2018年になりました。

 

私は2016年6月から2017年12月末まで、韓国と中国にいました。

中国では、シルクロードの舞台になっていた自治区に4か月住んでました。

韓国では、梨花女子大学の留学生たちに、英語で韓国語を教えるボランティアも

体験しました。

全てが守られて感謝です。

では。

2018.110          アブラハムの信仰

 

【創12:1-4】『主はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれた故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。 アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけた。」』

 

 一番目に、私たちの信仰の父と言われるアブラハムは、主に対して常に素直な従順さと神様から直接語られたみことばに信頼して行動する行動派でした。

それが、創世記12章から始まるアブラハムの話です。そして、創世記156節「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。

さらに、神様は、アブラハムを試練に会わせられました。つまり、アブラハムの100歳、妻サラの90歳で、彼らに現れた天使の預言どおりにイサクという子どもが与えられます。そして、せっかく与えられたその子を全焼のいけにえとして捧げるように、神様はアブラハムの信仰を試みられるのです。それが、創世記221-2節です。

アブラハムは、文句ひとつ言わずに、全焼のいけにえのためのたきぎを割って、そのたきぎを息子イサクに背負わせ、火と刀とを自分の手に取り、モリヤの地にある山に向かうのです。そして、アブラハムはそこで刀を取って自分の子イサクを殺して、神様に捧げようとするのです。

そのアブラハムの信仰にびっくりした神様は、天使を送ってその子に手を出さないように、アブラハムが神様を恐れることがわかったことを伝えます。

このように、アブラハムは、神様に対して常に素直な従順さを持ち、聞いたみことばを行動で示す信仰の持ち主でした。そして、彼は何よりも神様を恐れていたのです。

さて、次はアブラハムの妻、サラの話ですが、私たちには、どれだけ頑張っても出来ないことが多くあると思います。

サラの場合、90歳の不妊の状態で、人間の姿をした天使がある日突然訪ねてきて、来年の今頃男の子が出来ると聞かれます。創世記1810節です。

普通は、会ったこともない人に、あり得ない話をいきなり聞かれたら、笑ってしまうと思います。サラも心の中で、天使の預言を笑っていました。

そう言えば、主イエスも普段考えられない状況から生まれたわけですね。

その彼女に天使は、創世記1814節で、「主に不可能なことがあろうか」と天使はサラに怒るわけです。

サラの信仰はアブラハムほどではありませんでした。

 私たちが神様を信じる理由は何でしょうか。それは、私たちのチカラでどうしても出来ないことを、神様にとっては、可能にしてくださると信じているが故に、祈るのではないでしょうか。

新約聖書、ヤコブ16-8節には、二心をもって、神に祈ってはならないと書いてあります。

しかし、ここで神様になんでも祈れば、叶えられるという意味ではありません。すなわち、神様の御心であるならば、人間の計算をはるかに超える、常識破りの不可能なことが可能になるということです。これを奇跡といいます。

その意味で、奇跡というのは、不可能なことを可能にしてくださる神様のプレゼントです。神様のプレゼントは、私たちが期待していた時に与えられるのではなく、サラのように何の期待もなく、夢もない時に与えられる不思議な出来事だと思います。

ところで、90歳の不妊の女性サラからイサクが生まれたのですが、目に入れても痛くない独り子イサクを父アブラハムは、神様の指示に従い、神様に全焼のいけにえとして捧げようとしたこと。 つまり、エジプト人の女奴隷であるハガルから生まれた肉による子供イシュマエルではない、神によって告げられて奇跡的に生まれたイサク、このイサクをささげようとしたことがキリストの十字架の予表であります。(新約へブル1119節)

これが、キリストの型であり、アブラハムが今も私たちの霊的な信仰の父と言われるようになった出来事です。

参照できる聖書箇所は創世記21:12、新約ローマ9:7、へブル11:18「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」とあります。

 

二番目に、アブラハムは、常に神様に礼拝する心がありました。例えば、創世記127節『そのころ、主がアブラハムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラハムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。』134節「アブラハムは、主の御名によって祈った。」とあります。特に、14章において、アブラハムは、自分の親戚ロトが戦争に巻き込まれ、敵に全財産を奪われた時、318人の特殊部隊を組んで、夜のうちに敵に侵入し、それを打ち破るのです。親戚ロトとその財産、そしてロトが住んでいたソドムの町の女たちや人々をもアブラハムは取り戻しました。そして、アブラハムの勝利を祝福しに出迎えてくれたサレムの王・メルキゼデクに全ての物の十分の一を捧げるのです。

