20183.21       「ヨセフとともにおられた主」

創世記39章全文

インマヌエルの神は、今も私たちの信仰によって私たちと共におられます。アーメン

21年前、私は大阪から京都の大学に一年間電車で通っていた時のことです。大学の授業が終わって大阪に帰る京阪電車墨染駅で電車を待っている間に、当時インマヌエル教会の看板を発見、その日から私はその看板を見るたびに、いつの間にか「インマヌエルの神」を賛美していました。「インマヌエル、インマヌエル、主の名はインマヌエル、共におられるわが主イエス、インマヌエル。」

インマヌエルの神は、約3,900年前にも主なる神によって愛される人たちと共におられました。その人が創世記39章のヨセフです。

先週も一緒にみましたように、創世記37章で、ヨセフは兄たちに嫌われて、野原でエジプトに向かっていたイシュマエル人の商人に銀貨20枚で売られました。

エジプトへ連れて行かれたヨセフは、エジプトの宮廷で仕えていたポティファル、即ちパラオの身を守る補佐官として仕事をしていたポティファルの家に、ヨセフは奴隷として来るわけです。ヨセフは、ポティファルの奥さんにも見惚れるほど、彼は体格もよく、美男子であったと6節に記しています。

 そのようなヨセフに、主はいつも共におられたと聖書は私たちに伝えています。

これが本日のポイントです。

2節を見てみたいと思います。主がヨセフと共におられたとあります。そこで、彼は幸運な人となりとあります。日本語の聖書には「幸運な人」と訳されていますが、原文から見ますと、或いは英語訳や韓国語訳を見ますと、「He was a successful man成功する人」の意味です。英語聖書のNIV訳には「so that he prosperedprosperの意味は、「繁栄する、栄える、すくすくと育つ、成功をもたらす」というラテン語からの語源を持っています。

 そうです。嘗て主がヨセフと共におられた時、ヨセフは守られ、どこへ行っても良い助け人が与えられ、成功することになりました。

私たちも又主イエスを信じる信仰によって、私たちはヨセフがそうであったように、どこへ行っても栄え、成功することが出来ます。アーメン

 その意味で創世記39章は、ヨセフのストリーの一部分ではありますが、私たち人生においても又主がともにおられ、守られるという約束のしるしであると考えても過言ではありません。

では、34節です。「ヨセフを奴隷として受け入れたポティファル、ヨセフの主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすること全てを成功させてくださるのを見た。

それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手に委ねた。」とあります。さらに、ポティファルがヨセフに、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフの故に、エジプト人ポティファルの家を祝福されました。それで主の祝福が、家や野にある全財産の上にありました。

ここで、幾つかの聖書箇所が思い浮かびます。

詩編118:22には、「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった」とあります。これを引用しているのが、有名なルカ福音書2017節です。[イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった』と書いてあるのは、なんのことでしょう」とあります。

ここで引用されている石とは、メシアを意味します。即ち、ヨセフはメシアではありませんが、兄弟たちによって捨てられ、奴隷としてエジプトに売られてからは、何とエジプトの礎となりました。こう言った観点からも、将来来られる救い主、主イエスと類似していることが分かります。

 さて、ヨセフは外見的にも体格がよく、美男子だったので、主人ポティファルの妻に目をつけられ、おっかけられることになります。

710節です。7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言った。

 8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

 9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

 10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。 (Gen 39:7-10 NKJ)

ここで、ヨセフの素直さと神様への思いがどれほどだったかが分かります。

彼は、自分にすべての財産を任せているポティファルを裏切りたくありませんでした。そして、ポティファルの妻と寝ることは、神に罪を犯す事であると自覚していました。

先日も創世記36章で見ましたように、ヨセフの兄たちは淫らな行動を平気にしました。そのことを父ヤコブも聞いていたのに黙っていました。しかし、ヨセフは兄たちのそういった行動が神様に罪を犯す行為であることを既に分かっていたのです。そこで、主はヨセフを愛しておられ、どこへ行っても彼の成功を保証してくれたのだと考えられます。

1118です。

11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。

 12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

 13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

 14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。

 15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」

 16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。

 17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。

 18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」

 

このように、ヨセフは、やってもないことをやったと、理不尽な目に遭います。そして、ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている刑務所に彼を入れました。しかし、主なる神は、ヨセフとともにおられ、監獄の長の心にヨセフに対する親切な心と憐れむ心を与えられることによって、その監獄にいる全ての囚人をヨセフの手に委ねます。そこでヨセフは監獄でなされる全ての事を管理するようになりました。

これは、犯罪者が刑務所に入って、刑務官長に気に入ってもらって、刑務所を管理する刑務官になるというあり得ないことです。

つまり、23節の二行目にもありますように、それは主が彼と共におられ、ヨセフが何をしても、主はそれを成功させてくださったからであると記しています。

これによって、先ほどの最初の2節にあります、「ヨセフは幸運な人となり」という日本語訳は、実際、ヨセフはどこへ行っても成功する人、繁栄する人であったことがはっきりわかったと思います。

 何度も言いますように、主イエスへの信仰によって、インマヌエルの神は、私たちと共におられ、私たちがどこへ行ってもヨセフのように成功させてくださることを忘れてはいけません。ただし、その成功の条件として、ヨセフのようにどんな誘惑があっても流されずに、常に自分の弱さに自覚していることが求められます。

これが、私たちの人生の繁栄と成功のカギになると言えるのです。

神様のヘセード、恵みが皆さんに豊かにありますように。アーメン

 

 

2018.3.21       「ヨセフとともにおられた主」

創世記39章全文

インマヌエルの神は、今も私たちの信仰によって私たちと共におられます。アーメン

21年前、私は大阪から京都の大学に一年間電車で通っていた時のことです。大学の授業が終わって大阪に帰る京阪電車墨染駅で電車を待っている間に、当時インマヌエル教会の看板を発見、その日から私はその看板を見るたびに、いつの間にか「インマヌエルの神」を賛美していました。「インマヌエル、インマヌエル、主の名はインマヌエル、共におられるわが主イエス、インマヌエル。」

インマヌエルの神は、約3,900年前にも主なる神によって愛される人たちと共におられました。その人が創世記39章のヨセフです。

先週も一緒にみましたように、創世記37章で、ヨセフは兄たちに嫌われて、野原でエジプトに向かっていたイシュマエル人の商人に銀貨20枚で売られました。

エジプトへ連れて行かれたヨセフは、エジプトの宮廷で仕えていたポティファル、即ちパラオの身を守る補佐官として仕事をしていたポティファルの家に、ヨセフは奴隷として来るわけです。ヨセフは、ポティファルの奥さんにも見惚れるほど、彼は体格もよく、美男子であったと6節に記しています。

 そのようなヨセフに、主はいつも共におられたと聖書は私たちに伝えています。

これが本日のポイントです。

2節を見てみたいと思います。主がヨセフと共におられたとあります。そこで、彼は幸運な人となりとあります。日本語の聖書には「幸運な人」と訳されていますが、原文から見ますと、或いは英語訳や韓国語訳を見ますと、「He was a successful man成功する人」の意味です。英語聖書のNIV訳には「so that he prospered」prosperの意味は、「繁栄する、栄える、すくすくと育つ、成功をもたらす」というラテン語からの語源を持っています。

 そうです。嘗て主がヨセフと共におられた時、ヨセフは守られ、どこへ行っても良い助け人が与えられ、成功することになりました。

私たちも又主イエスを信じる信仰によって、私たちはヨセフがそうであったように、どこへ行っても栄え、成功することが出来ます。アーメン

 その意味で創世記39章は、ヨセフのストリーの一部分ではありますが、私たち人生においても又主がともにおられ、守られるという約束のしるしであると考えても過言ではありません。

では、3と4節です。「ヨセフを奴隷として受け入れたポティファル、ヨセフの主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすること全てを成功させてくださるのを見た。

それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手に委ねた。」とあります。さらに、ポティファルがヨセフに、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフの故に、エジプト人ポティファルの家を祝福されました。それで主の祝福が、家や野にある全財産の上にありました。

ここで、幾つかの聖書箇所が思い浮かびます。

詩編118:22には、「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった」とあります。これを引用しているのが、有名なルカ福音書20章17節です。[イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった』と書いてあるのは、なんのことでしょう」とあります。

ここで引用されている石とは、メシアを意味します。即ち、ヨセフはメシアではありませんが、兄弟たちによって捨てられ、奴隷としてエジプトに売られてからは、何とエジプトの礎となりました。こう言った観点からも、将来来られる救い主、主イエスと類似していることが分かります。

 さて、ヨセフは外見的にも体格がよく、美男子だったので、主人ポティファルの妻に目をつけられ、おっかけられることになります。

7-10節です。7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言った。

8 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。 (Gen 39:7-10 NKJ)

ここで、ヨセフの素直さと神様への思いがどれほどだったかが分かります。

彼は、自分にすべての財産を任せているポティファルを裏切りたくありませんでした。そして、ポティファルの妻と寝ることは、神に罪を犯す事であると自覚していました。

先日も創世記36章で見ましたように、ヨセフの兄たちは淫らな行動を平気にしました。そのことを父ヤコブも聞いていたのに黙っていました。しかし、ヨセフは兄たちのそういった行動が神様に罪を犯す行為であることを既に分かっていたのです。そこで、主はヨセフを愛しておられ、どこへ行っても彼の成功を保証してくれたのだと考えられます。

11-18です。

11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。

12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。

15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」

16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。

17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。

18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」

このように、ヨセフは、やってもないことをやったと、理不尽な目に遭います。そして、ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている刑務所に彼を入れました。しかし、主なる神は、ヨセフとともにおられ、監獄の長の心にヨセフに対する親切な心と憐れむ心を与えられることによって、その監獄にいる全ての囚人をヨセフの手に委ねます。そこでヨセフは監獄でなされる全ての事を管理するようになりました。

これは、犯罪者が刑務所に入って、刑務官長に気に入ってもらって、刑務所を管理する刑務官になるというあり得ないことです。

つまり、23節の二行目にもありますように、それは主が彼と共におられ、ヨセフが何をしても、主はそれを成功させてくださったからであると記しています。

これによって、先ほどの最初の2節にあります、「ヨセフは幸運な人となり」という日本語訳は、実際、ヨセフはどこへ行っても成功する人、繁栄する人であったことがはっきりわかったと思います。

 何度も言いますように、主イエスへの信仰によって、インマヌエルの神は、私たちと共におられ、私たちがどこへ行ってもヨセフのように成功させてくださることを忘れてはいけません。ただし、その成功の条件として、ヨセフのようにどんな誘惑があっても流されずに、常に自分の弱さに自覚していることが求められます。

これが、私たちの人生の繁栄と成功のカギになると言えるのです。

神様のヘセード、恵みが皆さんに豊かにありますように。アーメン


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2018.314          「ヨセフについて①」

創世記37:111

 

創世記37章の特徴は、25章との類似点があることに気が付きました。

それは、創世記25章は、エサウとヤコブのもめ合いとその原因と分かれを記しているのに対して、37章も又、イスラエルの子供たちの中で、ヨセフがどのようにしてエジプトに売られることになったのかを25章のヤコブのストリーのように説明しています。しかも、同じ20年という年数で互いに離れ、最終的には兄弟たちが一緒に顔を合わせる場面もストリー的に類似しています。

では、初めにヨセフは何が原因でエジプトの奴隷として売られることになったのかを考えてみたいと思います。

一つは、2節にありますように、ヨセフは17歳の時、父の妻ラケルの女奴隷ビルハの子供たちであるダンとナフタリ、そしてレアの女奴隷ジルパの子供であるガドとアシェルの腹違いの兄弟たちと一緒に過ごしていましたが、彼らの悪い噂をヨセフが父ヤコブにチクったことによって彼に嫌われます。その悪い噂とは何かはわかりません。

そして、もう一つは3節、4節に、イスラエルは彼の息子たちの誰よりもヨセフを愛していたこと、このようなえこひいきが原因になります。ここで、イスラエルとはヤコブのことです。聖書はイスラエルとヤコブを混ざって使う場合があるますが、厳密に言えば、イスラエルは神と戦って勝った者を意味して、神に選ばれた民族を現します。そして、ヤコブは戦う者、だます者を意味して、ヤコブ個人を示します。私の個人的な考えですが、ここでヤコブの代わりにイスラエルと書いたのは、将来のイスラエルの分離をほのめかしているのではないかと考えられます。さて、ヤコブがヨセフを息子たちの誰よりも愛したのは、ヤコブが老人になって与えられた子であったからです。それで、ヤコブはヨセフに、そでつきの長服を作ってあげることによって、兄弟たちから妬みを起こし、兄弟たちは彼を憎んでいました。

もう一つは、5節です。ヨセフの夢の話が兄弟たちの怒りを招きました。611節を見てみたいと思います。

ヨセフは自分が見た夢を自慢することなく、兄たちやお父さんに素直に伝えました。8節、10節にありますように、彼らは、ヨセフの夢を将来に起こる出来事として預言しているかのように見えます。8節です。「兄たちは彼に言った。『おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。』こうして彼らは、夢のことや、言葉のことで、彼をますます憎むようになった。」言葉のことで???

そして、10節です。「ヨセフが父や兄たちに話した時、父は彼を叱って言った。『おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私やおまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏してお前を拝むとでも言うのか』」

まさか、ヨセフ自身も家族の誰も、その夢がまさ夢になるとは思ってなかったでしょう。

ヨセフの性格は、このようにお兄さんたちが悪いことをするとお父さんにそのまま告げるし、自分が見た夢も隠さずに伝える少し馬鹿正直なところがあったと思われます。

しかし、神様は彼の素直さと正直さを好まれたのかもしれません。

皆さんは、どんな夢を見たことがありますか。皆さんがもし、不思議な夢を見たなら誰かに言ってみるのはどうでしょうか。 私は寝る時に見る夢よりも、子どもの時、夢見たのが現実になったことがあります。(個人的話を含む)

 さて、以上、ヨセフが兄弟たちに憎まれ、エジプトに売られた原因を確認することができました。

では、ここでイスラエルつまり、ヤコブの十一人の子供たちについて見てみたいと思います。創世記352226節です。一緒に読みましょう。

 ルベンはヤコブの長男ですが、なんと父ヤコブの女奴隷であるビルハと寝たとあります。ヤコブはこのことを聞いてわかっていましたが、聖書にはその後のことは何も記していません。即ち、先ほど創世記372節で確認しましたように、ヤコブの家族関係は性的に乱れていたことが見て取れます。

 さて、ある日のことです。ヨセフの兄たちは父ヤコブの羊の群れを連れて、遠くまで遊牧生活をすることになります。そこで、ヤコブは17歳のヨセフに兄たちが元気でいるかどうか様子を見て来いと送ります。ところが、兄たちは遥か彼方にヨセフが来ていることを見つけて彼を殺そうとたくらみます。

創世記3720節です。「さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」このように兄弟たちはヨセフの夢を試そうとします。しかし、兄ルベンは、ヨセフを殺すことなく、荒野の穴に投げ込むことを提案します。そして、ヨセフが来たとき、兄たちはお父さんが作ってあげた服をはぎ取って、彼を穴の中に投げ込みました。ルベンはどこかに行きます。ルベンがいない間に、ちょうどイシュマエルの商人たちがエジプトへ下って行く所、兄弟たちは長男ルベンに相談することなく、ヨセフを彼らに売ってしまいます。

2628節です。「すると、ユダが兄弟たちに言った。『弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。我々が彼に手をかけてはならない。彼は我々の肉親の弟だから。』兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引きあげ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。」

