2018.8.29 「PROTEST」
ルカ22:66-70
66 夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、
67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、
68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
69 しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。
今日は英語の「Pro test」という単語から、その意味を把握しながら、聖書のみ言葉を分かち合いたいと思います。英語の「Pro test」とは、直訳しますと、「抗議をする」、或いは「反対の意見を出す」という意味です。しかし、ここで「Pro」とは、「前に」、「おおやけに」の意味で、「test」とは、試すという意味ではない、「Witness」(証言する)の意味を持っていまして、一つは「おおやけに証言する」意味と、もう一つは「不義を持たずに相手に立ち向かう」という深い意味をもっていることが分かります。
ルカ福音書22章66-70節を見ますと、主イエスは、ユダヤの祭司長と律法学者たちの前でProtestしていることが分かります。つまり、公に証言しています。
70節に、「あなたは神の子ですか。」という質問に対して、主イエスは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と公に神の子であることを証言しています。
私たちが普段考えます、「Protest」とは、反対の意見を出したり、抗議をすることをイメージしがちですが、例えば、会社で上の人から言われた通りに行動するのではなく、少し自己主張して見せたりすることもそれに当たります。自己主張をすると、やはり周りから反感を買うときもあります。主イエスもそうでした。
また、未だに北朝鮮に数万人の政治犯たちが収容所に入れられているそうです。彼らのほとんどはクリスチャンだそうです。彼らは、劣悪な環境で何れ自由になることを夢見て、絶対に生きて、真実を証言しようとします。これも不義を持たずに相手に立ち向かおうとする「Protest」です。
ドイツの宗教改革者ルターも不義に立ち向かって戦いました。1517年、カトリック教会の免罪符販売を批判し、そして聖職者たちの堕落などを95箇条の文書をもってカトリック教会を批判しました。それまでのカトリック教会は、礼拝に置いては意味の分からないラテン語で説教され、会衆は意味を解らないまま、礼拝を形式的に捧げていました。ところが、ルターの宗教改革を切っ掛けに民衆が分かりやすい英語やドイツ語に聖書が翻訳されることになります。それによって、聖職者以外にも一般人が聖書を読めるようになりました。そして、さらにより多くの人々に聖書を読んでもらうためにこの時初めてドイツに置いては印刷技術が発達しました。当時、ヨーロッパではカトリック教会が国家権力を牛耳ていただけに、ドイツで印刷した英語の聖書を持ちこんでイギリスに渡る際に、見つかった場合、没収され、拷問を受けたりしたそうです。
そういったカトリック教会の力から逃げて聖書に生きようとしてProtestし、16世紀の宗教改革を切っ掛けに、多くの人たちがアメリカに渡りました。この人たちをピュ―タンとも言われます。これが今のアメリカにプロテスタント教会が普及された原因になったのです。プロテスタントも「Protest」から派生したことが分かります。
さて、パウロもまた、ローマでProtestをします。
使徒の働き28章16-20節です。
16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。
17 三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
18 ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。
19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。
パウロは自分の家にユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めて、公に証言します。
「Protest」の本来の意味は、原点から外れたことを原点に再び取り戻そうとして公に主張することを意味します。
主イエスは、父なる神の律法を完成するためにこの世に来られました。
律法を破るためではありません。主イエスは口だけ律法を完成しようとしたのではく、ご自分の身体を持ってモーセの律法と旧約の預言を成就し、原点に取り戻すために、公な場所で十字架にかかり、身を張ってProtestされました。
今日は聖書が持っている「Protest」という意味の大切さを学ぶことができました。