詩編110:4、ダビデの賛歌を引用した、新約のへブル56節には、主イエスのことを「メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と引用しています。

ここで、アブラハムは、とても勇敢な人ではないかと思いがちですが、やはり、天と地を造られた、いと高き神が彼の手に敵を渡されたので、彼は勝利することができたのがわかります。ですから、アブラハムは、その勝利の栄光を、すべての戦利品の十分の一をもって神様に返したのです。これがアブラハムの信仰であり、礼拝なのです。〈へブル7:2参照〉

 

三番目に、アブラハムは、旅人を良くもてなしました。

新約聖書へブル132節「ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。

創世記18章です。アブラハムは旅人を見て、喜んで最高のものでもてなしました。その旅人が天使たちであることも知らずにです。そのおかげで、イサクが生まれるというニュースを聞くことができました。そして、ソドムにいる甥子ロトとその家族を、ソドムの滅びから救うことができました。

このように、アブラハムの人生は、常に神様と共に生きて、神様が喜ばれることは何かを常に考える人でした。ですから、創世記2214節にもありますように、主は常にアブラハムの信仰を見ておられ、そして、彼に必要なものを備えてくださったのです。これが、皆さんが良くご存じの「アドナイ・イルエ」です。

 

最後に、新約聖書、へブル1117-19節を一緒に読んで終わりたいと思います。

『信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクを捧げました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただ一人の子をささげたのです。

神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これが型です。

 

「山本師範からの合気道を学んで」 感想文

 『わたしはあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなた方の父の子供になれるのです。』(マタイ5:44)- Jesus-

嘗て合気道の創始者である植芝盛平は、合気道とは、敵を愛することにあると仰せられた。
敵の攻撃に対して如何に愛をもって受けるかが相手を倒せる原動力につながるし、愛こそが人間の力に勝る神の力そのものである。
 地球の外には、無数の隕石が飛んでいるし、それらの隕石が地球に落ちてくる確率は少ないのはなぜだろうか。それは、地球が自ら常に回っているからである。
この地球の自転は、円を作りながら、素早く敵の攻撃を受けてかわす合気道の原理である。いや、宇宙全体がそれぞれ円を作りながら、回っているのは、合気道に隠されているミステリーの一つとも言えよう。これは決して大げさな解釈ではない。
或る人は、合気道の原理をコマの回転の力に喩えている。これもまた正しい比喩である。
ともかく、自分の姿勢である中心軸(重心軸)をまっすぐにして、かかってくる相手の力を如何にはね返し、受け流すかが肝心要の合気道の原理ではなかろうか。

合気道は、教える師範によって、それぞれ違うので、どれが正しいとははっきり言えないし、知らないが、気流会の山本師範における合気道は、合気道の基礎なるしっかりした剣道の構えの元(もと)、目に見えない宇宙の力を信じて、かかってくる敵の攻撃に素早く身をかわし、且つ相手に寄り添うこと。そして、ここで注意点は決して自分の腕力を入れないことである。そして、捕まえられた手や胸には気にせずに、自分のポジション、つまり自分の立ち位置を変えて、足の動きと同時に自分の「体重」或いは「気」を相手に載せることが敵を倒せる原動力になり、「攻撃」につながるのではないかと考えられる。
それ故、合気道は、立ち向かって戦う技(わざ)ではなく、いかにしっかりした重心軸で相手の動きに合わせて、自分の向きを変え、且つ受け流すかが相手に通じる「アイ」ではないかと思われる。

「目に見えるからとて、それがすべてではなく、目に見えないからとて、存在しないものでもない」。むしろ、目に見えないからこそ、「永遠」であり、「大切」であり、「欠かせないもの」であると言えよう。 その例として、「神存在概念」、「空気」、「宇宙エネルギー」、又人に隠れている「気」や「心」がそれである。
合気道の修練によって目に見えなかった自分の「心の状態」や「神存在」を、より鮮明に具体化され、今まで気づかなかった自分の弱さや姿勢の悪さ、相手に対する愛の無さを私は気づかされた。そして、身体を鍛えるだけでなく、精神を鍛える面においても山本師範の合気道は感謝の一言では言い表せないほどである。なので、私はこの方の教えを奨めることができるし、又年齢関係なく誰でも無理なく学べるスポーツではないかと思う。
 
