

 19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。

 

パウロは自分の家にユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めて、公に証言します。

「Protest」の本来の意味は、原点から外れたことを原点に再び取り戻そうとして公に主張することを意味します。

主イエスは、父なる神の律法を完成するためにこの世に来られました。

律法を破るためではありません。主イエスは口だけ律法を完成しようとしたのではく、ご自分の身体を持ってモーセの律法と旧約の預言を成就し、原点に取り戻すために、公な場所で十字架にかかり、身を張ってProtestされました。

 今日は聖書が持っている「Protest」という意味の大切さを学ぶことができました。

 

2018.620   「一度死ぬことと死後に裁きを受けること」

           

マタイ11

20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

 21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

 22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

 23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

 24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

 25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。

 26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

 27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

 28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 

旧約聖書を研究しているうちに、なぜか新約聖書に導かれ、今日は、福音書から主の御教えを学んでいきたいと思います。

マタイによる福音書は、皆さんもご存じのように、ユダヤ人向けに書かれた御言葉です。ユダヤ人の町に救い主、来たるべきキリストがお生まれになって来られたのに、彼らは、彼らの前で主イエスによる数々の力あるわざが行なわれても、ユダヤ人たちは主イエスのことを受け入れることができず、神の御前で悔い改めることをしませんでした。ここで力あるわざとは、ギリシア語の原文から見ますと、「デュナミス」、ダイナマイトの語源となった言葉が使われています。つまり、これは単なる強い力ではなく、「奇跡」の意味を持っています。このような力強い奇跡が主イエスによってユダヤ人たちの目の前で行われても、彼らは信じようともしませんでした。

そこで、主イエスは、マタイ11章20節で、彼らを責めはじめられたのです。

20節にあります、主イエスによる数々の力あるわざとは、もっと具体的に言いますと、マタイ11章5節によって見て取れます。すなわち、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ハンセン病に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられていること」、これが主イエスによる数々の奇跡だったのです。

そして、主イエスは、イスラエルのガリラヤの湖の北にあります町、コラジンとその隣の町ベツサイダ、即ち、カペナウムという町から15キロ東にあります港町であるベツサイダに向けても、21-24節まで、その町のことを悲しげに残念がっています。

21節の「ああコラジン。ああベツサイダ」とは、このように言葉を変えることができます。『「悲しいコラジン、悲しいベツサイダ」。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。』 ここで、ツロとシドンとはイスラエルの隣の国、今のレバノンにあります港町で、これは、旧約のエゼキエル書282節から、そしてアモス書19節からツロの町の犯した罪について警告しています。シドンに関しては、シドンはツロから約40キロ北にある港町です。シドンの罪については、エゼキエル2821節から確認できます。

22節、「 22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」

ちなみに、コラジンとベツサイダの話が、ルカ福音書10:1215節で同じく取り上げられています。この文書の特徴は、レバノンにあるツロとシドン。ユダヤ人にとっては異邦人でありますが、コラジン、ベツサイダ、カペナウムはイスラエルの町であり、異邦人の誰よりも、神に選ばれたユダヤ人の町であることが分かります。彼らに向かって主イエスは警告しているのです。23節です。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」

ここでハデスとは、「よみ」つまり、「地獄」のことです。ソドムについては、創世記19章で確認できますが、創世記19章に登場する天からの硫黄と火によってその町は滅ぼされました。しかし、ソドムとゴモラはこの世における罪による滅びであります。マタイ11章24節です。

24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」しかし、ここでポイントですが、たとえ、肉体が死んでも私たちは終わりではありません。私たちが死んでも神の裁きを受ける日が来るのです。この裁きによって、人間は永遠の滅びと永遠に生きる命が与えられるのです。ですけれども、主イエス・キリストの中に生きる者は、死んでも生きるし、永遠に命が保証されると聖書は約束しています。そして、もはや主イエスの中にいる者は、神の裁きを受けることはありません。なので、今も、主イエスの霊である、聖霊によって数々の力あるわざ、奇跡が行なわれているにもかかわらず、主イエスを神として受け入れない者が、イスラエルの中でもいたように、教会の中にもいるのではないかとマタイ11章を通して教えられています。マタイ11章では、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町がそれであると言っています。

へブル人への手紙9章27-28節にはこのようにあります。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように」とあります。  マタイ11章25節から29節までゆっくりともう一度読んで行きたいと思います。 

25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」

ここで「天地の主」の天は「ウラノー」単数形で、複数の意味を持ち、「空気、天、空」を意味します。地は「ゲス」単数形で、これも複数の意味を持ち、「国、地、世界」を意味します。 主イエスは、このような天地の主であられる父なる神をほめたたえています。 そしてこれらのこととは、主イエスによる力あるわざの行なわれている事と神の裁きの日のことであると推測できます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。  賢い者や知恵ある者とは、ユダヤ人の律法学者を示していると考えられますが、大人になる段階で学んでいる者、つまり幼子を除いた全ての人を現します。幼子たちのことですが、言葉がまだしゃべれない子供のことで、未熟なクリスチャンをも意味します。 主イエスはイスラエル人に向けては賢い者や知恵ある者とし、異邦人のことを素直な心をもった幼子たちとして見ているのではないかと考えられます。 

その続きを見てみましょう。

26節、 26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

 27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

 私たちは、神様のことを研究して神様のことが分かったから信じれるようになったのではありません。つまり、子が父を知らせようと神の御心に定められた私たちであるから、神の恵みによって救われ、永遠のいのちが保証されることになったのです。

