2016.2.10      「主の祈り―試みにあわせず」
「マタイ6:9-13」
9  だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10  御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
11  わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
12  わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
13  わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

 旧約聖書は、主イエス・キリストの到来以前の話で、救い主なる主イエスの到来とその必要性と理由を、歴史を通して順序良く書き留めたのが旧約であります。
旧約の時代に、イスラエルにはモーセの律法があっても、彼らは罪から自由にされることはありませんでした。むしろ、彼らは律法に縛られて、群衆は自らその律法を破った人を裁いたりもしていました。
即ち、形式的な律法を守っていても、彼らは依然として罪の中にいました。そして、彼らは、神にどのように祈ればいいのかすら知らなかったのです。そこで、福音書において、弟子たちは主イエスの下に来て、どのように祈ればいいのか教えてくださいと主イエスにお願いをしているのです。そして、主イエスは彼らの願いに応えて、神様への祈り方を教えてくださったのです。それが、所謂「主の祈り」でマタイの福音書6章9-13節にあります。
さて、ギリシア語原文には、「diaboros」という単語があります。これは、日本語に訳しますと「中傷する者、敵対者、悪魔」を現します。これをヘブライ語で「Satan」と言います。
悪魔は、神の似姿として造られた人間を神から離反させ、又不従順に陥れようとして昔も、今も一生懸命働いています。だから、聖書は、私たちに、目を覚まして祈りなさいと言っているのです。 悪魔は、私たちの中に毒麦の種を蒔き、神の言葉の善い種を盗み取ろうとしています。*ルカ8:12「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。御言葉を聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、御言葉を持ち去ってしまうのです」。
誘惑に屈服する者はサタンの子らに属します。
主の祈りの中の「試みに会わせず」の「試み」とは、ギリシア原文では、「ペイラスモス」と言います。「ペイラスモス」には、プラスの意味とマイナス意味があります。プラスの意味は神が私たちの信仰を試すために試みられることです。これを英語で「Trial」と訳します。また、マイナスの意味は、悪魔が私たちを神の信仰から切り離すための試み、つまり「誘惑」という意味を持つ「試み」があるのです。これを英語で「Temptation」と訳します。
ですから、主の祈りの中の「試みに合わせず」とは、マイナス意味の悪魔からの「誘惑」であると考えられます。
第一ヨハネ3章8節にはこのようにあります。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです」。ここで考えられますのは、私たちも一方間違うとサタンの使いになり得るのではなく、サタンそのものになり得るということです。
悪魔、サタンはこの地球全体を今も支配しています。ですから、私たちには、常に祈りと礼拝が必要なのです。
私たちが 神の国の到来と主イエスが再び到来することを待ち望んでいる理由は、苦しみ多きサタンの支配下にあるこの世から救い出されたいからです。
私たちが旧約の出エジプトを未だに大事に考えるのは、今現在サタンの奴隷にされているこの世からエクソドスを待ち焦がれているからです。また、新約において、二千年前に主イエスが来られた理由も、この世を支配している悪魔のわざを破壊し、十字架から流れた血と主イエスを信じる信仰によって、私たちに霊的なエクソドスを与えて、真の自由を保障する為であるのです。
悪魔とサタンの使いたち、即ち悪霊たちとの戦いにおける、エクソドスのための私たちキリスト者の霊的な武装は、まさしく「礼拝」であります。私たちキリスト者は、この礼拝に命を懸けなければありません。そうでないと、悪魔、サタンは私たちを、道端に落ちている種のように、すぐにでも呑み込もうと狙っているからです。その結果は、永遠の滅びが待っているだけです。
もちろん、私たちの主イエス・キリストの十字架の愛と憐れみなしの、私たちの肉の頑張りだけでは到底そのような悪の力に立ち向かうことはできません。しかし、私たちが真理と義に立ち、主イエスによる救いを信じる信仰、そしてキリストの霊である聖霊と神の御言葉とに対する従順により、霊的に常に武装されていれば、私たちは悪魔、サタンの支配から解放され、サタンの奴隷生活からいよいよエクソドスされることが出来るのです。
では、お祈りいたします。
2016.1.27 「目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができない」