合気道は、日本伝統の宗教心からではなく、哲学であると私は思う。それ故、何事にも丁寧に向き合い、丁寧に練習し、相手と向き合う力(愛)を養うことにより、勉学に負われている学生やお客さんを相手にする社会人、又私のような犯罪心理のカウンセラーなどに勧めることのできるスポーツではないかと思う。そうだ。合気道は、日本伝統のスポーツ哲学であり、心理学そのものであるに違いない。
                          2016年5月27日
                            感想文の著者:H.W. Lee
「僕は今日これに気付かされた」
皆さんは真の献金とは何だと思いますか?

今日は風邪を引いていた。病状は悪かった。金曜の祈祷会が終わって、遅い時間まで営業している隣のネパール料理屋に足を運んだ。身体に寒気を感じて、僕はこの前も食べて美味しかったチーズナンとホットコーヒーをもう一度注文した。僕にとって、これは贅沢である。しかし、病気だから自分にご褒美をという気分であった。 日ごろ、この店のマネージャーとは、英語であいさつを交わしていた。彼は日本に来て、四か月しか経っていないらしい。そのため、日本語は出来なかった。
彼は、僕が風邪を引いたことに気を使ってくれて、オーダーとは別にサービスで蜂蜜が入っている温かいジンジャーエールのティーを出してくれた。
彼の気持ちと心は出されたジンジャーエールのティーより温かく、僕に癒しを与えるほど十分彼の気持ちが伝わった。
彼の優しさに僕はとても感動し、英語で僕の感謝の気持ちを彼に何度も伝えった。
ここで、考えてみよう。なんでも金にしようとする資本主義のこの世の中である。しかし、単なる貧しい国としか思ってなかったネパール人は、実は心の豊かな人であることに僕は改めて気づかされたのだ。そのとき、僕はまるで富を得たような幸せな気分に満たされた。そこで僕がもし裕福な人であれば、懐から気持ちよく一万円を出して渡したいくらいだった。      
相手のことを気遣って惜しみなく奉仕する彼の行動をとおして、主イエスの言葉が僕の頭をよぎる。それは、「隣人を自分自身のように愛しなさい」ということである。
そして僕は、彼の優しさに感動しつつ、一瞬ツバメが速いスピードで僕の目の前を通り過ぎるごとく聖書の言葉が思い出してきた。それは、神様に対する私たちの献金に対する誤解である。
私たちは、日ごろ神様が良くしてくださった恵みにどれほど気づいているだろうか。そしてその恵みに気づかされ、どれくらい感謝しているだろうか。では、その感謝の気持ちを金額で換算したことはあっただろうか。もしあったとするならば、果たしてその神の恵みに対する金額は幾らくらいになるだろうか。
僕は先ほど触れたネパール人のマネージャーの優しさと恵みに感謝し、決まっている金額以上のお愛想をしたい気持ちでいっぱいであった。これぞ、神の恵みである。いや、本物の神の恵みに勝ることは出来ないだろう。その時、僕は、はっと気づかされた。
「なるほど」、神様が私たちに求めているささげものとは、やはりこういうことを言っているのかもしれない。つまり、聖書では、捧げもののことを十分の一とかいろいろ数字で書いてあるけれども、実は果たして神の恵みを十分の一という数字に、私たちは表すことは出来るだろうか。それは出来ない。それは、天と地を造られた神様に対する失礼である。そして、神への捧げものとは、神の恵みを少しでも味わった人、即ち信仰ある者が神への感謝の表現として、それぞれの心の表し方を金額で表現する。それが献金である。
なので、献金とは、神様の恵みに気づいた人たちが捧げるものであって、決して律法になったり、強制的に捧げるものではないことに僕はやっと気が付いたのである。
勿論、理屈の上では、献金の意味を知らなかったわけではない。が、こんなに改めて真の献金の意味が深く示されたのは、そのネパール人の優しさのお蔭であった。
 私たちは果たして神様の優しさ或いはその恵みにどれくらい気づいているだろうか。
人は苦しみを通して神の掟を学ぶと聖書に書いてあるが、僕は普通のノンクリスチャンの異国人の優しさを通して神の掟を学び、神様に対する本当の捧げものの意味を知らされたような気がする。
そこで、僕はそのマネージャーに何度も「God bless You」「Jesus bless you」と敢えて声を出して、伝道がてらに心から祝福した。
神の愛と恵みは、無条件である。計算することは出来ない。私たちは空気もただで吸っている。しかし、私たちは思わず神の愛とその恵みを条件的愛、条件的恵みに考えがちである。つまり、神様と取引している場合が多いのだ。それはいけない。これくらい捧げるからこれくらい祝福してくださいとか、捧げないと祝福もないとか。これ又、神の無条件の十字架の愛と恵みを小さくしてしまう間違った信仰ではなかろうか。 もし人同士の取引相手としてしか創造主なる神存在を考えていないなら、神様はどれほど私たちのことを悲しむだろうか。確かに条件的愛は続かない。だから、最近離婚も多い。だって、神様と信仰者との関係は花婿と花嫁の関係である。それ故、条件的奉仕、条件的ささげものは神様が喜ぶわけにはいかないのだ。私たちは世の人たちのような愚かな自己満足の宗教家になってはいけない。
無条件の神の愛とその恵みには、無条件に返す私たちの感謝の気持ちが求められる。
僕は今日これに気付かされたのだ。
2016.4.27       「悔い改めにふさわしい行い」
ルカの福音書18:9-14
9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