その続き、28節です。とても有名な御言葉です。

 28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

とても慰められる御言葉ですね。

この節には、特に付け加える必要はありません。神はすべての人、即ち疲れた人、重荷を背負っている人が主イエスのもとに来ることを望んでおられます。皆さんは疲れているでしょうか。神の御もとに来て、皆さんの疲れや重荷を降ろす事で私たちには安らぎが与えられ、主は休ませてくださるのです。実はそれだけではありません。主イエスを信じて受け入れる人にはもはや神の裁きにあうことのない永遠のいのちが保証されるのです。

以上です。

 

2018.66         「エレミヤについて」

 エレミヤ38:613

今から2600年頃前の出来事です。

主なる神様は南ユダ王国に一人の若い預言者を立てました。それは、神様に選ばれている南ユダ王国でさえ偶像崇拝をし、神に立ち返らないと神の裁きがあることを知らせるためです。

エレミヤ1712節です。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。彼らの子たちまで、その祭壇や、高い丘の茂った木のほとりにあるアシェラ像を覚えているほどだ。」とあります。人は、平和ボケになるとマンネリ化してきて、緊張感がなくなります。その危なさを、預言者エレミヤを通して示しています。 私たちは「平安、平和」を求めますが、これが続くのも「サタンに隙間を与える」ことになるのではないかと思います。

 1620節、「人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」とあります。人間は緊張しすぎると、神に祈ることすら忘れてしまいますし、その反対に緊張感がなくなると神に祈ることを怠ったり、神存在を忘れたりします。まさに南ユダ王国がそのような状況でした。

36章には、なんでエレミヤ書が書かれたのか。そして、誰が書き記したのかがわかります。

3614節を一緒に読んでいきたいと思います。

JAS  Jeremiah 36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなみことばがあった。

 2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。

 3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」

 4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた主のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。

 

バルクによって書き記されたその巻物は、残念ながらユダの王によって燃やされます。362126節)。その巻物の内容は「神は、バイロンの王によってユダを滅ぼし、人間も家畜も絶やす」と書かれていたからです。しかし、神は再びエレミヤに巻物に書き記すことを命じます。3632節です。32 エレミヤは、もう一つの巻き物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書きしるした。さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた。

さて、当時、エジプトとバビロンが南ユダの間で良く戦争をしていました。

昔、日本と中国が朝鮮半島で良く戦っていたのと同じです。

ユダの王と一般の民衆は、預言者エレミヤによって語られる主の言葉に聞き従わなかったのです。なのに、いざとなった時には「どうか、私たちのために、私たちの神、主に、祈ってください」と預言者エレミヤにお願いします(373節)。どこか矛盾を感じますね。困った時の神頼みでしょうか。

そして、バビロン軍がエジプト軍の来るのを聞いてユダのエルサレムから退却した時、エレミヤが用事でエルサレムからちょっと出かけて行った時のことですが、それを見た当直の者が「あなたはバビロン人の所に逃げるのか」と預言者エレミヤを捕えました。

首長たちは預言者エレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、牢屋に入れます。エレミヤは丸い天上の地下牢屋に入れられ、長い間そこにいました。

ユダの王ゼデキヤは、これからの将来のことが心配になったのでしょうか。彼は、地下牢屋にいるエレミヤから神様からの御声はあったのかと聞きます。しかし、エレミヤが伝える言葉は、ユダ王国の滅びとゼデキヤ王がバイロンにつれて行かれると神の言葉を正直に伝えます。そこでエレミヤは又捕えられ、今度は泥だらけの穴に投げ込まれました。

エレミヤはたとえ牢屋に入れられた時でさえも、穴の中に投げ込まれ、身体が泥の中に沈んだ時でさえも、神様に文句ひとつ言わず、神様に対する信仰と確信は揺れませんでした。むしろ、王と首長たちに淡々と立ち向かっていました。

387節です。エレミヤはクシュ人つまりエチオピア人の嘆願によって穴から助けられます。

いよいよユダ王国はバイロンによって攻め取られ、バビロン軍は逃げていくユダ王ゼデキヤに追いつき、彼を捕えてバビロンへつれて行きます。バビロンの王はゼデキヤの子供たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみな虐殺されます。そして、挙句の果てにはゼデキヤ王も目をつぶされ、青銅の足かせにつながれ、バビロンにつれて行かれます。

ここで一緒に考えていきたいと思います。

南ユダの滅びの原因は何だったのでしょうか。

そして、何度もユダ王国は、預言者エレミヤを通して救われるチャンスが与えられていました。しかし、彼らはエレミヤの警告を聞こうとしなかったのです。なぜだったのでしょうか。

そしてエレミヤの神様に対する信仰はどうだったのでしょうか。彼は若くして神の言葉を伝える者となり、地下の牢屋に入れられても、泥だらけの穴に落とされても、神様に対する信頼は変わることがありませんでした。私たちは、苦しみにあった時、その苦しみから逃れたいと祈ります。しかし、その苦しみでさえももし神ご自身の御心を成就するための試練であるなら、苦しみからの解放よりもエレミヤのように苦しみを受け入れて、その苦しみが解かれるまで忍耐し、待ち続けることも信仰ではないかとエレミヤ書を通して学ばされます。

 今日は、エレミヤ書を通して、エレミヤの信仰を学ぶことができました。

 

2018.610         「種まきの譬え」

 マルコ419

本題に入ります前に、私はある方を皆さんにご紹介したいと思います。

皆さんは、誰かに嫌われたり、いじめられたりしたことはあるでしょうか?勿論誰でも一度は経験したことがあると思います。いや、もしかしたら逆の立場で経験した方もいらっしゃるかも知れません。私は、今から人類史上最も嫌われ役を受け持ち、家族や村の人たちのみんなの前で辱められた方を紹介したいと思います。