ここで一緒に考えてみたいと思います。ユダは弟ヨセフを銀二十枚で売りました。レビ記275節で確認できますが、人身売買の相場として、5歳から20歳までの男の子の値段です。主イエスの弟子イスカリオテのユダも又主イエスを銀30枚、つまり、大人の女性の値段で売りました。ヨセフを売ったユダも、主イエスを売ったユダもあいにく同じ名前です。これは偶然でしょうか。私もわかりません。

後に主イエスはヨセフを売ったヤコブの十二部族の一族であるユダの子孫であるユダヤ人たちによって十字架にかかることになります。そして、ヨセフが経験した苦しみを受けます。侮辱され、ののしられます。つまり、苦しみと救いの観点からヨセフとキリストは類似しているところがあります。

主イエスを売ったユダは、十字架の死と復活の役目を果たすために用いられました。そして、ヨセフの腹違いの兄ユダは、ヨセフをエジプトに売ることによって、ヨセフの夢を後に現実化させる立派な役割を果たすことになります。すなわち、ヨセフは、エジプトの首相になり、イスラエルを飢饉から救うことになりますし、主イエスも又、十字架の死と復活によってご自分の民を救いに導くことになります。次回、もっと具体的にヨセフの話を見てみたいと思います。

最後に創世記372936節を一緒に読んで終わりたいと思います。

29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、

 30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」

 31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。

 32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください」と言った。

 33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」

 34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。

 35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。

 36 あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。

 

 

2018.311         「ヒゼキヤの信仰」

 

第二列王記18:18、第二列王記19:35、 (第二歴代誌29:111

 《今日は、2011311日、東北震災によって、たくさんの命が失われた日です。》

本日は、ヒゼキヤ王の信仰から学んでいきたいと思います。

まず、本日の聖書箇所の歴史的背景を考えてみたいと思います。これは、2,600年前の出来事であり、南ユダを支配していたヒゼキヤ王の年代記であります。そして、ヒゼキヤ王のそばには預言者イザヤが同年代の人物として同じ国で活躍していました。それでは、そもそもなぜ当時ヤコブの子孫であるイスラエルは、今の韓国と北朝鮮のように、北イスラエルと南ユダに分けられるようになったのでしょうか。その根拠は、第一列王記11912節で確認できます。私が読ませていただきます。「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、他の神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。 それ故、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き抜こう。』」

 今、私が第一列王記11912節をお読みしましたように、南ユダと北イスラエルの分かれの原因はソロモン王の時代に遡ります。その原因は何だったのでしょうか。それは、ソロモン王の偶像崇拝からなのです。即ち、全ての富と知恵、1,000人の女そばめと妻たちを持っていたソロモンは、残念ながら神様からの祝福を乱用し、挙句の果てには、700人の王妃を外国人の女性たち、つまり、偶像崇拝している人たちを彼の家族にすることにより、ソロモン王の晩年、彼が年を取り、力が弱くなった時に、彼女たちはイスラエルのアイデンティティを崩して、山の上の高い所やあちらこちらで、彼女たちの神々への偶像崇拝をし始めたのが切っ掛けだったのです。

 そこで、主なる神は、主の命令を守らなかったソロモンとその子孫たち即ち、イスラエルに対して、ソロモンの死後、ソロモンの家来より軍事グーテタを起こさせることによって、イスラエルの11部族はソロモンの家来が支配する北イスラエル側に、これがイエス様の時代にはサマリヤになるんですが、そして残り一つの部族は、南ユダに分裂されることになったのです。北イスラエルは、更なる偶像崇拝をすることにより、北の国アッシリヤから滅ぼされるようになります。そして又、南ユダも、残念ながら、真の創造主、唯一の神、即ちイスラエルをエジプトの奴隷から解放してくださった神様から徐々に離れ、外国の神々を受け入れることによって、主なる神は主から選ばれた最後の民である南ユダ王国をも又北の国アッシリヤを通して滅ぼされることを許します。しかし、その滅びは彼らが神に立ち変えてほしいという神からのご計画でもあったのです。 ところが、南ユダに幸いにも敬虔な信仰を持ったヒゼキヤが王様になることにより、つまり、彼は、偶像崇拝をやめさせ、エクソドスの神に立ち返るようにユダヤ人たちに訴え、彼らを霊的に目覚めさせることで、主なる神はヒゼキヤ王の側に立つことになります。 つまり、ヒゼキヤ王の敬虔な信仰が神の心を動かしたのです。

歴史的背景の説明が長くなりましたが。このように、エクソドスの神はヒゼキヤ王の行動を一部始終見ておられました。そこで、神は、南ユダがいよいよ北の国アッシリヤにより攻撃されようとした時、預言者イザヤを通して、神様の助けを強く求めることによって、南ユダを取り囲んでいたアッシリヤの軍人185,000人は、神様が送った一人の天使によって一晩で一掃されることになります(第二列王記19:35)。大体、このようなヒストリーは第二列王記1819章、そして第二歴代誌32章、又イザヤ書36章にて確認できます。

 前触れが長くなりましたが、本日はヒゼキヤ王の信仰から学んでいきたいと思います。

では、第二列王記18:37節を一緒に見てみましょう。 

3 彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。

 4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。

 5 彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

 6 彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。

 7 主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。

ヒゼキヤ王の信仰の一つ目は、3節にもありますように、主の目にかなうことを行なったことであります。 私を含めて皆さんはいかがでしょうか。何かをする時、今まで主の目にかなうことを行おうと努力したことはあるでしょうか。もしかしたら、主が喜ばれると勘違いして、自分の目にかなうことを行なってしまい、むしろ失敗した経験があったのではないでしょうか。

そして、4節に、彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシュラ像を切り倒し、モーセの作った青銅のヘビを打ち砕いたとあります。二つ目は、偶像崇拝です。まさに、私たちが住んでいる日本にも、そして、海外の到る所には今も、2,600年前のイスラエル人たちが偶像崇拝していたある物体を神々として認め、伝統の名の下で私たちの風習や生活習慣にまで影響を及ぼしたりしてはいないでしょうか。例えば、日本の地域ごとに行われる祭りがそれです。

 聖書ははっきり語っています。つまり、これらに香をたいて、拝むことは偶像崇拝であると。

そして、形ある物に知らず知らずに手を合わせながら、二心を持ち、教会に来て礼拝することは神に喜ばれる行為ではありません。

即ち、私たちが主の前で祈りに祈ってもその祈りが天に届けられない理由は何でしょうか。それは、私たちの心のどこかに主の目に適うことよりも、自分の目に適うことを行なおうとしたりして、その二心が原因で、私たちの祈りが天の扉を開くことが出来なかったのではないでしょうか。 ですから、祈りは鍵です。しかし、間違った鍵で天の扉を開くことは出来ません。

 そして、三つ目、5節です。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた」とあります。また、6節には、「彼は、主に堅くすがって離れなかった」とあります。正直、私たちは、どれほど主なる神に信頼し、堅くすがっているでしょうか。

讃美歌が思い出します。「主にすがるわれに 悩みはなし十字架のみもとに荷をおろせば歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ歌いつつ歩まん この世の旅路を」。アーメン

ヒゼキヤ王は敵と戦うとき、このような気持ちで主に委ねて向き合ったのかもしれません。

 私たちがだれかを信頼しているならば、困った時はよくその人に電話をし、どうしたらいいか相談したりします。もし、私たちが主なる神を信頼していれば、ヒゼキヤ王のように敵が自分を苦しめる時に、主に自分の悩みを告白するようになると思います。これが祈りであり、主に信頼している証です。

 私たちは、ヒゼキヤ王の三つの信仰、即ち、一つ目は、主の目に適うことを行なうこと。二つ目は、偶像崇拝をしないこと。三つ目は、主に信頼し、堅くすがることを一緒に学びました。では、ヒゼキヤ王がこれらを行動で示すことで結果的にどうなったのでしょうか。