*パリサイ人と取税人の譬えから、御言葉を一緒に考えてみたいと思います。

 ここ最近、私に示されているのは、人を外見で判断してはいけないことと第一印象に騙されていけないことです。
主イエスもまた、うわべだけの律法の行いをしていたパリサイ人に対して、この取税人との譬えで、へりくだることの大切さを教えてくださっていますし、11節を通して、他人と比較してはならないことと、12節では、自分のうわべだけの行いを誇ってはいけないことを教えてくださいます。その一方で、取税人の悔い改めを強調しつつも、決して口だけの悔い改めに留まらず、その悔い改めにふさわしい行いをすることをも教えているような気もします。
なぜなら、パウロも、使徒の働き26:20で、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たからです。
そして、ルカ18:14で、主イエスはパリサイ人の高ぶりを見抜いて、取税人の心からの悔い改めに目を留められ、彼を「義」と認められました。
ここで、「義」について少し考えてみたいと思います。
この「義」とは、私たちの行いによる正しさを言っているのではありません。
私たちが外見で判断し、頷(うなず)くような義ではないという意味です。
私たちが神の前で正しくされるのは、キリストの恵みによるのです。すなわち、人間側には「義」とされる根拠が全くないということです。ですから、神側に「義」とされる根拠があります。
 では、神である「キリストの義」とは何でしょうか。キリストの義とは、私たち人間が負うべき罪の借金を救い主なるキリストが十字架上で私たちの身代わりとなり、私たちの罪からののろいを買い取ってくださったことです。これを専門用語で「贖い」と言います。
 「贖い」とは、ギリシア語で「apolytrosis」、つまり、「apo」は「~から」を意味し、「lytrosis」
は、「身代金」を意味します。即ち、身代金を支払って、相手「から」買い戻したのです。
 「贖い」とは、現代日本語に訳せば、「買い取り」を意味します。
神は、キリストの十字架上での血を持って、対価を払い、私たちを買い取ってくださいました。これを英語では、「Redemption」と言います。
このRedemptionを「贖い」と言いますが、これは、ラテン語のヴルガータ聖書の「redemptio」という単語をそのまま表します。
「redemptio」とは、「買い戻すこと」を意味します。即ち、神は、主イエス・キリストの十字架の血で神を信じる私たちの罪をきよくしてくださいました。
そして、さらに、神は、御子なる主イエス・キリストの死を通して、アダムの時に犯した、永遠に罰せられるべき罪に対する神の呪いから解放され、御子なる主イエス・キリストを受け入れて、信じる全ての者に対して彼らの罪を買い取ってくださいました。つまり、私たちの罪を贖ってくださったのです。
 それ故、私たちが救われたのは、神の恵みであります。なので、人間の功績によるものではありませんので、自分の行いを誇る理由も根拠も私たちにはないわけです。
 ルカ18章でパリサイ人は、自分の功績を誇りとし、罪深い取税人と比較していました。即ち、パリサイ人は、自分の行いを神の前で誇っていたのです。
私たちキリスト者も一歩間違いますと、パリサイ人のような行動をしがちです。
他方では、取税人のように、自分の罪を悔いて、使徒の働き26:20で、パウロが言ったように、私たち一人一人がその悔い改めにふさわしい行いをすること、それが、今日神の前で求められる私たちの課題ではないでしょうか。
 そして、私たちがその悔い改めにふさわしい行いをすることで、私たちは神の前でいよいよ「義」とされ、私たちの霊も肉も、私たち自身が知らない中に、「聖化」される、つまり、聖く変えられていくのではないかと思います。
では、 お祈りいたします。
              死と復活について
2016.4.6
新約聖書、特にヨハネの黙示録では、死と復活について、第一回目の復活と第二回目の復活、そして第一回目の死と第二回目の死にわけて、私たちに伝えている。
では、先ず「第一回目の復活」について、一緒に考えてみよう。
*第一復活:キリスト者にとっての第一回目の復活は、「霊的復活である」と考えられる。その霊的復活の可視的徴として、考えられるのが「洗礼」である。しかし、聖書は「水による洗礼」ではなく、「聖霊による洗礼」を重視するので、洗礼式という儀式によって、復活の体験をしたとは言えないだろう。