創世記3:1-7

天地創造後、人間が造られて、人間が最初に会話をした相手はだれだと思うでしょうか? 人と神の間でしょうか? それとも女と男の間でしょうか? 実は人間が造られてから、人間が一番最初にコミュニケーションをとったのは、神様でもなく、人間同士でもなく、なんとヘビの形をして人を誘惑したサタンであると聖書の創世記には記しています。
 創世記2章9節には、神は、園の中央に、二つの木を生えさせたとあります。一つは、いのちの木で、もう一つは善悪の知識の木であります。
人は、サタンの誘惑によって、善悪の知識の木の実を選びました。これは、人を殺す木であると、創世記2章17節で、神はアダムに警告していたのです。しかし、ヘビの形をしたサタンは女に対して、死に至らせる善悪の木の実を食べてもいいんだよと、無責任な嘘をつくわけです。この善悪の知識の木の実を食べたことによって、人間の意思決定が神中心から人間中心にゆがんでしまい、無秩序の状態になってしまったのです。そして、人間は、神側で考えるよりも、自己中心的な自分側で考えるようになりました。
ですから、すべての人間は、正しい自由意思の崩壊によって、神様が喜ばれることよりも、サタンが喜ばれることを好むようになったのです。例えば、自分が神のように優れた存在になりたがることも、他人に認められたがることも、又、褒められたがることも、アダムの時からの遺伝子的に組み込まれた意思の崩壊によるエゴイズムの発展、これこそ人間の罪なのです。
しかし、これに対して、100%人間としてこの世に来られた十字架上の主イエスは、人からののしられてもののしり返さず、殴られても殴り返しませんでした。これが私たちの弱さと主イエスとの異なる点であると言っても過言ではありません。

さて、創世記3章3節をもう一度見てみましょう。
「しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました」とあります。ここで誘惑してくるヘビへの女エバの発言は間違っていると思います。それは、創世記2章17節でもう一度確認できます。見てみましょう。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」とあります。ところが、創世記3章3節では、園の中央にある二つの木の中の善悪の知識の木であると、女エバはヘビに正確に伝えていませんでした。2章17節は、神がアダムに対する警告であって、女エバを造る前の話でもあります。つまり、これはアダムがエバに正しく伝えなかったことによる、アダムの罪だったのです。それ故、アダムの妻エバに対するいい加減な教育によって、女はヘビの大胆な誘惑に飲まれてしまったのです。それだけではありません。アダムも又妻エバが渡してくれた善悪の木の実を食べるおかしなハプニングが起きてしまうのです。アダムの頭の中には、2章17節の神様からの警告は 忘れていたのでしょうか。
このような軽率な彼らの考えと誘惑によって、人間は罪人として生まれざるを得なかったし、私たちは神様を未だに悲しませているのは事実です。
創世記3章5節で、ヘビは女に善悪の木の実を食べて、あなたも神様のようになれるんだよと誘惑してくるのです。これは、今の仏教思想と同じです。
即ち、人間は、この世における功績を積んで、又徳を高めることによって、あなたも仏(ホトケ)になれるという考え。これが、人間は皆善を行なうことによって、神様になれるという考えと同じで、このような仏教思想を持っている人は、聖書のみことばさえも自分の都合に合わせて解釈をし、誰でも、神様になれるんだと説明しています。又、多くの人は、どんな宗教でも信じれば、辿りつくのは、皆同じ神様だから良いと宗教多元主義を主張します。 ここで一言、仏は神ではなく、人間だったのです。そして、私たちはキリストを通してでなければ、神の国に入ることはできません。
このような思想によって、私たち人間はむしろ、目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができなくなっています。挙句の果てには、神存在そのものを否定する人たちも出てきています。
一方で、目があっても見ることができず、耳があっても聞くことの出来ないこの世の神々に向かって、私たちは未だに礼拝をし、祈っているのも事実です。
私たちキリスト者は、罪あるアダムの子孫であることを認めています。しかし、私たちは無力な罪人であることに留まってはいけません。しっかりと、自分の弱さと罪深さに気づき、メタノイアー、悔い改めて、意識そのものを聖書の言葉と祈り、又、神の霊である聖霊によって改善して頂かなければなりません。つまり、意識の改革、考え方の革命が必要です。では、これらを改革するために、私たちは、どうすればよいでしょうか。
それは、創世記2章9節にもありますように、園の中央にあるもう一つの木である「いのちの木の実」を食べなければなりません。
このいのちの木とは、ズバリ、キリストのことです。第二コリント5章17節「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者である」と聖書にはあります。
私たちは、「いのちの木の実」、即ちキリストのみことばの実を毎日食べて、意識を改善し、もはや罪による死から、キリストへの信仰による、永遠のいのちをいただき、天地創造のパラダイスよりも、より優れた高い次元のパラダイスを求めて、今日もいのちの木の実を求めて、一緒に祈ろうではありませんか。
試験観察中のある少年の最後の日でした。
明日が、審判です。
彼に最後のよい思い出を作ってあげるために、朝には、バドミントンを、お昼には生駒に移動し、一緒に食事をしました。
実は、彼は今年20歳になります。周りが成人式の服を着て駅でうろちょろしているのを観て、彼は成人式に出席できないことに残念がっていました。
彼と温泉の足湯に、教会の方に連れて行ってもらい、その後、彼は卓球をしたいと言ってたので、最後の思い出としてラウンドワンへ行き、卓球も一緒にしました。
そして、その後、夕食は教会の青年一緒に焼肉を食べました。
彼はとても感謝していました。
人生一度しかない成人式に出席できなかったことを思うと、つらかったと思います。しかし、それが罪の償いの結果であることを彼が気づいてくれたらいいのにと、考えてしまう一日でした。
2016.1.6         「ユダ王アサの生涯」
第二歴代16:9 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」