この方は、本来神であったのに、人間の生まれ持った罪からの救いのために、わざわざ人間として生まれ、33歳の時に、すべての苦しみを味わい、裸のまま鞭打たれ、辱められ、丸裸のまま木に掛けられ、死なれました。木にかけられ、死ぬのは、聖書では昔から呪われるべき罪人だけに与える最高の求刑だったのです。つまり、公開処刑でした。世界で唯一今でも公開処刑をしている国があります。それは隣の国北朝鮮です。北朝鮮では、公開処刑の日には、学校の授業を休ませ、子どもたちを処刑場に集合させます。そして皆の見せしめとして処刑される家族皆を集めさせるんだそうです。処刑されていく父や母を目の前に子供たちは涙を見せてはいけません。まるで、主イエスの十字架の死がそれと同じような気がします。 主イエスは、本来私達人間が受けるべき神からの呪いを十字架上で自ら釘打たれ、槍刺され、血を流しながら私達の代りに、嫌われ役として死なれました。この方こそ真のロゴスの神、主イエス・キリストです。この方を受け入れる者は死んでも生きるのです。アーメン さて、本日のメッセージである「種まきの話」に入りたいと思いますが、入ります前に、福音書について少しおさらいをして置きたいと思います。福音書が一番最初に書かれたのは主イエスが亡くなってから数十年後でした。一番最初にマルコによる福音書が書かれました。マルコは主イエスの12弟子の中に入っていませんが、十二弟子の一人であるペテロと一緒に同行しながら福音を伝えた人です。彼は口で伝えられている主イエスについて最初に巻物に纏めました。そして、マルコによる福音書はユダヤ人ではない異邦人向けの福音書です。このマルコによる福音書をもとにして書かれたのがマタイによる福音書とルカによる福音書です。この三つの福音書を共観福音書と言いますが、それは同じ目線から主イエスの話を書いたからです。そしてマタイによる福音書はユダヤ人的観点から書かれました。また、ルカによる福音書はお医者さんであったルカが当時ローマ政府の高官であったテオピロ(つまり神を愛する者)に宛てた手紙と考えられます。ちなみに、ヨハネによる福音書は、紀元後100年、つまり、共観福音書が書かれてから30年~40年後に書かれたと考えられています。第二テモテ316節にありますように、聖書は神の霊感によるもので、人々が相談しながら人間の考えで書いたのではありません。

なので、福音書において同じ内容が見られますのは、最初はおかしいと思いがちですが、主イエス様がおっしゃった御言葉の大切さを強調しているからだと考えればいいと思います。 ですから、本日は一番最初に書かれたマルコによる福音書から主イエスの「種まきのたとえ」を見ていきたいと思いますが、ここで種とは「神のみことば」を意味します。

種まきの譬えの共通している特徴は、種が蒔かれる時、周りの状況はどうだったのかという種が蒔かれる環境的問題、いつ蒔かれたかという時間的問題、またどこに落ちたかという場所的問題が思い浮かびます。場所的問題をいいますと、道端に落ちた種、岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、良い地に落ちた種です。

マルコによる福音書426節には、「神の国は、人が地に種を蒔くようなものである」とあります。すなわち、礼拝における説教に置いても、或いは私たちがだれかと会って、コーヒーを飲みながら、救いの証しや聖書の話を分かち合うということは、聖霊によって私たちを通して御言葉の種が今も蒔かれ続けている証拠であり、それは神の国を実現させる主イエスの弟子としての働きでもあるのです。

では、マルコに福音書41節を見ていきたいと思います。

主イエスが湖のほとりで教えられた時のことです。湖と言いますと、やはり琵琶湖くらいの大きさであると考えてもいいと思います。主イエスは、たくさんの群衆が集まってきたので、群衆たちが良く見える湖にある船に乗り、そこに腰を下ろされました。そして、群衆はみな浜に立っていました。きっと群衆の中には、たくさんの女性たちも子供たちも混ざっていたと想像できます。

主イエスは、ほとんど無学な群衆たちにむけてわかりやすく譬えを用いて話されました。

その教えの中でこう言われました。

3節です。「良く聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出かけた。蒔いているとき、種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。」

この譬えの意味をマタイによる福音書1319節では「御言葉を聞いても悟らない人」と説明し、ルカによる福音書812節では、「鳥が来て食べてしまった」ことを悪魔が来て、神を信じて救われないように、その人たちの心から御言葉を持ち去ってしまった」ことであると説明しています。

 この文書をよく見ますと、蒔いているとき、種が道端に落ちたとあります。「蒔いているとき」とは、過去における進行形でクロノスにおける人間の時間を現します。

つまり、御言葉の種を蒔いているとき、皆が良く通る道端という環境に置かれることによって、悪魔サタンが来て、神の御言葉を取ってしまったのです。

 5節です。「また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、太陽が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった」とあります。

これも時間的差を感じさせます。岩地に落ちた種はすぐに芽を出しましたが、次の日に太陽が上ると、土の薄い岩地に落ちたために、焼けて、枯れてしまいました。

マタイによる福音書1321節には、このように説明しています。

自分のうちに根がないために、即ち御言葉がないために、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。そして、ルカによる福音書813節においては、このように説明しています。しばらく信じていても試練の時になると身を引いてしまう。

岩地のような私たちの心は、根がないために枯れてしまうことがあります。

7節です。「また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった」。岩地の上に落ちた種は芽を出しましたが、枯れてしまいました。今度は、いばらの中に落ちた種は、成長はしたのですが、いばらにふさがれて実を結ぶことができませんでした。

いばらの中に落ちた種の状態を、マタイ1322節には、御言葉を聞くが、この世の心配事と富の誘惑、欲望、快楽などがみことばを防ぐため、実を結ばない人のことであると言っています。確かに、心配事や富の誘惑、快楽がありますと、教会を休みたくなるのは、未だに社会と言ういばらの中に私たちは植えられているからです。

8節、良い地に落ちた種とは、御言葉を聞いて受け入れることです。ルカ815節にはこのように説明しています。「正しい、良い心で御言葉を聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」と。