 第二列王記18章17節です。「主は彼と共におられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。」とあります。なので、アッシリヤの陣営185,000人がヒゼキヤ王の前でイスラエルの神を見下してバカにした時、ヒゼキヤ王は怒りに燃え、預言者イザヤを通して神様に強く訴えることにより、その祈りは天に届けられたのです。

一緒に、第二列王記19章35-37節を見てみたいと思います。

 

第二列王記19章35節にありますように、神は一人の天使を送りまして、アッシリヤの陣営185,000人を打ち殺しました。ここで、185,000人という数字的疑問がわきますが、日本の自衛隊の人数が24万人くらいです。しかし、その当時、小さな南ユダを侵略するために185,000人を送ったのは圧倒的軍事力だと考えられます。ヘブライ語原文を見ても、他の英訳を見てもこの185,000人は間違いありません。同じ内容を載せている第二歴代誌32章21節には、アッシリヤの陣営の数字は出なくて、「主は一人の御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた」とあります。しかし、そこには、第二歴代誌32章20節のヒゼキヤ王と預言者イザヤが祈りを捧げ、天に叫び求めたとあります。ここで、一人の御使いとは、主イエス・キリストではないかと考える学者もいます。 私たちは天使と言えば、かわいい赤ちゃんのような存在に思われがちですが、実は聖書に出て来る天使は裁き司の役割を持った力強い神の使いを意味します。 また、私たちが祈る時、静かに祈ることも時には必要ですが、ヒゼキヤ王と預言者イザヤのように主に叫び求める祈りも時には必要だと思います。聖書のイスラエルの先人たちがそうしたように、私たちも主に叫び祈ることに挑戦するのはいかがでしょうか。その祈りは必ず叶えられると信じます。アーメン

 ともかく、ヒゼキヤ王の叫び求めた祈りに答えられた主は、今私たちが信仰している同じ神であることを忘れてはいけません。この神様がいつも皆さんと共にありますように。アーメン。

さて、ヒゼキヤ王の死後600年後、人の身体をもって聖霊によってこの世にお生まれになった方がいます。この方が主イエス・キリストです。この方は本来神でありました。

この主イエスは33歳の時、数千、数百のユダヤ人たちと異邦人であるローマの兵隊たちの前で、裸のまま私たちの罪を背負い、十字架にかかられました。そして、死んだだけで終わらすに、三日目に蘇りました。確かにこの方は、ヒゼキヤ時代にも働かれた神様であり、185,000人の敵を一人の天使を遣わして全滅させた神です。主イエスは十字架にかかられる時、数千、数百の群衆と兵隊たちを一人の天使を送って打ち殺すこともできましたが、あえて、そのようなことはなさらずに、私たちの罪のために十字架にかかられ、実は弱くない方が弱い体を持って死なれたのです。 そして、主イエスの弟子であるペテロは、主イエスを逮捕しに来た群衆、その中の大祭司のしもべに撃ってかかり、剣を抜いてその耳を切り落としました。その時、主イエスはペテロに向かってこのように言われました。

マタイ26章52-53節です。「そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅ぼされます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団(72,000人)よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。』」

天使たちの力を動かすことができるこの方こそ、私たちの救い主です。そしてこの方はご自身の十字架の死によって、永遠のいのちへの希望とこの世においての信仰を私たちに与えられたのです。これを未信者の人に説明しようにも説明することは難しいのです。

なぜなら、私たちの信仰は神様からのプレゼントであるからです。  即ち、今から2,600年前に南ユダのヒゼキヤ王の祈りを聞かれた神、この神が主イエス・キリストであります。この方は聖霊によって今も私たちの信仰と信頼の故に働き続けられ、私たちがどこへ出陣しても勝利を与えてくださる方であり、さらに今も、秩序にそって、宇宙を司り、太陽と月を昇らせ、私たちが救われるまで、つまり、永遠のいのちが与えられるまで執り成しをし続けてくださる真の神であります。 皆さん、この方にすがって、この世の旅路を全うしようではありませんか。

アーメン

 

2018.228       「神が恵んでくださった証」

創世記33111

 

 ヤコブにとって、20年ぶりに兄エサウに会うことが残念ながら嬉しくありませんでした。むしろ、彼の人生にとっての最後の日になるかも知れないとの恐怖で、前日の夜、天使が現れた時、夜明けまでその天使を手放してくれませんでした。彼のしぶとさは、彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられるほどで、神の御使いにとっては、大変な行動でした。   そこで、ヤコブは天使とのスモウ取りで、もものつがいが外れます。 そして足を引きずってしまいます。 この光景はヤコブにとって決して夢ではありませんでした。むしろ聖書は、ヤコブはなんと顔と顔を合わせて神を見たと表現しています。それは、昔から神を見る者は死ぬと言われていたのですが、ヤコブの命は幸い助かったからです。

 神を見て、更に神と格闘し、命救われたヤコブは、400人の勇士を引き連れてやって来る兄エサウにいよいよ出会います。しかし、彼は、夜通しで眠れることなく、兄エサウとの20年ぶりに会うことへの恐れと緊張感に包まれていました。そしてヤコブは、神の天使からの命の保証と祝福をうけたにもかかわらず、悪知恵を働かせます。

と言いますのは、兄エサウが400人をも引き連れてやって来ることに対して、万一の攻撃を心配し、一番先頭には、女奴隷たちとその子供たちを立たせ、その後に愛していない妻レアとその子供たちを立たせ、そして、群れの最後に自分がもっとも愛しているラケルとヨセフを置きました。  

ここで余談ですが、イスラエルの12部族になるヤコブの男の子たちはこの時点ではまだ十一人です。ベニヤミンはラケルによってヨセフの弟として後に生まれます。

 さて、ヤコブの群れの配置から考えますと、ヤコブの悪知恵は20年前に兄エサウから長子の権利を奪い取る時と何も変わってはいませんでした。これは私の考えなんですが、人がどんなに色んな経験をし、へりくだることを学んでも、やはり、生まれ持った性格は変わることは難しいと思います。つまり、私たち人間がヒトを変えるのにも限界があるということです。 

さて、ヤコブ自身は、その群れに先立って進みました。彼は、兄エサウに近づくまで、七回も地に伏してお辞儀をしました。ヤコブは、何を考えながら、双子である兄にそこまでしたのでしょうか。20年前のことを思い起こしながら、あの時の罪を償えるなら、何でもやるという命拾いの気持ちだったのでしょうか? 彼の頭には極度の緊張さのあまり前日夜通しで、神の天使と格闘した疲れすら感じなくなっていたのかもしれません。 

ところで、兄エサウは、足を引きずりながら、遠くから7回も地に伏して自分の方にお辞儀しているヤコブを見て、何を考えたんでしょうか。足を引きずっている弟ヤコブの疲れた姿に復讐への気持ちは一瞬にして消えたかもしれません。そこで、エサウはヤコブの方へ走って行き、彼を抱きしめて口づけします。そして、二人は泣きました。 私の考えですが、もし、ヤコブが前日神との格闘もなく、元気な姿で、目をきょろきょろしながら、何もなかったかのように「おー、兄貴、元気でしたか?」と聞いていたならば、兄エサウはきっと400人の勇士に命じて皆殺ししていたかもしれません。ここで、二人の性格を考えてみたいと思います。兄エサウは狩りが好きで野性的な性格を持っていました。その分、過去のことでくよくよしないあっさりした性格を持っていたのではないかと考えられます。それに対して、ヤコブはオタク気質があり、過去の罪悪感にとらわれていました。

又、ヤコブは兄エサウに赦されますが、創世記34章で、他人の罪は決して赦さない性格であることが分かります。このように、兄エサウの意外な行動で、ヤコブはその罪から解放されます。

 ここで、ルカの福音書15章の放蕩息子の話が思い出します。ルカ15:24には、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と父は言います。 