第二歴代誌14:2-5 アサ王の深い信仰

今のイスラエルは一つの国になっていますが、2千800年頃前には、国が分かれていました。
北にはイスラエル、南にはユダと分かれていたのです。その分かれた理由は、ソロモン王の異教徒の女たちと結婚した罪とイスラエル人たちがカナンの地に入った時に崇拝していた神々に染まっていたことが原因であると考えられます。
その南のユダ王アサの生涯を考えていきたいと思います。
アサ王に関しましては、第二歴代誌14章から16章にかけて記されています。
ユダ王アサは、創造主である主なる神がよいと見られること、神の御目にかなうことを行ない、異教の祭壇と異教の神に捧げる高き所を取り除き、その神殿の柱を砕き、アシェラという偶像を打ち壊しました。アシェラは、神々の生みの親ととしての女神のことです。
日本で言えば、万物を生み出す女神である「イザナミ」と同じ、神々の一つです。
 南ユダ王アサは、ユダに住んでいる民に、彼らの父祖の神、主を求めさせ、そのモーセの律法を行なうように命じていました。
更に、彼は、ユダの全ての町々から香をたく高き所を取り除きました。こうして、南ユダ王国はアサ王の前に平安を保ちました。

     14:9-12 クシュ―人のユダへの攻撃
時がたって、クシュ人ゼラフが、百万の軍勢と三百台の戦車を率いて、南ユダに向かって出陣し、マレシャにまで寄せて来ました。クシュ人は、今のスーダンにあたりまして、当時エジプトの近くまで勢力を伸ばしたアフリカ最強の国であったそうです。
そこで、アサはクシュ人に対抗して出陣し、マレシャにあるツェファテの谷で戦いの備えをしました。
アサはその神、主に叫び求めて言いました。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては、変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」
この祈りを聞かれた主はアサの前とユダの前に、クシュ人を打ち破られたので、クシュ人は逃げ去りました。

     15:16 アサ王の母の偶像崇拝
さて、アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、アサ王は母を王母の位から彼女を退けました。アサはその憎むべき像を切り倒し、粉々に砕いて、キデロン川で焼きました。
どころで、アサ王は、彼の人生の後半になっては、神の言葉を伝える預言者ハナニからの警告を無視することになりました。アサ王の最後を聖書はこのように記しています。

第二歴代誌16:1-13 
アサ王の治世、第36年に、北イスラエルの王バシャは南ユダに上って来て、ユダの王アサのもとにだれも出入りできないようにするためにラマを築きました。今の韓国と北朝鮮との緊張関係に喩えられると思います。
その時、 ユダ王のアサは主の宮と王宮との宝物倉から銀と金を取り出し、今のシリアにあたるダマスコに住むアラムの王ベン・ハダデのもとに助けを求めます。アサ王はもはや主なる神による頼むことをしませんでした。
 そこで、アラム王ベン・ハダデはユダ王アサの願いを聞き入れ、北イスラエルを打ちました。まるで、北朝鮮をめぐって、韓国と中国が仲良くなり、韓国が神様に助けを求めずに、力ある国中国に助けを求めるのと同じ光景です。

そのとき、予見者ハナニがユダ王アサのもとに来て、彼に言いました。「あなたはアラムの王、つまり今のシリア王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。
 あのクシュ人との戦いのことを思い出してください。彼らは戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。
9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」と予見者ハナニは主の言葉を伝えました。
10 すると、アサはこの予見者に対して怒りを発し、予見者ハナニに足かせをさせて牢獄に入れさせました。
それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかります。彼の病は重かったのです。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めました。
その後、アサは、治世の第四十一年に死にました。