ここで、御言葉とはなにかについて一緒に考えたいと思います。

ヨハネの福音書114節です。

JAS  John 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 2 この方は、初めに神とともにおられた。

 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

ギリシア語原文で、御言葉を「ロゴス」と言います。このロゴスなる神が主イエス・キリストです。主イエスは御言葉そのものです。神は宇宙を創造される時、御言葉を持って創造されました。人を造る時もそうです。即ち、御言葉は人を生かすことも殺すこともできるものすごい力を持っています。もちろん、私たちが普段しゃべっている人間の言葉もそうです。この言葉の種が地に落ちることで、良い実を結んだり、悪い実を結んだりするのです。 私は最後に、神の御言葉によって救われ、人生の最後まで自分のためではない、人のために生きた一人の日本人のお医者さんを紹介して終わりたいと思います。

 皆さんも106歳で亡くなった日野原さんをご存じだと思いますが、彼は父親が牧師で、母親は敬虔なクリスチャンであったそうです。彼は母親の病が切っ掛けでお医者さんを目指いし、聖路加国際病院で50年間務めたそうです。19703月、日本航空よど号ハイジャック事件があったその時、乗客の一人でありました。当時58歳、四日間人質にされて解放されるまで色んなことを考えたそうです。特に今までの自分の人生を振り返り、自分はもはや死んで生まれ変わったと覚悟し、残りの人生を人のために捧げようと思ったそうです。そして、数万人の患者さんと出会い、1,000人以上の患者さんを天に見送りました。1995年東京地下鉄サリン事件の時、600人を救うことができました。このように日野原さんは彼の生き方を通して、主イエス・キリストのみことばの種を最後まで蒔きつつ、神の国を実現しました。そして人の命を救い、一所懸命人のために生きて、106歳でクリスチャンとして亡くなられました。まさに、ロゴスなる主イエスが十字架の死によって日野原さんを生かし、生かされた彼は試練の中で新しい霊的な命をはぐくむ立派な人生を送ったのです。

 

20185.23       「命令は希望にかわる」

 

第一テサロニケ5:118 「1618節」

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

パウロの書簡の中で最も早い時期AD50年に書かれているものと見なされている手紙が、このテサロニケに住んでいる信徒たちへの手紙です。

当時、パウロはテサロニケに住んでいる人たちに主イエス・キリストの福音を伝えることに成功し、テサロニケにはパウロの伝道によってキリスト教の教会が立ち上がっていました。ところが、テサロニケの教会の人たちは周りから迫害を受けていたと考えられます。使徒パウロはローマ5:3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、」 又、コロサイ1:24「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」 この御言葉から見てわかりますように、パウロにとって苦難と喜びは両立していて、苦難の中にある教会に対して喜びなさいと勧めています。

 ですから、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について、感謝しなさい」と言うのは、個人に対して言っているのではなく、迫害されている教会に対して言っていることが分かります。これは、使徒パウロがテサロニケの教会に対する勧めでもありますが、今は、神様が私たちに望んでおられる神の御言葉として受け入れる必要があります。

ここで「~しなさい」という命令形は、絶対にそうしなければならないという意味ではなく、まるで親が子供に願うように、そうしてほしいという神様からの私たちへのお願いであります。即ち、命令は、信頼関係ではなく、法律に基づく義務であると考えられますが、「~してほしい」という願いは、信頼関係の上での希望であります。つまり、私たちが神様にお願いしているように、神様もまた私たちにお願いし、期待しているからです。

 なので、第一テサロニケ5:12「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。」は、相手に命令するのではなく、相手がやってくれると信じ、希望を持って呼びかける言葉だと考えられます。

ですから、「いつも喜んでいなさい」は、どんなことでも我慢して泣かずに、喜ばなければならないという意味ではありません。

 神様が私たちと共におられるという希望の中で、私たちに望んでおられる神の思いであります故に、これはつらい状況の中でも、神が私たちとともにおられることを信じた時に与えられる希望の喜びであると言えるでしょう。

この喜びは聖霊の賜物の一部であって、キリスト者が努力して造り上げるものではありません。

ガラテヤ5:22「御霊の実は、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、信実、柔和、自制です。」

この「喜び」をギリシア語で「カラ」と言います。韓国の女性グループの名前もここから取ったという説もありますが、この喜びを表す「カラ」という言葉から派生したのが、恵み「カリース」、赦す「スンコロー」、感謝する「ユーカリスト」などの単語になりました。

私たちは神の恵みがなければ、人を赦すことも、感謝することも、喜ぶこともできません。これらは聖霊による賜物であって、自分が努力して出来るものではありません。勿論ここには、信仰も伴います。聖霊によって、信仰も与えられ、喜び、感謝し、赦し、愛し、平安が与えられ、忍耐することも、親切にすることも、謙遜になることも、自制することもできるのです。これらは努力して出来るものではありません。

そして、

「絶えず祈りなさい。」があります。主は今も私たちのために執り成してくださっています。つまり、私たちのために、祈ってくださっています。

私たちが祈れない時でさえ、主は私たちのために祈っておられます。

ローマ8:2627御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

最後に、

「すべてのことについて感謝しなさい。」

ヨセフのように感謝しましょう。私たちの過去の失敗も感謝します。そして、健康であることに感謝します。目が見えることに感謝します。耳が聞こえることに感謝します。両足で歩けることに感謝します。両手があってバイオリンが弾けることに感謝します。借金していないことに感謝します。仕事があることに感謝します。例え、将来病気しても感謝します。又、死んでも感謝します。それは、私たちには、死んで復活するという復活の信仰が与えられているからです。