さて、本日のポイントですが、エサウは目を上げ、ヤコブの女たちや子供たちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねました。そこで、ヤコブは、「神があなたの僕に恵んでくださった子供たちです」と答えます。ここが大事です。この箇所で、あなたの僕とは、ヤコブのことで、兄エサウに対して、自分を徹底的に下げて、相手を高めることで命の危険から逃れようとします。ヤコブは初めて神が自分を祝福し、恵んでくださったことを証しています。夜通しで神の天使との格闘でようやく気づいたのでしょうか。それまでヤコブはまだ神への信仰はありませんでした。しかし、兄エサウの赦しから、ヤコブは自分が最初杖一本のほか、何も持たずに家を出て、20年間これまでたくさんの子宝に恵まれ、財産をもち、このような祝福を受けたことは、自分の努力ではなく、神の恵みであったことを兄エサウに告白しています。つまり、「神があなたの僕に恵んでくださった子供たちです」と。 やはり、私たちも、キリストの十字架によって救われて、永遠のいのちが保証されているからには、ヤコブのように、人の前で堂々と、私たちの人生において神が恵んでくださったことを証できるようになれば嬉しいと思います。

最後に、私の証しを持ちまして終わらせていただきます。

この前、久しぶりに以前私がドラムを教えていた佐藤さんに会ってきました。もう彼に会ってから12年。彼は72歳になって今も和食屋を経営しています。久々に挨拶しに行ったところ、9年前にごみ収集で知り合った別の会社の運転手さんも食事に来ていまして、久しぶりに出会ったことで、色んな話に盛り上がりました。そして、話の最後に私が日本人に、日本の文化に感謝していることを証しました。それは、私が本当の意味でクリスチャンになれた切っ掛けになったからです。彼らとの話の中で、私が日本語の聖書を読んで本当の神存在が分かったことをも証出来ました。私のそのような過去の色んな証を一緒に聞いていた他のお客さんも、私の話に感動してくださり、彼らにも何気なく教会の宣伝と福音を伝えることができました。証の最後に、「私たちの失敗も出会いも偶然は在りませんよ。すべては神のご計画の中にありますから」と、大胆に彼らに伝えることができました。

 小さな出会いの場所でも、主なる神をお証出来たことに感謝します。 アーメン

 

2018.214        「神を感動させる祈りとは」

 

創世記32:2432

ヤコブは母リベカの兄ラバンの家で20年間住んでいました。ヤコブはラバンの二人の娘たちのために14年間。そして、ラバンの羊の群れのために6年間、合計20年間ラバンに仕えてきました。それなのに、ラバンは幾度もヤコブへの報酬を変えたのです。

それにもかかわらず、主なる神は、ヤコブの悩みとその手の労苦を顧みられました。そして、妻であるレアとラケル、女奴隷たちによってたくさんの子宝に恵まれました。それだけでなく、不思議な方法で、正当な方法でたくさんの羊や山羊、らくだ、牛などが与えられ、彼の財産となりました。ある日、ヤコブは自分に対するラバンの態度やラバンの息子たちが以前のように優しくないのに気が付きます。その理由は、ヤコブが見る見るうちに祝福されて財産が増えていったからです。

そこで、ヤコブは二人の妻レアやラケル、そして奴隷たち、子供たちを連れてラバンの家からカナンの地にいる父イサクの所へ逃げる決心をします。

ヤコブはラバンの家から離れる時も、ちゃんと神の使いの声に従って行動しました。勿論、ヤコブの群れが逃げる時、ラバンに追っかけられたのですが、ヤコブは旅の途中ラバンと石塚を作って契約を結びます。その石塚はヤコブとラバンの境界線となりました。

創世記3212節です。「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見た時、『ここは神の陣営だ』と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。」

 私たちも人生の旅を続けているとき、ヤコブに現れた神の陣営が、私たちにも現れるとどんなに心強いことでしょうか。

 ヤコブは20年ぶりに地元に帰るのですが、長子の権利を奪った兄エサウのことが気になって、それほど嬉しくはありませんでした。むしろ、兄アサウを恐れていました。それは、兄エサウが弟ヤコブを殺そうとしていたからです。それから、20年が経ちます。そこで、ヤコブは前もって兄エサウの様子を探るためにエサウが住んでいる所に使者を送ります。 

 その使者がヤコブの所に帰ってきて、兄エサウは、ヤコブを迎えに400人を引き連れてやって来ると言う話を聞きます。そこで、ヤコブは非常に恐れて心配し、切羽詰まった思いでこのように神様に祈りました。

32912節です。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられました主よ。 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子供たちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数え切れない海の砂のようにする』と仰せられました。」と、このように具体的に祈るわけです。

ヤコブが家を出て20年。色んな経験をして、彼自身も兄エサウの長子の権利を奪ったことを申し訳なく思い、兄の怒りをなだめるためにたくさんの贈り物を用意していました。勿論、この贈り物で兄の怒りが収まるとも思っていませんでした。ですから、ヤコブはヤボクの渡し(Ford)を渡った時、二人の妻と、二人の女奴隷と、十一人の子供たちを先に渡らせて、自分だけ、あとに残り、神の使いと夜明けまでお相撲を取ります。これが有名なヤコブの格闘の話です。

それでは、本日の本題に行きたいと思います。前触れが長くなりました。

ヤコブと言えば、創世記28章のヤコブの夢の中での神の御使いたちが、梯子を上り下りしている場面と、創世記32章のヤボクの渡しで、ヤコブが神の使いと格闘した場面が挙げられます。創32章の神の天使とのスモウ取りは、色んな角度で解釈されています。つまり、ヤコブのスモウのことを神の心を動かす「祈りの大切さ」であると、ほとんどの説教者は語られています。しかし、このようなヤコブと天使との格闘或いはスモウ取りは、創33章にあります兄エサウとの20年ぶりの再会の緊張さ、いや、下手すると自分の命が危ない危機感の中において、必死に、自分を守って祝福してくださるように、夜通しでそれも太陽が上るまで数時間、さらに自分のもものつがいが外れるまで天使にしがみ付いて格闘するのに十分な行動であったとも言えます。

そこで、ヤコブは創32:28節で、神と戦って勝利したことで、ヤコブからイスラエルという名前に変えられました。ここで、一緒に考えてみたいと思います。

私たちは、悪魔と戦って勝利するのも難しいのに、神と戦って勝利するとは、とんでもないことだと私は思います。これは、比喩的、アレゴリカルな表現だと思います。

32章のヤコブの格闘は信仰からと言うよりも生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれての勝利だと思います。 例えば、マルコの福音書72430節で、汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、主イエスの足元にひれ伏して、自分の娘から悪霊を追い出してくださるように主イエスに願い続けました。すると、主イエスは言われました。ユダヤ人たちにあげるパン、つまり恵みを取り上げて、小犬のようなあなたみたいな異邦人に投げてやるのは良くないことですと言います。しかし、女は答えて言いました。「主よ。そのとおりです。しかし、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」そこで、主イエスは言われました。「そうまで言うのですか。それなら家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていたと福音書は伝えています。  この女性の話とヤコブのスモウ取りの話の共通点は何でしょうか。それは、切羽詰まった状況に置かれて、わらにもすがる思いが神を感動させたことです。何をどのように祈ればいいか分かりませんが、女性のように、或いはヤコブのように必死に願い続けることで、天使も感動し、主イエスも感動され、求める人に祝福が保証されたのです。たくさん祈ったから叶えられるような祈りの量ではないことが分かります。つまり、神に祈り求める時の真剣さが大切です。それが神に伝わったかどうかがポイントであると思います。

 

2018.27          「神の憐れみ」

創世記29:1527

 