 ここで、得られる教訓は何でしょうか。
アサ王が若かった頃は、主なる神に忠実であったことは皆さんもご存じです。しかしなぜ、信仰深かったアサ王は、最後に神により頼むことなく、人により頼んだでしょうか?
そこで、考えられますのは、彼は、神からの祝福を受け過ぎて、平和な生活が長く続いたことに原因があったのではないかと考えられます。平和ボケになったということです。
私たちの人生の中に、悩みが尽きないのは、ある意味では、神の祝福かもしれません。なぜなら、その悩みや苦しみを通して、神の御言葉を学び、神により頼むことができるからです。
第二歴代誌15:4には、4「しかし、その悩みのときに、彼らがイスラエルの神、主に立ち返り、この方を尋ね求めたところ、彼らにご自身を示してくださいました。」とあります。
アサ王のように全てが与えられ、うまくいく人生は、むしろその信仰を失う危険性があることを聖書は私たちに教えているのではないでしょうか。
第二歴代誌16:9「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」。
ですから、今年、一年も私たちの心が神の思いと全く一つになり、最後まで信仰を全うすることができ、且つ、困難な時にあるからこそ、神の御力で勝利できますようにとお祈りいたします。
黙示録2:10(死に至るまで忠実でありなさい。そうずれば、わたしはあなたに命の冠を与えよう。)では、お祈りします。
2015.12.23     「神の愛の結晶であるキリスト」

第一ヨハネ4:10
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 神を信じる信仰は、自分の意思からではなく、神の霊である聖霊によるのです。私たちが神を愛したのではありません。又、私たちから神を求めたので信仰が与えられたわけでもありません。もし、私たちが自分の意思で神を選び、キリストを受け入れたとするなら、そこには神の愛は在りません。もしかすると、そこには罪深い人間としての自我の高ぶりが潜んでいるかもしれません。また、その高ぶりによる信仰は、単なる宗教行為にすぎず、例えば、主日の礼拝には神への礼拝ではなく、自分を満足させる自分への礼拝になってしまい、それが偶像崇拝につながることになりかねません。
 神は決して、私たちの自由意思を尊重できない方ではありませんが、私たちを愛するが故に、ご自分の御霊を私たちに送られ、主イエスが救い主であることを告白できるように導いてくださいます。
ですから、私たちの罪のために、罪の赦しの代価として、御子なる主イエスをこの世に送られました。それは、神の御心でありました。
 神の形として造られた最初のアダムは、私たち人間の祖先となり、原罪という重い罪を残しましたが、最後のアダムとしてこの世に来られた主イエスは、父なる神に従順に従う従順さを残され、ご自分は神の御子でありながら、実は神ご自身であったのです。
主イエスは、天地創造の時にも、御父と共におられ、御父とともにカオスからコスモスへと、つまり、混沌から秩序へと宇宙の秩序を定められました。
 この方は、私たちが未だに苦しんでいる罪あるカオスの状態からコスモスの秩序の状態へと回復させるために、この世にお生まれになりました。それがクリスマスです。
私たちは、この方への信仰と礼拝を通して、新しい創造、新生が求められています。
この唯一なる三位一体の神は、私たちの原罪を償うために、この世にお生まれになっただけでなく、罪なき体で、罪ある私たちのために、十字架にかかられ、死なれました。これを預言したのが、旧約のイザヤ53章であります。
ここに神の愛の結晶があります。そして、それを成就されたのが、クリスマスであるのです。私たちが、賛美の中で主イエスのことを子羊として例え、賛美するのも、私たちの罪のためのなだめの供え物として、ほふられる羊としての救い主を現し、ここには、さらに父なる神に徹底的に従う従順さを「子羊」として喩えたことが分かります。
 私たちは、主なるキリスト・イエスへの信仰によって、いよいよ罪なき姿にかわり、パラダイスに導かれるという確信が与えられています。これは、主イエスが死から三日目に復活なさったことによるのです。主イエスは私たちの希望である復活の初穂として、この世に来られました。 そして今は、キリストの霊である聖霊による信仰によって、神の国を既に私たちの心の中に与えられました。
また、第一ヨハネ5章11節にもありますように、御子主イエスへの信仰を通して私たちには永遠のいのちが保証されています。ですから、御子を信じる者は死んでも生きるのです。
 世間では最近、キリストの誕生は12月ではないと騒がれ、一部の教会ではクリスマスを祝うことすらやめていますが、私は、それは間違っていると思います。
仮に、二千年前にキリストがお生まれになった日付が正確でないとしても、クリスマスは私たちにとって、或いは全人類にとって大切であり、その罪を解決するための、喜ぶべき知らせであり、これぞ、真のユーアンゲリオン、真の福音であるからです。
では、最後にキリストを預言しているイザヤ53章をお読みして終わりたいと思います。
2015.12.9       「闇が彼の目を暗くした」
第一ヨハネ2:11
「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」