纏めです。

主とともに生きる人、即ち、聖霊に満たされている人は、いつも喜び、いつも祈り、全ての事に感謝することになりますので、第一テサロニケ5章16-18節の命令にがんじがらめになってとらえる必要もありません。ずばり、聖霊に満たされれば、これらのことは命令ではなく、もはや希望にかわるからです。

以上「命令は希望にかわる」というタイトルで分かち合わせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.52     「ソロモンの夢―主の御心に適ういのりとは?」

第一列王記3:515 、第二歴代誌1:712

 

本日は、ソロモンの夢から学ばせて頂きたいと思います。

人は日ごろ考えていることを夢見ます。或いは、私のように学校での試験にプレッシャーを感じていた者は未だに学校の試験に追い込まれる夢を見ます。私にとってそれは悪夢です。しかし、明るい夢を見るときもあります。それは、若い時、誰かのことが好きになった時がそうです。皆さんと一緒に読みました第一列王記33節を見ますと、ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたとあります。ここで主とは神様のことです。ソロモンは神様を愛し、それだけではなく、父ダビデのおきてに従っていました。ソロモンの母バテ・シェバは嘗てダビデの部下ウリヤの元妻でした。そのバテ・シェバから生まれたソロモンはダビデの他の子どもたちよりも神様を愛し、また神様に愛されていました。

 日ごろソロモンは父ダビデの訓戒に従い、父が信頼している神様を愛したのです。

ある日の夜、神様が夢の中でソロモンに現れ、このように言われました。「あなたに何を与えようか。願いさない。」

その時、ソロモンは第一列王記37節にありますように、夢の中でこのように言います。「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子供で、出入りするすべを知りません。」

ソロモンは、自分のことを小さな子供であり、どのようにこの町から出ればいいか或いは入ればいいかも知りませんと夢の中で神様と会話をします。そしてソロモンの時代には、王様が民衆を裁く権威を持っていまして、王様の正しい判断力が必要だったのです。そこで、ソロモンは9節で夢の中でこのように神様に言います。「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」すなわち、ソロモンは自分が王になることを喜ぶよりも緊張していました。本当に自分が、数えることも調べることも出来ないほど、こんなにおびただしい民をちゃんと治めることが出来るかという疑問の中で、自分の弱さと知恵の足りなさ、そして判断力の無さに気づいていたのです。つまり、ソロモンは日ごろ、自分の内面世界における弱さをちゃんと分析していたことが分かります。

10節には、ソロモンのそのような願い事が主の御心にかなったとあります。

そして、神様は11節から15節において、彼に言われました。「あなたがこのことを求め、自分のための長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵の命を求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心を与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたの後に、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きている限り、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もないであろう。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。とあります。

私たちは今年の初めから毎週水曜日、創世記からいろいろ学ばせて頂きました。その中で、やはり「夢の話」がたくさん出ました。例えば、ヤコブの夢の話やヨセフの夢の話などがそれです。ソロモンが夢の中で神様に求めた知恵は、英語でWisdomと言いまして、経験を通して得るようなものではありません。また、洞察力や判断力を意味するdiscerningも経験や修行を通して与えられるものではありません。

更に、先ほど読みました、9節で「善悪を判断してあなたの民を裁くために聞き分ける心をしもべに与えてください」と言ったソロモンの願い、ここで、「聞き分ける心」とは、英語で[understanding mind]と英語の聖書では訳されていました。即ち、ソロモンに与えられた多くのイスラエルの民を治めるのには、経験を通してではない「理解する心」が必要であったのです。これらをひっくるめて「知恵」と言えるでしょう。つまり、洞察力、判断力、理解力などがそれです。

相手の話を理解しないかぎり、正しく判断することはできません。

ですから、私たちには、このような知恵が今日必要ではないかと思います。誰しも、知恵は欠けていると思います。ソロモンも生まれ持った知恵が足りなかったので、日ごろ内面的自己分析が必要だったと思うし、それができた上で、夢の中で神様に問われた時、今の自分に何が必要かちゃんと答えることができたのではないかと考えられます。

 「I have a dream」で有名なアメリカ人のキング牧師はこのように言いました。

「知識と言うのは、人間が努力すれば成就できるものであるけれども、知恵は、神様からのギープト即ちプレゼントである」と言いました。ごく当たり前な言葉かもしれませんが、人は当たり前な言葉から感動するのではないかと思います。

即ち、一所懸命に努力して経験することだけがすべてではなく、努力しても与えられないことがあると。それが知恵であると。この知恵は、ソロモンのように神様に願い求めるほかはないことを私たちに教えてくれるのではないでしょうか。

くどいようですが、もう一度伝えたいと思います。良いことも悪いことも経験して初めて気づくことがあります。しかし、知恵は人間が頑張って得られるものではありません。知恵は神様からのプレゼントです。

では、主の御心に適う祈りとは何でしょうか?それは、正しい判断力と理解力を与えてくださいと神様に求めることではないでしょうか。

 910節をもう一度読んで終りたいと思います。

9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

 10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

 (1Ki 3:9-10 RSV)

 

 

2018.418       「ヨセフの兄弟たちへの赦し」

創世記45:18 

point5 [今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。]

 

 いよいよヨセフによるエジプトのパラオの夢の解き明かしの通り、エジプトには7年間豊作が続き、また、7年間の飢饉が始まります。

カナン地方に住んでいたヨセフの父ヤコブは、飢饉が起きて2年目に子供たちに命じて、エジプトから食料を得て来るようにします。

 ヨセフは兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られ、奴隷生活と牢獄の生活を13年、その13年目に、王様への夢の解き明かしによってエジプトの総理大臣と任命されます。

そしてヨセフのエジプトの生活は7年間の豊作期間と2年目の飢饉を合計して計算すると、22年。つまり、22年間、ヨセフは家族と別れていたことが分かります。ヨセフが大事にしていた弟ベニヤミンももう立派な大人になっていたに違いありません。