①黙示録20:5-6を見てみよう。「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活に与かる者は幸いな者、聖なるものである。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に、千年の間王となる。」
ヨハネは、第一の復活にあずかる者、即ち、聖なるものとされたキリスト者に対しては、神の裁きによる第二の死は、何の力を持っていないし、キリスト者は、神とキリストとの祭司となり、王となると伝えている。
 では、②コロサイ2:12を見てみよう。「あなたがたは、バプテスマによってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から甦らせた神の力を信じる信仰によって、キリストと共に甦らされたのです。」
 パウロは、コロサイで第一の復活を信仰によって甦ったと伝えている。
また、コロサイ3:3では、「あなたがたは既に死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に、神の中に隠されてあるからです」と伝えている。
やはり、これも、洗礼による霊的復活を体験した真のキリスト者としてのアイデンティティを再確認してくれる御言葉である。
③第一ペテロ2:9を見てみよう。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
 ペテロは、第一回目の霊的復活に与かる者に対して、宣教命令を伝えている。
これは、即ち、この世においてキリスト者になった全てのものは、選ばれた者として、驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、世に宣べ伝えなさいと言っているのである。
 ここから考えられるのは、ペテロとパウロは、霊的復活を体験したキリスト者は、キリストと共に霊的に復活することが第一の復活であると伝えているのに対して、ヨハネは、先ほど読んだ黙示録20:6と21:1などから見て、復活後に新しい天と新しい地において、キリスト及びキリスト者の実際の支配を伝えていることに気が付く。ここまでは、キリスト者の第一回目の復活についての見解である。
では、未信者にとっての第一回目の復活は、いつなのか。それは、ヨハネの黙示録20:12を見てみよう。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」
ここで、死んだ人々とは、未信者もキリスト者も含む。そして、キリストの福音に触れる機会がなかった私たちの祖先は、彼らの行いに応じてさばかれると黙示録は伝えている。

では、「第二の復活」について一緒に考えてみよう。
① 第一コリント15:20-23「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から甦られました。というのは、死者が一人の人を通してきたように、死者の復活もひとりの人を通してきたからです。すなわち、アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによって全ての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
*キリスト者にとっての第一の復活は、聖霊による信仰が与えられたその日である。そして、第二回目の復活は、第一コリント15:23にある「キリストの再臨の時、キリストに属している者」に与えられる。
② ヨハネの福音書5:28-29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者(第一の死)がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、甦って(第二の復活)いのちを受け、悪を行なった者は、甦って(第二の死)裁きを受けるのです。」
*未信者にとっては、復活は一回しかない。しかも、その日は、ヨハネ5:29のように、復活して裁きをうけなければならない。また、黙示録20:12で確認できるように、彼らは、自分の行いに応じてさばかれる。参考:ルカ16:19-31(ラザロとお金持ちの話)