 ヤコブの母リベカ、その兄ラバンは数百キロ離れたハランに住んでいます。ハランの近くに来たヤコブはラバンの娘ラケルに一目ぼれします。

ヤコブはラケルを愛していたので、ラケルのために7年間ラバンの家で奉仕しました。ヤコブは彼女を愛していたので、結婚のために待つ7年間がまるでほんの数日のように思われたそうです。時が満ちて、ヤコブはラバンに私の妻を下さいと言います。ラバンは一日中祝宴を開きます。酒に酔っていたヤコブのところにラバンは、下の娘ラケルではない上の娘レアを、ヤコブの所に入れます。翌朝になって、見ると、ラケルではないレアが自分の部屋にいることにヤコブはびっくりします。それでヤコブは、ラバンに「なぜ、私をだましたんですか。」と言います。しかし、ラバンは答えました。「われわれの所では、長女より先に下の娘を嫁がせるようなことはしない」と。

ここで、ヤコブの妄想を考えてみたいと思います。一つは、ヤコブの片思いです。そして誰からも娘ラケルのために7年間働いてくれと言われてないのに自ら7年と言う年数を申しだして働いたことです。もう一つの妄想は、期間が満了したので私の妻を下さいと申し出ます。ヤコブは、ラケルのことを自分の妻だと思っていたんでしょうか。それで彼は7年間も我慢できたかも知れませんが、親の立場とラケルの立場を理解することなく、妄想の中で7年を待っていたことが分かります。しかも、ラケルの件に関して、ちゃんとした契約書も作らずに、口頭のみで約束したのは、いくら親戚関係とはいえ、社会をあまく見過ぎたことです。それだけヤコブは人生をあまく見ていたのかもしれません。そこで、ヤコブはラケルを妻にするためにもう7年もラバンの家で働かざるを得ませんでした。ここで又、考えてみたいと思います。一つは、ヤコブ自身はラバンに騙されて、さらに7年間仕えるようになったことを悔しがると思います。しかし、嘗てヤコブは兄エサウを騙して長子の権利を奪い取りました。今、彼はラバンに騙され、娘ラケルを妻にするために後7年間又働かないといけないという羽目になります。ここで、ヤコブは長子の権利を奪われた兄の気持ちが少しずつ理解できるようになったのかもしれません。

人は被害者になってみないと被害者の気持ちが分かりません。加害者は、冗談で、或いはいたずら半分でやるかも知れませんが、被害者には一生忘れられない心の傷になる場合が多いのです。

つまり、加害者も、被害者の気持ちになって初めて、被害者の辛さが分かってくるのです。

その意味で、ヤコブにとってのラバンの家での20年間の生活は、兄エサウを騙したことへの反省できる矯正期間だっだのかもしれません。

 では、本日の主題である神様の憐れみについて創世記29章から考えてみたいと思います。

私たち人間はそれぞれ弱さを持っています。つまり、例えば、目に見える身体的弱さ、身体の不自由さ、精神的弱さ、目の弱さなどがそれです。

創世記2917節に、「レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。」とあります。そして、31節に、「主はレアが嫌われているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった」とあります。レアの目は弱々しかったとありますが、昔は人の美しさを視力の良しあしで判断したのでしょうか。主は、レアが生まれたときから男性には好かれるタイプではないことをご存知でした。そのような彼女を喜ばすために、ヤコブを通して、たくさんの子宝に恵まれるようにされます。主なる神は、他人に注目されていなかったレアや女奴隷たちに女性としての喜びを先に与えてくださいます。そして、彼女たちから生まれた子供たちも等しく、アブラハムの子孫、イサクの子孫、ヤコブの子孫として、特にイスラエルの12部族のスタートになることを許されました。

これぞ、神の憐れみであり、恵みだと思います。

良く考えますと、今まで、アブラハムの妻サラも、イサクの妻リベカも、又ヤコブの愛していたラケルも不妊の女性であったことは、皆さんはお気づきだったでしょうか。しかし、この不妊は、一時的であったことが分かります。ヤコブが一方的に愛していたラケルも不妊の女性だったのですが、神様の憐れみの中で、ラケルは胎が開かれてヨセフとベニヤミンが生まれます。ヨセフは、後にイスラエルの子孫が飢饉になっていた時、エジプトの総理大臣となって、彼らを飢饉から救い出すキリストの役割をします。

そして、ベニヤミン族からはパウロが生まれるようになります。

ピリピ356節です。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのへブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば、非難されるところのない者です。」

では、皆さんはどんな弱さを持っているでしょうか。

私たちにとっての今の弱さが決して弱さで終わるのではなく、必ず主の働きのために用いられることを。そして、選ばれている人も選ばれてない人も、主は等しく愛してくださることを私たちは今日の箇所を通して学ぶことができたと思います。

最後ですが、私がこの前、イザヤ19章を黙想する時、このような御言葉が目に留まりました。それを分かち合って終わりたいと思います。

イザヤ19:22節、「主は、エジプト人を打ち、打って彼らを癒される。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らを癒される。」

25節、「万軍の主は祝福して言われる。 わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」

この御言葉からもわかりますように、私たちが信じている神様は、決してえこひいきしてイスラエルだけを愛する神ではないことが分かったと思います。

ですから、聖書を丁寧に読んで、神様のより深い憐れみと恵みを体験できることを心からお祈りいたします。

 

20181.31           [ヤコブの夢]

 

創世記28:1022

 まずは、本日の説教の序論にあたる創2741節から見て行きたいと思います。

兄エサウは父イサクからの祝福を弟ヤコブに奪われたことで彼を殺そうとします。そこで、母リベカは、ヤコブにこう伝えます。お兄さんの憤りが収まるまで母リベカの兄ラバンが住んでいるハランへ逃げなさいと。そして、母リベカはそのハランに住んでいる兄ラバンの娘たちの中から妻をめとることをヤコブに命じます。

ヤコブは、父イサクと母リベカの言われた言葉に従ってハランへ逃げます。

それに気づいた兄エサウは、父イサクの異母兄弟のイシュマエルの所に行き、妻をめとります。きっとエサウ自身はお父さんとお母さんに嫌われていると思っていたに違いありません。弟ヤコブはイスラエルの南部地区の都市ベエル・シェバから、トルコの南にあるハランへ旅立ちます。数百キロです。

ある所に着いた頃、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにします。彼は、その辺の石を一つ取り、それを枕にして両足を伸ばすこともできず、腰を曲げて横になっていたと考えられます。彼はテントを張る心の余裕すらなかったと思われます。もしかしたら、兄エサウから追い込まれているストレスで、サソリやオオカミ、ハイエナからの攻撃をも気にとめることなく、その辺に転がっている石を枕とし、疲れ果ててねてしまったのかもしれません。

その旅の疲れの中で、ヤコブは夢を見ました。その夢の中で、一つの梯子(はしご)が地に向けて立てられていました。ここで梯子とは、今、私たちが考えているキャタツとは違う階段の形をしていたかもしれないと多くの学者は考えています。その梯子の頂きは天に届き、神の天使たちが、その梯子を上り下りしていました。

2813節です。主が彼のかたわらに立っておられたとあります。ここで、ヤコブを「彼」と書いているのは、第3者の見方です。なので、創世記はモーセによって書かれたと伝えられています。しかし、一部の学者はそう考えない学者たちもいます。

余談なんですが、モーセが書いた五つの本をモーセ5書と言いまして、それは、創世記、出エジプト、レビ記、民数記、申命記のことで、ユダヤ教では、これを律法の書「トラー」と言っています。ユダヤ人たちは今でもこのモーセ5書「トラー」を子供たちが小学校を卒業するまでに、全てを丸暗記させることを義務付けているそうです。

さて、13節に戻りまして、主なる神は、ヤコブの夢の中で現れて、15節まで励ましと祝福の言葉でヤコブを元気づけます。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、東西南北へと広がり、地上の全ての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

このところを引用した詩編記者は詩編911112節でこのように書いています。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたを支え、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」 そして、マタイ4:6で、なんと悪魔は詩編911112節をそのまま引用して、主イエスを試みるのです。マタイ4:56節です。[すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたを支えさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」] ここで、悪魔は、神の御言葉を持って主イエスに立ち向かっています。であるならば、私たちも御言葉を暗記しないと悪魔と戦うには無理があるのではないかと思います。ですから、いつも大きな祈り声で、悪魔祓いするのに限界を感じるのは、私たちに御言葉の暗記力が足りなかったからかもしれません。