闇を3回も繰り返しています。闇は暗闇の状態を現しています。光のない真暗な闇は、目を閉じている状態と同じです。真暗な闇には、不安と恐れがあります。そして、自分がどこへ行くのかも知りません。正に、私が以前主イエス・キリストに出会う前の状態です。キリストに出会う前は、生きる目的も、自分がなぜこの世に存在しなければいけないのかという疑問で、アイデンティティーを失っていました。
そして、周りと比較ばかりして、自分より優れている人を羨ましがっていました。しかし、聖書には、羨ましがりは神から来るものではないと言っています。
そして、私は家族の存在をもうっとうしがっていました。すなわち、憎んでいました。そこには、もちろん笑顔も在りませんでした。そのような霊的暗闇の中にいましたので、つまずきも多くありました。精神状態が暗闇に覆われていたので、他人の話が全て否定的に聞こえてきて、口からは悪の言葉しか出なかったことを覚えています。勿論そこには、赦しも存在しませんし、キリストのアガぺの愛も存在しませんでした。
 いま、皆さんはいかがでしょうか。 あなたはどこに向かっているのかと、もし主に問われたら、返事の用意はできているでしょうか。暗闇は悪の力です。 そしてそれは常に光に対抗しています。しかし、この闇は光に勝つことはありません。なぜならこの光は、神であり、主イエス・キリストご自身であるからです。それは第一ヨハネ1章5節で確認できます。
さて、創世記1章1‐3節を見てみたいと思います。
これは、天地創造の初めを現しています。
「地は茫漠として何もなかった」とあります。「茫漠」とは、ぼんやりしてつかみ所のないさまを現し、混沌とした状態を現します。しかし、神は、天地創造以来、光と闇を分けられ、宇宙の秩序を保たれ続けています。
ところが、人間は、最初の祖先であるアダムの罪によって、罪という遺伝子を持ったまま生まれ、教えなくても罪を犯してしまいます。しかし、神存在については、教育なしではそれを知ることもできませんし、私たちは生まれたときから無力なサタンの道具になっています。ですから、日ごろ、私たちに求められるのは、神の前で悔いた心です。
そして、私たちは光なる主イエス・キリストを知らなければ、人を赦すことも愛することもなかなかできません。また、子供時代は別として、すべてにおいて自己責任が問われる20歳以降はますます暗闇が立ちはだかり、人生の不安を感じてしまいます。
つまり、再び、私たちは天地創造の茫漠とした状態に戻るわけです。
私たちは時には他人に問題解決を求めたりしていますが、どうも頼りにならない時が多いのです。
まるで、盲人が盲人に道を尋ねるようなものでしょう。
ですから、私たちは、光である主イエス・キリストの御言葉をよく読んで祈りによって慎重に進む必要があります。
もし、私たちの心に主イエスを信じても、兄弟を憎む暗闇がありますなら、創世記1章2節のように神の霊である、聖霊は私たちの心の中に落ちてきません。
創世記1章3節のように、神は今もなお、私たちの暗闇の人生に「光あれ」と御言葉を送り続けています。にもかかわらず、聖書の御言葉に従順でなく、闇に支配されたままになってしまうと、私たちの人生は光なる神が働きません。 私たちは依然として混沌とした人生を送るに違いありません。
それ故、私たちには、新しい創造が必要です。
それは、キリストの霊である、聖霊による新しい創造です。
ガラテヤ6章15節にはこのようにあります。
15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
私たちは、キリストの霊である、聖霊による新しい創造がないと、自分がどこへ行くのか判かりません。判かっているつもりでも、その道は不安に満ちています。
そうしますと、創世記3章9節のアダムのように、「あなたは、どこにいるのか」と、神に声をかけられる時、私たちは罪の為に隠れることになるでしょう。
そもそも、私たちに神の声が聞こえず、神の御心が何なのか判らないのも、この世の闇の力に支配されていて、サタンの力に牛耳られているからだと思います。ですから、私たちは、すべての行動や働きにおいて神にお祈りをささげ、神の言葉である聖書を口ずさむのです。
主なる神、天地の創造主である神は、御子なる主イエスを十字架につけるほど、皆さんを愛され、元の罪のない状態に回復されようと、聖霊によって私たちに信仰を与えてくださいました。そして、神は、御子なるキリストの死からの復活を通して新しい創造を備えてくださったのです。
それなのに、以前として私たちが闇に支配され、つまずくならば、なんと悲しいことでしょうか。
「スキャンダル」の原型は、ギリシア語のつまずきを現す「スキャンダロン」から来ています。
私たちが闇の中にいることで、主イエスの十字架の勝利は私たちのものではなくなります。そのスキャンダルによって、霊的なエデンの園、いやそれ以上のパラダイスに入れることもできません。 ですから、創世記3章9節のアダムのように、自分の居場所を問われた時、隠れるのではなく、悔いた心を持って、イザヤ書9章8節のイザヤのように、神の声を聞き、「主よ、私がここにおります。この者でよろしければ、どうぞ、使ってください」と応答できる信仰者になることをお勧め致します。
2015.11.25      選択―いのちの木と善悪の知識の木