*「第一の死」について、
第一の死は、キリスト者にとっては、一回のみである。が、未信者にとっては、死は二回ある。ここで、未信者というのは、名義のみのキリスト者も含む。また、福音に接するチャンスがなかった昔の死人たちである。「名義のみのキリスト者」とは、マタイ7:21-23で確認できる。
① マタイ7:21-23「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者が入るのです。その日には、大勢の者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
キリストに属していない人々の死とは、一回目は、この世での死であり、二回目は「永遠の死である。」
*「第二の死」について、
① 黙示録20:13-14「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
では、もっと具体的にどんな人が第二の死を迎えるのか。
② 黙示録21:8「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
*まとめ:キリストに属しているキリスト者は2回の復活と一回の死を経験する。それに対して、未信者は一回の復活と2回の死と裁きを経験する。

本日は、死と復活について考えてみました。
お祈りいたします。
2016.3.23        「バルナバとサウロ」

*説教ではなく、聖書の勉強である
*パウロ伝道の地図を見る。

使徒の働き4:36、*9:26-30、11:19-26、*13:4-12、15:36-41
*バルナバ:キプロス生まれのレビ人。本名は、ヨセフ。
*パウロ:キリキアのタルソ生まれで、子供の時からユダヤの長老であるガマリエルからユダヤ律法を学んだ。本名は、サウロ。

二人の伝道の拠点は、シリアの首都「アンテオケ」であった。
主イエスの弟子たちは、神の子である主イエスの死と復活、そして、復活してから40日間主イエスが彼らと共におられ、励まし、主イエスが天に昇られたことへの真の証人であった。そこで、彼らは、主イエスこそユダヤ人たちが待ちに待ったメシア、キリスト、救いす主であることを証するために、ユダヤ人が集まる会堂シナゴーグに入って、証したりした。
しかし、その証を受け入れないユダヤ人たちやユダヤ人の長老たちが大勢いて、イスラエルでは、もはや主イエスがメシアであることを伝えるのに困難であった。それは、主イエスのことを伝える弟子たちに激しい迫害があったからである。
その迫害に加担した一人が、サウロ、後にパウロという名前に変えられた人で、彼は、子供の時からユダヤの長老であるガマリエルから厳格なユダヤ律法を学んだ。そこで、サウロは初期のキリスト者たちを迫害し、殺していたのである。
しかし、サウロがキリスト者に変えられた後、彼は、主イエスの弟子たちやキリスト者たちが集まっているところで、自分の証しも聞いてほしかったが、主イエスの弟子たちはサウロに証する機会を与えようとしなかった。それは、彼が救われる前に、キリスト者の迫害者だったからである。
そこで、キプロス生まれのレビ人である、使徒たちによってバルナバと呼ばれていたヨセフがサウロのお願い、つまり、主イエスがキリストであることを証する機会を引き受けるのである。(使9:27)
 サウロの証しが主イエスの弟子たちに認められて後、主イエスの弟子たちは、バルナバとパウロをシリアやトルコ、ギリシアなどに散らばっているユダヤ人たちにも、この良い知らせ、即ち主イエスこそがメシアであることを伝えるように、彼らをその地域に派遣する。(使徒11:19-26)   
ところが、厳格なユダヤ人たちは、メシアの到来を受け入れないまま、キリスト者たちを迫害し、バルナバとパウロを殺そうとした。しかし、シリアにあるアンテオケでは多くの人たちがキリスト者になり、そこにいる異邦人であるギリシア人たちも主イエスこそがキリスト、即ちメシアであることを信じるようになった(使13:4-12)。そこで、バルナバとパウロは、宣教のターゲットをユダヤ人だけでなく異邦人にも徐々に伝えて行くのである。ちなみにぺテロが異邦人伝道を始めた切掛けは、夢の中での神様の語りかけで、使徒の働き10章にある。
神様は、パウロの聖書知識を神ご自身の福音伝道のために十分に用いられた。もちろん、彼らの伝道には、説教や証のみならず、病人が目の前で癒されるしるしや奇跡が聖霊によって、与えられた。このようなしるしや奇跡は、バルナバやパウロだけでなく、それぞれの地方に遣わされたペテロやヨハネなどにも与えられた。そこで、彼らの証しを聞き、しるしを見た多くのユダヤ人の指導者や島全体を治めているローマの総督及びギリシアの貴婦人たちは、主イエスがメシアであることを信じるようになった。こうして、キリストの教会は生まれ始めたのである。
 
私たちは、新約聖書のパウロだけに目を留めやすいが、パウロがそこまで認められ、用いられたのは、キプロス出身のバルナバという人物がいたことを私たちは忘れてはいけないだろう。
2016.3.9         「男色の罪」
聖書:創世記19章1-11節。士師記19章1-13、13-26
時間の都合上、創世記だけを読んで、士師記は参考にする。