さて、創2815節です。「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、」という言葉、これが主なる神からのヤコブへの約束でありました。しかし、私が2016年度中国のウルムチに行く際に与えられた御言葉も創2815節です。

私たちは、どこへ行っても、主がともにおられることを忘れてはいけません。そして、アドナイ・エロヒム、主なる神があなたを守ることを忘れないようにしましょう。なぜなら、主は決してあなたを捨てないと約束されているからです。主の言葉は今も生きています。アーメン 16節です。「まことに主がこの所におられるのに、私はそれをしらなかった」とヤコブは眠りからさめて告白します。とても正直で感動的な言葉だと思います。私も中国でこの御言葉に触れられ、主が私とともにおられることを確信して賛美することができました。 ヤコブにとって、子どもの時からなんとなく親に教えられた神存在。それが、兄エサウから逃げて荒野に置かれているその時、初めて神存在が現実化していったのです。

もし、皆さんが今置かれる状況がまるでヤコブのようでありましたら、荒野に置かれたヤコブと共におられ、守られると約束してくださった主があなたにも等しく働きますように。17節です。「こここそ、神の家に他ならない」とヤコブは言います。神の家は、ヘブル語で「ベット・エル」と言いまして、19節のべテルはここから来ました。

ヤコブは、翌朝早く、自分が枕にしていた石を取り、それを石の柱として立て、その上に油を注ぎ、きよめました。この油は旅の途中に使う大切な油です。そして、2022節です。ヤコブの誓願です。彼は、創14:20のアブラハムが戦争から無事に帰ってきた時、メルキゼデク王に感謝のしるしとして戦利品の十分の一を捧げたように、ヤコブも十分の一を約束します。ですから、十分の一とは、捧げなければならない律法ではなく、世の戦いから命を守ってくださったことを感謝して捧げる神礼拝の表現の一つです。ですから、十分の一を捧げたから祝福されるのではなく、逆に、荒野での戦いから守ってくださり、祝福してくださった主なる神に感謝し、捧げる心からの表現が十分の一であることが分かります。

 

20181.23       [エサウとヤコブそして、嘘について]

 創世記27:524を読む

 

今日は、創世記25章から27章を通して、特にエサウとイサクの話から嘘はどこまで罪なのかを一緒に考えてみたいと思います。

 

 アブラハムは妻サラが死んだ後もケトラという妻をめとりました。そして、彼女から6人の子供を授かります。アブラハムは最初に女僕から授かったイシュマエルと、不妊の妻サラから奇跡的に授かったイサク、そしてその後にも175歳の寿命が尽きるまで子作りに励んでいました。それくらいに彼は裕福でたくさんの財産があったと考えられます。創世記256節ですが、アブラハムは自分の全財産をイサクに与えまして、そばめたちの子供には、贈り物を与え、彼の存命中に、イサク以外の子供たちは東方の国に追い出して、イサクから距離を置くようにしました。ここで、良く考えますと、東方の国に当たりますのは、その後千年以上が経ち、イサクの子孫である南ユダを攻撃したバビロン(イラク)、ペルシア(イラン)。そして、今の中国、日本にまでもアブラハムの血のつながった子孫が広がったことが推測できます。そう考えますと、私たちは霊的なアブラハムの子孫だけではなく、本当に、彼のそばめから生まれて東の方に追い出された肉の子孫であるかも知れないと推測できるのです。と言うことは、聖書の話が決して私たち東の人たちとは無関係であるとは限らないのです。

さて、アブラハムは100歳でイサクが与えられ、イサクは40歳でリベカと結婚して20年後の60歳でリベカに双子が与えられます。と言いますのも、リベカもサラのように不妊の女性でありました。彼女に奇跡的に子供ができたのは、リベカの祈りよりも、イサクのリベカに対する愛とその祈りがあっての話だと聖書は伝えています。この子供たちがイサクの60歳で与えられますが、この双子は、なんとリベカのお腹にいた時から喧嘩をしていました。創世記2523節です。『すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄は弟に仕える。」』これは主からの御告げです。

最初に出てきたエサウとその後でエサウのかかとをつかんで出てきた弟ヤコブ。

今日は、この双子の話から、神様からの知恵をいただきたいと思います。

この子供たちが成長した時、エサウは力が強くて狩りがうまい人となりました。その反面、弟ヤコブは穏やかな人で天幕に住んでいた活発的な子ではないことが聖書からわかります。

 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが狩りから帰ってきました。彼はとても飢え疲れていました。早い話で、エサウは、ヤコブの話通りに、長子の権利を食べ物の代わりに売ってしまうのです。エサウは長子の権利を軽蔑していたとあります。

では、私たちはどうでしょうか。主イエスを信じることによって神の子供とされたこと、そして長子エサウのように父イサクからの全財産を受け継ぐ権利、即ち神の国を受け継ぐ権利が与えられたこのconcession/privilegeを、ひょっとしたら、目の前の誘惑と試練によって、その大切な権限(authority)を捨てそうになったり、キリスト者であることを軽く考えたりしたことはないでしょうか。その意味で長子エサウは私たちの反面教師です。この話は新約聖書へブル121617節でも引用しています。読んでみたいと思います。

 長子エサウの失敗はそれだけでなく、アブラハムの最初の女しもべから生まれたイシュマエルの血筋から、女性をめとって結婚します。これも神との約束の違反です。

つまり、エサウは神様から定められたアブラハムの正式な親戚から結婚相手を選ばず、異邦人の女性との間で生まれた血の混ざった娘と結婚するのです。

では、弟ヤコブを見てみたいと思います。

彼は、父イサクから祝福を受けて、全財産を受け取ろうと必死でした。そこで、兄エサウが狩りから帰ってくるちょうどその時間に美味しい料理を作って誘惑させ、長子の権限を取るのです。そして、本日のポイントなんですが、創世記27524節です。

兄エサウから長子の権限を取るために、母リベカも加わりまして、ヤコブに兄エサウから長子の権利を奪うチャンスを与えます。つまり、年とって目が見えなくなった父イサクが兄エサウにお願いして、エサウが狩りに行っている間に、ヤコブは母リベカの話を聞き、兄エサウの真似をして嘘をつき、エサウへの父イサクからの祝福を取ってしまうのです。

ここで、私たちは、嘘をつくことについて少し考えてみたいと思います。

モーセの十戒には、隣人に対して偽りの証言をしてはならないとあります。これは律法です。しかし、律法の行いだけでは神の国を受け継ぐことは出来ないと主イエスは言われます。つまり、主イエスを信じる信仰によって神の国を受け継ぐのです。

新約のガラテヤ221には、「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」とあります。もし、ヤコブが母リベカの嘘を行動で示さずに、つまり、父イサクに嘘をつかずに正直に自分は二男であることを告げたならば、彼は、マタイ福音書1章の主イエスの系図には載らなかったでしょう。

なので、私は嘘には二種類があると考えました。

すなわち、一つは、自分のための嘘です。自分の利得(profit)のために嘘をつくことは悪いことです。そして、いずれ相手が分かる嘘は最初からつかない方がいいでしょう。

二つ目は、家族、教会或いは団体や国家を守るための嘘です。私は自分が所属されている共同体を守るために正当な嘘をつくこともあり得ると思います。リベカによるヤコブを通してのイサクへの嘘がそれです。

リベカも創世記2523節「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民により強く、兄が弟に仕える」というこの神様からの御告げを果たすためにも母リベカはヤコブに長子の権利を奪うチャンスを与えたのです。弟ヤコブは父イサクに嘘をついてだますことは怖かったのですが、母リベカの話に従って父イサクをだまし、兄エサウの代わりにいよいよ祝福を受け取るのです。