神は、園の中央に二つの木を置かれた。一つは命の木。もう一つは、善悪の知識の木である。
「創世記2:8-9.15-18」
「創世記3:1-7」
Point: 2:17神:「必ず死ぬ」、3:4誘惑のヘビ:「決して死にません」
2:17誰がだれに?神がアダムに。
3:4誰がだれに?ヘビが女エバに。
2:17は、神が人へ死と滅びを警告している。
3:4ヘビは断言する(確信を持って主張する)「決して死なない」。
結果:人は神の言葉に従わず、ヘビの言葉に従ったことによって、人は滅んで土に戻ることになる。

創世記2:9いのちの木:人を行かす木であり、善悪の知識の木:人を殺す木である。
いのちの木は天国の木で、プラスの木である。もう一つの善悪の木はこの世の木で、マイナスの木である。神は、二つの木を備えられた。
すなわち、プラスの木であるいのちの木は「キリスト」を示し、人を永遠の幸せな道へと導く。しかし、一方で、マイナスの木である善悪の知識の木は、この世におけるわがままな自由意思を示し、その実を食べることによって、人を死と滅びに導かれる。
黙示録2:7を見る。
7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」

いのちの木の実、即ち、いのちの木とは、キリストである。
私たちはキリストへの信仰の勝利によって、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることが許される。

信仰のない人が、普段間違った自由意思で否定的になり、マイナス思考になるのは、食べると必ず死ぬと警告した善悪を知る木の実をヘビの誘惑によってアダムの時に食べたからである。
しかし、主イエス・キリストの内にある者は、与えられた自由意思が間違った方向に行かず、神の御心を考えることになり、自己中心の自由意思がいよいよ聖くされ、回復されていく。それは御言葉に従うからである。これが、所謂本当のキリスト者になることを意味する。

その善悪の木の実は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、人を賢くする木の実であり、いかにも好ましく見えたと創世記3章6節にはある。さらに、これを食べると、人間の目が開け、神のようになるとヘビは嘘をつく。なので、私たちは未だに、霊的には盲目状態にある。神が見えないのである。耳があっても神の言葉を聞くことが出来ない霊的不自由者なのである。
創世記3章のヘビは、動物のヘビというより「サタン」を象徴的に描写しているのではないかと考えられている。
「イザヤ27:1」 「ヨブ26:13」には、ヘビの話がある。
JAS Isaiah 27:1 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、 逃げ惑う蛇レビヤタン、 曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、 海にいる竜を殺される。

ヨブ26:13 その息によって天は晴れ渡り、 御手は逃げる蛇を刺し通す。

ヘビをサタンの代わりと象徴的に描写しているならば、英語で、serpent. ラテン語の動詞でserpo、意味は、這う。ゆっくり進む。知らぬ間に徐々に広がる、徐々に侵入するという意味をもっている。残念ながら、私たちには、いつ悪魔サタンが働くのかは見当がつかない。誰も知らない。このヘビは私たちが知らぬ間にこっそり侵入するのである。
だから、聖書には、目を覚まして注意して祈りなさいと警告している。

私たち人間は、肉の目が開かれることによって、霊の目は、盲目の状態の中にいる。
しかし、キリストへの信仰の勝利によって、黙示録2章7節のように、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることが許された。そこで、例えこの世の誘惑や試練に置かれても、私たちは信仰によってプラス思考で勝利を得ることができる。参考:ガラテヤ3:22、ローマ3:22
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