*創世記19章と士師記19章の比較:ソドムの町とベニヤミン族のギブア町での出来事

事件の背景の比較:
創世記19章1節、アブラハムの甥(おい)ロトは、主なる神の二人の天使を迎え入れる。(へブル13章2節:旅人をもてなすことを忘れてはいけません。)
士師記19章17節、ギブアの老人は、レビ人とそのそばめと若い僕を迎え入れる。
     「17 目を上げて、町の広場にいる旅人を見たとき、この老人は、「どちらへおいでですか。どちらからおいでになったのですか」と尋ねた。」

類似点:
1、 創世記19章2-3節:広場に泊まろうとする二人の天使をやめさせて、ロトは自分の家の中に彼らを迎え入れる。
士師記19章20節:ベニヤミン族のギブアの老人は、レビ人とそのそばめと若い僕に「ただ広場では夜を過ごさないでください」と広場で泊まることをやめさせる。

2、 男色の罪:男の同性愛の罪
*創世記19章4-5節:「4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
*士師記19章22節:「22 彼らが楽しんでいると、町の者で、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで、戸をたたき続けた。そして彼らは、その家の主人である老人に言った。「あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」」
そこで、創世記19章のロトと士師記19章の老人は自分の娘を彼らに出そうとしたが、町の男たちは話を聞こうとしなかった。
*創世記19章9節:「9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。」
*士師記19章25節:「24 ここに処女の私の娘と、あの人のそばめがいる。今、ふたりを連れ出すから、彼らをはずかしめて、あなたがたの好きなようにしなさい。あの人には、そのような恥ずべきことはしないでくれ。」
25 しかし、人々は彼に聞こうとしなかった。そこで、その人は自分のそばめをつかんで、外の彼らのところへ出した。すると、彼らは彼女を犯して、夜通し、朝まで暴行を加え、夜が明けかかるころ彼女を放した。」
当時の社会において、男の身分は重く、女性は、家の一つの財産くらいしか考えなかったのである。だから、ロトとギブアの老人は、旅人の代わりに自分の娘を差し出したのであろう。

創世記19章のソドムとゴモラの町は別として、士師記19章のギブアの町は、なんと神に選ばれたアブラハムの直系子孫12部族の一つ、ベニヤミン族であった。このベニヤミン族がソドムと同じ不品行と男色(Homosexuality、Sodomy)を行なっていたのである。新約のガラテヤ5章19節から見ても、男色や不品行を行なう者は神の国を相続することが出来ないと聖書は伝えている。

結論:ここで私たちが考えられるのは、神の憐れみの違いである。即ち、創世記19章のソドムとゴモラの町は、主の天使二人が帰ってから、ロトの家族を救出した後、完全に火の海とされ、滅亡されてしまった。
しかし、士師記19章のベニヤミン族のギブアの町は、その後、イスラエルとの戦争で、即ち、兄弟同士の戦争で、剣(つるぎ)を使う二万五千人が死に、滅亡寸前までは行ったものの、神は彼らに再建されるチャンスを与えられた。憐れみ深い神は、なんとこの罪深いベニヤミン族から、後にイスラエルの初代王であるサウロ王を起こされる。そして、彼によって、イスラエルの敵であるペレステ人(現在のパレスティナ)をやっつけさせる。おまけに、新約の60%以上を示す使徒パウロの活動も又彼がベニヤミン族出身であることをピリピ3章5節で確認できる。
嘗て滅亡寸前まで行った、使徒パウロの祖先ベニヤミン族の罪と神の憐れみは、将来主イエスの福音伝道の土台を作ったパウロの活動からすれば、神は罪深い人間に恵みを増し加え、彼らへの確かな救いと神の国への完成を示そうとするミステリーを、私たちは創世記19章と士師記19章の比較を通して知ることができた。
ちなみに、士師記19章においてベニヤミン族が生き残ったのは、神のアブラハムへの創世記12章1-3節の約束があったからであり、アブラハムへの祝福への約束の成就は、何と十二部族の中で、最も罪深くて小さく、また低いベニヤミン族から、ご自身の救いのご計画を成し遂げられたことに私たちは今日注目すべきではないだろうか。