22年という月日の流れもあって、ヨセフはすっかりエジプト人になり、エジプトの娘と結婚して二人の子宝に恵まれていました。勿論、カナンに住んでいるヨセフの兄弟たちもそれぞれ結婚して子供たちができました。

ヤコブの家族66人がカナンの地で飢饉を迎えて2年になりまして、ヤコブの子供たちは家族を養うために、カナンの地方の名産物を入れ物に入れ、それを贈り物とし、乳香と蜜、香料、没薬、くるみとアーモンド、そして銀を持って食料に換えてもらうためにエジプトに行きました。

 ところが、そのエジプトになんと22年前に兄弟たちがいじめて奴隷として売られた弟ヨセフが、エジプトの総理大臣となり、エジプトの全ての食料を管理していたのです。

この話が創世記4246章までに続きます。

そこで、ヨセフは兄たちと22年ぶりに対面することになります。

勿論、ヨセフの兄たちは22年間、弟ヨセフに対して罪を犯したことに後悔していました。

息子ヨセフを失った父ヤコブは22年が経っても、ヨセフのことを忘れることができませんでした。

さて、兄たちを「お前たちはスパイだ」と幾度も試したヨセフは、いよいよ自分のことを兄弟たちに証し、「私はヨセフです。父上は元気ですか。」と聞くのです。そして、神様のなさった御業を兄弟たちに説明します。それが、創世記4538節です。また、創世記4617節です。一緒に読んでみたいと思います。

 

 ここで私たちは、ヨセフの兄弟たちの赦しについて考えてみたいと思います。

ヨセフの苦労、苦しみ、試練の全ては神様のご計画であったとヨセフ自身は告白しています。では、皆さんにとっての今の苦しみは何でしょうか?(ローマ8:18)

ヨセフが兄弟たちを赦せたように、皆さんも本当に誰かを赦しているでしょうか?

キリストの十字架上での赦し、それは、無条件の赦しです。

まだ、神様の前で打ち上げられずに、祈れないことはないでしょうか?

 私の場合、兄とは仲が良かったわけではありませんでした。勿論、兄の立場からは私のことがただ可愛い弟だったかもしれませんが、子どもの頃、兄から殴られたりしたことを考えると、15年以上も兄を赦すことができませんでした。そして、私がクリスチャンになり、色んな苦しみの中で兄を赦す決心を何度もしたんですが、それは肉の思いで、むりやり赦そうとしたことに気が付きました。つまり、私の心の中には、キリストが十字架上で釘打たれ、やりに射されるまで、最後の最後まで神の愛を示し、無条件の愛を現した赦しではなかったことに気が付いたということです。

 創世記455節でヨセフの告白をもう一度読みたいと思います。

5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

 

私たちはいろいろな試練に会います。しかし、例えその試練が理不尽で、納得のいかない試練と苦しみであったとしても神様は意味のない試練は私たちに与えないということです。

私たちの人生はもはや私たちのものではありません。

ヨセフが兄弟たちに告白するのもこの意味ではないでしょうか。

5節にありますように、「神は命を救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

言い換えまして、神様はだれかを救うために、彼らより先に私たちを選び、試練と苦しみを通らせています。また、彼らを救いに導くために、ヨセフのように私たちを先にキリスト者と選んでくださったのです。

ですから、「神様、なぜでしょうか?」と聞きたくなる時、ヨセフを思い起こして、その試練を祈りの中で一緒に乗り越えようではありませんか。 アーメン

 

2018.44        「パラオの夢の解き明かし」

 創世記41章 1416

 

 ヨセフは、13年間奴隷生活と監獄の生活をしました。そして、ヨセフはエジプトに来て11年目に牢獄に閉じ込められていた時、パラオに仕えていた献酌官長と料理官長に出会います。ある日、彼らの夢を神様によって解き明かすことができたヨセフは、献酌官長が釈放されてからは残念ながら忘れられてしまいます。しかし、その二年後に、エジプトの王であるパラオが不思議な夢を見ることによって、その夢を解き明かす人を捜します。

パラオはエジプトの魔術師や知識人たちを読んで彼らに夢を告げますが、パラオの夢を解き明かすことができませんでした。そのとき、献酌官長は二年前に自分が牢獄に入れられた時、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを思い出します。

そこで、パラオは人を遣わしてヨセフを地下の牢獄から呼び出します。そして人々はヨセフをきれいにさせてパラオに謁見させました。

それが先ほど読みました1416節です。14 そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。

 15 パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」

 16 ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

16節ですが、別の訳では「いいえ、私ではありません。神がパラオに平安をお告げになりましょう」とあります。 繁栄と平安は、異なる意味ですが、良く考えてみると、平安がなければ繁栄することは出来ないし、平安であるから繁栄することができることを考えますと、二つの異なる単語は全く異なる単語ではないことが分かります。

ともかく、ヨセフは、パラオの夢を聞き、それを見事に説き明かします。その夢の解き明かしは、2936節にもありますように、エジプト全国に7年の大豊作があり、その後7年の飢饉が起こり、国々を滅ぼすことになるという話です。

では、一緒に2945節までを読んでみたいとおもいます。

 

 このように、神様はヨセフを通して、エジプト全土を治めさせ、神ご自身の御名がパラオの夢の解き明かしによって、崇められるようにします。

神様は、一人の青年の苦しみと試練、そしてその忍耐によってご自身の御名を国々に知らしめているのが分かります。

特に、41節は、ヨセフがエジプトの総理大臣になるきっかけを丁寧に説明しています。

 