私たちは、聖書の律法の全てを初めから行なうことのできない無力な罪びとである。私たちが肉によって負うべき全ての罪を、神の子である主イエスが私たちの罪の代わりとなって十字架にかかられた。そして三日後に復活された。そこで、神は、主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちを義とされ、私たちに復活の喜びといのちの木の実を食べる特権を与えられた。これを所謂神の子とされる回復という。


2015.11.11        [言葉の力]
JAS Genesis 1:1 初めに、神が天と地を創造した。
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

JAS John 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

Hebrew4:12
12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

韓国のある放送局で、二つのビンの中に焼き立てのご飯をそれぞれに入れて、言葉の実験をしてみたそうです。
私も実際の映像を見させていただきました。
右側のビンのご飯には、「あなたは、美しい。本当にあなたは素晴らしい」と声を掛けさせ、もう一つの左側のビンのご飯には、「お前は、うざい。最悪だ」と声を掛けさせてみました。
そのように、放送局内の職員たちは、ビンの中のご飯の反応を半信半疑で実験して観たそうです。
その数週間後のことです。結果は、何と右側のビンの中の褒められたご飯は、香ばしい香りがする白いカビが綺麗にできていました。その一方、左側の怒られたご飯は、何と臭いにおいがするみにくい汚いカビができていたのです。
私は、生命体(草や木も含めて)だけが人間の声に反応すると思っていましたが、なんと命のない物でも人間の声に反応することに初めて知りました。それを実験した関係者たちもびっくりしていました。

 本日のタイトルは、「言葉の力」です。そうです。言葉には、力があるのです。
先ほど、一緒に読みました創世記1章の最初は、神による天と地の創造を現しています。
世間では、天地創造の出来事を神話だとか科学的根拠のないストリーであると無視する人もいます。自分の目で確認しないと気が済まないタイプ、それが、私です。私は最近合気道を始めてから、目に見えない第三次元の力を認めるようになりました。

さて、天地創造の話はともかく、先ほど喩えました言葉によるビンの中のご飯の変化には皆さんはどう思われるでしょうか。

創世記1章の最初をもう一度見てみましょう。
3節には、神は仰せられた。つまり、神は言葉を掛けられたとあります。神は、言葉を発して天と地ができました。これ又、信じられない事実ですが、その信仰を私たちに与えてくださったのは、神なのです。
ですから、科学的根拠で、納得して聖書の言葉を信じているのではありません。ある意味、聖書の言葉が信じれることこそ私たちにとっては奇跡と言えるかもしれません。
2節には、地は茫漠として何もなかったとあります。これは、秩序のない混沌としている世界或いは宇宙創造の始まりを現しています。
私たちも言葉(ロゴス)としてこの世に来られた主イエスを信じる信仰によって、以前混沌としていた人生、暗闇の人生から秩序のある、光ある人生に変えられたのは実に感謝なことです。

ヨハネの福音書1章の最初をもう一度見てみましょう。
私が個人的に主イエス・キリストが神であり、救い主であるに違いないと確信した御言葉がこれです。
天地創造の時に「光あれ」と仰せられた神は、いよいよ人の罪を解決するために、この世にくだり、ご自身が直接人間の身体を受けて、この世に生まれました。これを記念するのがクリスマスです。しかし、この方には元々罪は在りませんでした。
そしてなんとこの方には人を変える力と別次元の命がありました。この命は人の光であると聖書は言っています。それは、この方、主イエスキリストによる十字架の死と復活、そして永遠のいのちが私たちの信仰によって、私たちにもそれが保証されているからです。
それ故、この方は明らかに私たちの光なのです。この光は、私たちの罪ある暗闇の人生の中にビッグバンを起こして、今もわたしたちにキリストの霊である聖霊を通して照らし続けています。
そして、闇の力である悪の力はこのキリストの光に勝つことはできません。ですから、私たちは主イエスのみ名によっていつも祈れることができるのです。アーメン。

このロゴスなる神、主イエスの言葉には、力があります。
ですから、へブル人への手紙4章12節で、神の言葉は生きていて力があると言っています。
先ほども申しました、二つのビンの中のご飯の譬えは、人の言葉による力です。
ましてや、神の言葉による力は、天と地、そして宇宙を創造するのに十分なパワーがあるのではないでしょうか。
両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す神の言葉は、私たちのいろんな考えや将来への不安、又私たちが悩みの中でこうしようかああしようかという計画でさえも判別することが出来るのです。