2016.2.24 「絶対者なる神存在と宇宙秩序」

ヨブ記9章4-12、28:28
 ヨブ記と箴言は知恵文学と言われています。
 さて、地球は、自ら回りながら、更に太陽を中心として回っています。ですから私たち人間も、自ら動きながら、更に神を中心として全ての営みがなされなければなりません。
しかしながら、人間は、天地創造のアダムの時から罪が遺伝子の中に組み込まれていて、人類の祖先であるアダムやエバのように自己中心や言い訳、自己弁明、自己卑下などでそれらを正当化してしまい、神と共に歩もうとはしません。
 地球が太陽を中心として回っているように、私たちは、神を離れて生きることは出来ないし、又、私たちは神になることもできません。ここ、100年自由主義思想即ち神中心から人間中心になっている一部の人たちは、人間と神を同一視してしまう傾向があります。
ところで、地球が太陽を離れて生きることが出来ないように、地球も又自ら太陽の力なしでその光を放つことは出来ません。そして太陽の力が一つの銀河系を照らし続けているように、神の霊的力は今も私たちを照らし続けていますし、又、そのエネルギーは宇宙全体にまで及んでいることは事実です。これが、神のエネルギー、力です。
 地球が太陽になろうとすることは、思い上がりであり、不可能な現実でありますように、私たちも又どんなに修行を積み、人生の流れがわかり、自分の生き存在を悟ったとしても、神の前では、単なるちっぽけな被造物にすぎないことを認めなければなりません。ですから、被造物は決して神になることは不可能です。
そして又太陽は太陽としての役目がありますように、また、地球も地球としての役目があります。言い換えまして、神も又、神としての役目がりますように、被造物や人間もそれぞれ役目があるのです。ですから、神は神としての役目として、私たち人類に神の言葉と約束である聖書という贈り物を私たちのために用意してくださいました。
それ故、地球に住んでいる私たちは、太陽のような神の御言葉を離れてわがままで身勝手な行動をもって生きることは、結果的に滅びを招くことになります。
 地球が自ら回りながら、太陽を中心として回るように私たちも、自ら生き、動きながら、神を中心とし、御言葉に従って人生を委ねる必要があるのです。
先ほど、読みましたヨブ記の主人公ヨブは、苦しみと試練の中に置いて神のなさる御業をほめたたえました。ヨブ記9章7-10節でヨブは言います。「神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。神はお牛座、オリオン座、すばる座、それに、南の天の室を造られた。神は大いなることを行なって測り知れず、そのくすしい御業は数え切れない。」
 
さて、天体が運行する道筋を「軌道」と言います。地球も、月も、太陽もこの道筋に乗って自ら動いているだけであって、決してそれらは自分の意思によって軌道から離れることは出来ません。もし、その軌道から離れるとすれば、その惑星は、滅んでしまいます。     
この宇宙存在を司る何者かがあるとすれば、それは神です。この神の力によって宇宙は今も動いているのです。即ち、この方こそ私たちが信じている絶対者なる神、創造主です。
主なる神「アドナイ・エロヒム」、この方は神の性質として三位一体の中で、三つの位格(父なる神、子なる主イエス、聖霊)を持っておられ、一つの神であります。
三つの位格の中の父なる神が、子なる主イエスを地球に送られました。その理由は、私たちが罪によって光なる神を失って、羊のようにさまよっていたからです。
ですから、以前暗闇の中に存在していた私たちは神の霊である聖霊によって照らされ、御子主イエスの信仰を通して、今や父なる神に礼拝が出来るのです。これぞ、神の恵みです。
私たちは主イエスを知るまでは、罪によって神に呪われ、神から軌道を離れていました。そして、滅びる存在であったのです。が、御子なる主イエスの十字架の贖いと信仰によって私たちはもはや神の呪いと滅びから救われて、永遠に神を喜び、父なる神と一緒に生きる特権が与えられました。
聖霊は今もこの永遠なる特権を保たせる役割を持って、仲保者として、又架け橋として今も私たちを照らし続けておられます。
ヨブ記28章28節には、このような御言葉があります。
「こうして、神は人に仰せられた。『見よ。主をおそれること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。』」
ですから、私たちは三位一体なる神を私たちの真ん中に迎え、その神を中心として、人生の軌道に乗って、主が再び来られる最後の日まで私たちの使命を果たそうではありませんか。
では、お祈りいたします。