口語訳:詩編105:162316  主はききんを地に招き、人のつえとするパンをことごとく砕かれた。

 17  また彼らの前にひとりをつかわされた。すなわち売られて奴隷となったヨセフである。

 18  彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ、

 19  彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。

 20  王は人をつかわして彼を解き放ち、民のつかさは彼に自由を与えた。

 21  王はその家のつかさとして/その所有をことごとくつかさどらせ、

 22  その心のままに君たちを教えさせ、長老たちに知恵を授けさせた。

 23  その時イスラエルはエジプトにきたり、ヤコブはハムの地に寄留した。

新改訳:ダニエル2章25-28節

25 そこで、アルヨクは急いでダニエルを王の前に連れて行き、王にこう言った。「ユダからの捕虜の中に、王に解き明かしのできるひとりの男を見つけました。」

 26 それで王は、ベルテシャツァルという名のダニエルに言った。「あなたは私が見た夢と、その解き明かしを私に示すことができるのか。」

 27 ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。

 28 しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。

 

ヨセフのエジプトのパラオの夢の解き明かしとダニエルのバビロン王の前での夢の解き明かし、その共通点は、イスラエル人の救いと神ご自身の御名があがめられるためであることが分かります。

即ち、ヨセフとダニエルはイスラエルを飢饉から、或いはバビロンの支配から救う仲保者として、その役目が与えられるようになったと考えられます。

では、霊的イスラエル人として加えられた私たちの仲保者はだれでしょうか?

第一テモテ25節には、このように書いてあります。

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただ一人であって、それは人なるキリスト・イエスである」アーメン

今日は、ヨセフによるパラオの夢の解き明かしから、仲保者として来られた主イエス・キリストを考えることができました。

 

2018.328     「神様が説き明かしてくださる」

 

中国の友達がこのような文章を書いていました。

 「春は夢を抱いている。太陽の光は地の上に降り注ぐ。春は美しい姿を帯びる。色とりどりの色彩で描かれている。」

創世記4014

創世記40章は、エジプト王の献酌官と調理官、そして彼らと一緒に牢屋に閉じ込められていたヨセフとの間における夢の説き明かしの話です。

最近、私は夢をよく見るようになりました。しかし、その夢は私にストレスを感じさせる夢です。と言いますのは、学校でのテストの夢、つまり勉強したことのない所をいきなりテストされる夢とか、夢の中で、学校の授業中に突然起こる出来事がそれです。それらの夢は僕をひやひやさせます。 皆さんは、最近どんな夢を見ているでしょうか。

さて、今日も引き続き、ヨセフの話ですが、今日は、エジプト王に仕えていた献酌官と調理官がなんらかの罪で捕まり、ヨセフが閉じ込められている侍従長の牢屋にしばらく拘留されていた時のことです。

 ポティフャルの妻から追い込まれて理不尽な目に遭い、牢屋に入れられたヨセフ。彼がどのくらい牢屋に入れられたのかは定かではありませんが、ヨセフがポティファルの家で奴隷生活をし、監獄に入れられた期間が13年くらいであったと考えられます。その根拠は創世記372節と4146節を見ましたらわかりますように、それは、ヨセフが17歳の時に兄弟たちによって奴隷としてエジプトに売られ、30歳でパラオ王に気に入られ、仕えるようになったと書いてあるからです。

 ここで、ヨセフの13年の奴隷生活を見てみたいと思います。

彼は奴隷生活と監獄での生活を自分の運命であると開き直っていたのでしょうか?兄弟たちに嫌われ、エジプトで仕えていた主人の妻にスーカーされ、挙句の果てには、牢屋での長い生活。その13年間、果たして彼は、何を考えていたのでしょうか。

 さて、この創世記40章で見られることは、先ず、王様を裏切って罪を犯した献酌官(王様に出されるお酒を毒見する人で王様に最も信頼される人)と調理官(王様に出される食事や王の健康状態に合わせて食事を作る責任者で王様に最も信頼されている人)。これに対して、ポティファルの妻からのどんな誘惑があっても神様を裏切らなかったヨセフ。逆に神様に信頼されるよりも神様をもっと信頼していたヨセフ。彼らは対照的に監獄に入れられていました。

 4節です。「侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。」とあります。 ヨセフは、侍従長の命令によって、献酌官と調理官がしばらく監獄に拘留されている間に、彼らを世話しました。

つまり、彼らは、お互いに親しく話を交わしたとも考えられます。

ところで、ある日、献酌官と調理官はそれぞれ別の夢を、それも意味のある夢を見るのです。ここで、創世記37911節を見てみましょう。

9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。

 10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

 11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。

 これを読んでわかりますように、ヨセフは子供のころから不思議な夢を見ていました。その不思議な夢を兄弟たちやお父さんに素直に言ったのですが、無視され、バカにされました。勿論、彼自身も自分が見た夢の意味を知らなかったでしょう。しかし、ヨセフはその夢をも神様のなさるしるしであることを信じていました。

そこで、まさかの牢屋で、献酌官と調理官の夢の話を聞くことになり、神様のなさることを素直に伝えます。

それが5節から23節の夢の話です。一緒に見てみたいと思います。

 

本日のポイントは、8節です。「ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。

 【それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。】

古代エジプトでは、眠りの中で見る夢は、神々からもたらされるプレゼントであると思われていました。私たちは将来のことを知りたがる習性を持っています。だから、未だに占いや予言が流行っているかもしれません。しかし、自分の運命を知ったからと言ってどうすることもできないし、余計に落ち込むだけです。やはり、全ての運命を神様に委ねることが一番、平安だと思います。

ヨセフの話に戻りまして、ヨセフは、「私がその夢を解き明かしてみましょう」と言ってはいません。「神様がそれを解き明かしてくださるのである。」とヨセフの信仰を明らかにしています。

私たちは、少し何かができた時、知らぬ間に自分に栄光を返す場合がありますが、福音を伝えるとは、全てにおいて神様に栄光を返すことであるのを私たちは忘れてはいけません。勿論、ここで、全てとは、良いことも悪いことも、神様のなさることであるということです。