これは、あくまでも私の考えなんですが、日本でも「バカ正直」という言葉があります。つまり、なんでも正直になって行動することで、逆に共同体に迷惑を掛けたり、神様の計画を妨げる場合もあるかも知れません。ですから、「嘘をつくのは罪だから」と勝手に決めつけて、バカ正直にならないように、神様からの知恵が必要です。

なので、リベカのイサクに対する嘘は正当であったと考えられます。彼女の判断とヤコブの行動が表面的にはとてもずるい話だと思われがちですが、ヤコブの行動の中にも神様のご計画があったと考えられます。 しかし、勝手に自分の嘘を正当化させることは罪であります。

そして、もう一つ、弟ヤコブは兄エサウとは違って、結婚する時も、父イサクがそうであったように、カナン人や女奴隷からではないアブラハムの生まれ故郷、つまり、ヤコブの母リベカの親戚の娘さんと結婚します。それによって、ヤコブは神様の約束を守るのです。

兄エサウは活発的で十分に考えずに思い付きの行動で相手と妥協してしまう性格を持っていました。これを神様はリベカの胎内にいるときから見抜いていたと思われますし、それに対して、弟ヤコブは穏やかな性格で、言われたことを忠実に行動する性格だったので、神様はヤコブの方に長子の権限をゆずらせ、祝福したのではないかと考えられます。

この忠実は、ガラテヤ5章の聖霊の実の一つです。

今日は創世記2527章を学んでみました。

 

2018.117        [アブラハムの僕の信仰]

創世記24:4552

45 私が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください』と言うと、

 46 急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。

 47 私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です』と答えられました。そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。

 48 そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。

 49 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

 50 するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。

 51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

 52 アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。

 (Gen 24:45-52 JAS)

 

 先週はアブラハムの信仰を見ました。今日は、アブラハムの子イサクに妻リベカが与えられる話から、アブラハムの僕の信仰を見ていきたいと思います。

 アブラハムは老人になっても神様からのあらゆる面で祝福を受けていました。

皆さんも、アブラハムのように年をとっても、主に対するぶれない信仰によって全ての面で恵まれ、祝福されますようにお祈りいたします。アーメン

 さて、アブラハムの妻サラは、127歳で亡くなりました。そして、アブラハムの子イサクは亡くなった母サラのことで、泣き悲しんでいました。イサクが40歳の時です。

イサクの父アブラハムも又、妻サラのために嘆き、泣いていました。それから、妻サラを葬ってからアブラハムは、息子イサクを結婚させる決心をします。そして、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長の僕、即ち責任者に、今住んでいるカナン人からではない、彼の生まれ故郷に行き、自分の親戚からイサクの妻を迎えるように命じます。ここで、どうしてこのような命令を出したのかと考えられますのは、当時は遊牧社会で彼らは血統を重視していたからではないかと考えられます。

そこでしもべは、万が一の出来事のために、いろいろ心配して、彼の主人アブラハムに質問するのです。例えば、「その女の人が、私について来ようとしない場合、どうしますか。或いは、妻になる女性が、イサクをご主人の出身地に連れ戻す条件であるなら、どうしますか」と、しもべはアブラハムに質問するわけです。そこで、アブラハムは、「あなたの子孫にこのカナンの地を与える」という神様との約束を守るために、決してそんなことはあってはならないとしもべに伝えます。むしろ、天の神、主はそのために天使を使わされるとアブラハムはそのしもべを安心させます。

それから、彼は、主人アブラハムのらくだの中から十頭のらくだを取り、出かけました。そして、主人アブラハムのあらゆる貴重な品々を持って行きました。

勿論、このしもべ一人で出発したわけではありません。一緒について行くたくましい従者たちもいました。

旅を続けまして、アブラハムの兄弟ナホルが住んでいる町に着きました。その町に着いた頃、町の外の井戸のところに、十頭のらくだを休憩させていました。時は、夕暮れです。ちょうど女たちが水を汲みに出る時刻であります。

ここで、考えられますのは、らくだを十頭もつれて旅に出るくらいでしたら、相当の距離を走ってきたと思います。さぞ、疲れていたでしょう。短い文章の中で、色んな状況が思い浮かんできます。

さて、その時、しもべは、天の神様にこう祈りました。「私の主人アブラハムの神、主よ。今日、私に幸せを授け、主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。これからこの町の娘たちが、水を汲みに出てきます。私が娘に「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください」と言った時、その娘が「お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう」と言うなら、その娘こそ、イサクのために定めていた娘であることにしてください。私はこれによってあなたが、主人アブラハムに恵みを施されたことを知りましょう。」と心の中で神様と話していました。

ところが、なんとその僕が心の中で神様と話が終わらないうちに、アブラハムの親戚の娘リベカが水がめを肩に載せて出て来るのです。

ここで、アブラハムのしもべの、神様との会話に注目してみたいと思います。この会話は確かに「祈り」です。しもべは、神様に自分の居場所と現在の状況をきちんと伝え、報告しています。つまり、自分は今、泉のほとりに立っていること、そして、夕暮れなので、はやくイサクの妻になる人を見つけ出して、夜を過ごせる宿屋も見つかり、この旅が早く終わることを、しもべは神様に会話をしながら祈っていたのです。そこで神様は、僕の祈りを叶えてくださいました。

肩に水がめを載せて出てきたリベカは、しもべがお願いしている通りに、水がめに水を満たして、彼に水を飲ませて、そして、彼が連れてきたらくだたちのためにも水を飲ませてくれるのです。彼女が一所懸命に水を汲んで行ったり来たりする間に、僕は、神様が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていたのです。

ここで、考えてみたいと思います。私たちも人生において旅人です。時には、しもべのように、旅に疲れて、日が暮れている中、宿屋も見つからないまま、神様を求めざるを得ない状況に置かれる時も多々あると思います。その時は、しもべのように、素直に神様と会話をしましょう。自分の今の状況を神様に報告して、主の恵みを待ち望みましょう。そうずれば、私たちの人生においても、アドナイ・イルエである主は、つまり、私たちの状況を見ておられ、供えられる主は、その祈りが終わらないうちに、リベカを送ってくださると信じます。アーメン

主なる神様は、そのように、僕の旅を成功させてくださいました。

そして、しもべは、リベカに感謝のお礼としてプレゼントをしながら、尋ねました。「あなたは、どなたの娘さんですか。あなたの父上の家には、私たちが泊めていただく場所がありますか。」そこで彼女は、アブラハムの親戚であることを明かします。そして、自分の家には、らくだのためのわらも、飼料もたくさんあるし、それにお泊りになる場所もあると伝えます。

そこで、僕は、ひざまずき、主をほめたたえ、礼拝しました。

それでしもべと従者たちは、リベカの家族を会いに家の中に入りました。長い旅かららくだの荷は解かれました。そしてらくだにはわらと飼料も与えられました。さらに、彼の疲れた足と、その従者たちの疲れた足を洗う水さえも与えられました。また、おいしい食事も出されました。

これらの出来事は、しもべの信仰による出来事であると私は信じています。

しもべは、自分の旅が終わるまで4回以上にわたって神様への礼拝をしました。

リベカは快く、イサクが住んでいる町へ行き、イサクの嫁になることを受け入れます。

 

今日は、創世記24章のアブラハムの僕の信仰を見てみました。アブラハムの全財産を任せられるほど信頼されていた僕、彼の名前は残念ながら聖書には載っていません。しかし、なぜ、アブラハムは僕を送って、自分の子イサクのための嫁さんを見つけて来るようにミッションを出したのか判るような気がします。

ミッションは、使命です。使命を受けている人をミッションナリーと言います 。つまり、宣教師です。私たちは、主イエスの信仰によって救われている以上は、ミッションを背負っているミッションナリーです。マタイ28章最後にも主イエスは、弟子たちにミッションを出します。それほど、彼らは主イエスに信頼されていたからです。

私たちも人生の旅において、主イエスに信頼されている以上、どこへ行っても、主を求め、主に祈り、主に礼拝して、私たちに任せられているキリスト者としてのミッションを果たしていきたいと思います。アーメン