 新約聖書の使徒パウロの話から開きたいと思います。

ピリピ人への手紙4章4-7節 4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

 6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

 7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

そして、ピリピ41113節です。

11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 特にヨセフは、ピリピ4:4-7のパウロの体験と似ていると私は考えます。

即ち、ヨセフはすごい人だ。パウロはすごい人だではなく、すごいのは、唯一神様であると告白しなければなりません。

ですから、へフル人への手紙122節、信仰の創始者であり、完成者である主イエスから目を離してはいけません。この方を今日も、又明日も崇めたいと思います。

今日は、神様が私たちの夢を解き明かしてくださるというタイトルで一緒に学ぶことができました。 以上。

 

 

 

2018.3.28     「神様が説き明かしてくださる」

中国の友達がこのような文章を書いていました。

 「春は夢を抱いている。太陽の光は地の上に降り注ぐ。春は美しい姿を帯びる。色とりどりの色彩で描かれている。」

創世記40章1-4節

創世記40章は、エジプト王の献酌官と調理官、そして彼らと一緒に牢屋に閉じ込められていたヨセフとの間における夢の説き明かしの話です。

最近、私は夢をよく見るようになりました。しかし、その夢は私にストレスを感じさせる夢です。と言いますのは、学校でのテストの夢、つまり勉強したことのない所をいきなりテストされる夢とか、夢の中で、学校の授業中に突然起こる出来事がそれです。それらの夢は僕をひやひやさせます。 皆さんは、最近どんな夢を見ているでしょうか。

さて、今日も引き続き、ヨセフの話ですが、今日は、エジプト王に仕えていた献酌官と調理官がなんらかの罪で捕まり、ヨセフが閉じ込められている侍従長の牢屋にしばらく拘留されていた時のことです。

 ポティフャルの妻から追い込まれて理不尽な目に遭い、牢屋に入れられたヨセフ。彼がどのくらい牢屋に入れられたのかは定かではありませんが、ヨセフがポティファルの家で奴隷生活をし、監獄に入れられた期間が13年くらいであったと考えられます。その根拠は創世記37章2節と41章46節を見ましたらわかりますように、それは、ヨセフが17歳の時に兄弟たちによって奴隷としてエジプトに売られ、30歳でパラオ王に気に入られ、仕えるようになったと書いてあるからです。

 ここで、ヨセフの13年の奴隷生活を見てみたいと思います。

彼は奴隷生活と監獄での生活を自分の運命であると開き直っていたのでしょうか?兄弟たちに嫌われ、エジプトで仕えていた主人の妻にスーカーされ、挙句の果てには、牢屋での長い生活。その13年間、果たして彼は、何を考えていたのでしょうか。

 さて、この創世記40章で見られることは、先ず、王様を裏切って罪を犯した献酌官(王様に出されるお酒を毒見する人で王様に最も信頼される人)と調理官(王様に出される食事や王の健康状態に合わせて食事を作る責任者で王様に最も信頼されている人)。これに対して、ポティファルの妻からのどんな誘惑があっても神様を裏切らなかったヨセフ。逆に神様に信頼されるよりも神様をもっと信頼していたヨセフ。彼らは対照的に監獄に入れられていました。

 4節です。「侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。」とあります。 ヨセフは、侍従長の命令によって、献酌官と調理官がしばらく監獄に拘留されている間に、彼らを世話しました。

つまり、彼らは、お互いに親しく話を交わしたとも考えられます。

ところで、ある日、献酌官と調理官はそれぞれ別の夢を、それも意味のある夢を見るのです。ここで、創世記37章9-11節を見てみましょう。

9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。

10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。

 これを読んでわかりますように、ヨセフは子供のころから不思議な夢を見ていました。その不思議な夢を兄弟たちやお父さんに素直に言ったのですが、無視され、バカにされました。勿論、彼自身も自分が見た夢の意味を知らなかったでしょう。しかし、ヨセフはその夢をも神様のなさるしるしであることを信じていました。

そこで、まさかの牢屋で、献酌官と調理官の夢の話を聞くことになり、神様のなさることを素直に伝えます。

それが5節から23節の夢の話です。一緒に見てみたいと思います。

 

本日のポイントは、8節です。「ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

 【それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。】

古代エジプトでは、眠りの中で見る夢は、神々からもたらされるプレゼントであると思われていました。私たちは将来のことを知りたがる習性を持っています。だから、未だに占いや予言が流行っているかもしれません。しかし、自分の運命を知ったからと言ってどうすることもできないし、余計に落ち込むだけです。やはり、全ての運命を神様に委ねることが一番、平安だと思います。

ヨセフの話に戻りまして、ヨセフは、「私がその夢を解き明かしてみましょう」と言ってはいません。「神様がそれを解き明かしてくださるのである。」とヨセフの信仰を明らかにしています。

私たちは、少し何かができた時、知らぬ間に自分に栄光を返す場合がありますが、福音を伝えるとは、全てにおいて神様に栄光を返すことであるのを私たちは忘れてはいけません。勿論、ここで、全てとは、良いことも悪いことも、神様のなさることであるということです。

 新約聖書の使徒パウロの話から開きたいと思います。

ピリピ人への手紙4章4-7節 4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

そして、ピリピ4章11-13節です。

11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 特にヨセフは、ピリピ4:4-7のパウロの体験と似ていると私は考えます。

即ち、ヨセフはすごい人だ。パウロはすごい人だではなく、すごいのは、唯一神様であると告白しなければなりません。

ですから、へフル人への手紙12章2節、信仰の創始者であり、完成者である主イエスから目を離してはいけません。この方を今日も、又明日も崇めたいと思います。

今日は、神様が私たちの夢を解き明かしてくださるというタイトルで一緒に学ぶことができました。 以上。



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