私たちが、毎日聖書を読まざるを得ない理由が、ここにあります。すなわち、力ある神の言葉を通して、暗闇の人生から光ある人生へ導いてほしいと願う気持ちと、そして、更に神の御声に聞き、その御心を知るためであります。
何度も申しますが、言葉には力がありますから、どんな時でもポジティーブな考えとプラス思考で先ずは自分自身を天地創造の主なる神に委ねつつ今日も祈って行こうではありませんか。
では、お祈りいたします。
2015.10.28       「宗教改革について」
使徒の働き17:10-12

10 兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。
11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
12 そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。

 皆さん、今の礼拝形式の中で、使徒信条、十戒、主の祈りを入れるようになったのは、いつ頃からかご存じでしょうか。それは、ヨーロッパにおける宗教改革以降から今のような礼拝形式が整うようになりました。宗教改革とは、簡単に言いますと、当時のカトリックの礼拝形式に反抗して、庶民も礼拝のメッセージを聞いて、神の恵みをいただきたいと運動を起こしたのが発端で宗教改革或いは礼拝改革とも言えます。
この宗教改革は決して、ルターやカルヴァンが起こしたのではなく、ヨーロッパ、特にイギリスなどにおける王様がカトリックを利用して、国を支配したり、カトリックの司教の権威で町を治めたりしていたところから、不満を持っていた知識人である修道士を中心として15世紀ごろから徐々に聖書に戻りましょうという運動を惹き起こしたのが、16世紀に、つまり1500年代半ばごろルターなどによる改革者たちによって、宗教改革の嵐が津波のように徐々に押し寄せてきたのです。
特に、イギリスにおけるピューリタン(聖書主義者)は、カトリックの形だけの礼拝から、意味の分からないラテン語の説教ではなく、意味の分かる母国語の英語で説教してほしいと、そして、さらに生活での悩みや願いを解決してくれる身近な説教を求めることによって、1557年には、ジュネーブ聖書が初めて英語に訳されまして、それに伴うドイツにおける印刷技術の発達によって、ドイツで英語の聖書を印刷して、当時カトリックであったイギリスに、こっそりと英語の聖書を持ち帰り、庶民に配ることによって、イギリスのカトリック中心主義の政治体制が崩れていく原因になります。
勿論、この出来事が起こる前に、イギリスの大主教であったトマス・クランマーなどの聖書中心主義者たちが、カトリック政治体制に反抗してくることによって、当時、カトリック教徒であった女王メアリによって、多くの宗教改革者たちは火あぶりにされたり(今もその痕跡はオックソポードになあり)、迫害を受けて、大陸や他の国に亡命する人々が続出することになりました。その迫害の波を受けて、イギリスやドイツ、フランスなどのピューリタンたちは、アメリカに渡り、教会を開拓していきます。それが原因で、アメリカには現在プロテスタント教会が多いのです。
 ピューリタンの宗教改革者たちが大事にした御言葉が先ほど読みました、「使徒17章11節」です。
パウロとシラスがテサロニケからベレヤの町に行って、キリストの福音を伝えた時、そこのユダヤ人たちは、非常に熱心に御言葉に聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べたとあります。ここでの聖書は、旧約のヘブライ語の写本のことです。
キリストの誕生と死と復活以来、新約聖書の原文であるギリシア語の聖書が今の聖書に形作られるまで大体300年の歴史がかかりました。そして、それから1300年以上も後で、聖書はやっと一般人の手元で読まれることが許されました。日本語訳や韓国語訳は今から約130年頃前に訳されました。それまでには、ヨーロッパではラテン語で説教が語られ、庶民たちは意味の分からない神礼拝をしていたのです。
当時、ヨーロッパにおけるカトリック教会の腐敗と説教への不満は、宗教改革を起こすのに十分でありました。つまり、聖書に戻って、母国語の言葉で神の言葉が読める、また聞けることは今の私たちには当たり前ですが、当時の彼らにとっては、最高の喜びであったに違いありません。
なんと、当時、ヨーロッパにおいて徐々にプロテスタント教会が増えることは、カトリック教会にとっても厄介な悩みでした。そこで、カトリックの中でも新しい改革が起こります。その代表的な団体がイェズス会であったのです。そして、カトリックはプロテスタントに負けない勢いで中国とアジアに向けて伝道を開始します。その波が、日本にまで及んできて、プランシスコ・ザビエルなどによる、宣教師たちによって、秀吉に羅針盤や鉄砲、望遠鏡などを渡すことで、日本全国統一の夢を果たした秀吉は、更なる朝鮮と中国への大陸侵略を試みることになります。つまり、ヨーロッパにおける宗教改革の波は、16世紀における日本の歴史にも大きな変化をもたらしたことは間違いありません。
即ち、使徒の働きの17章11節「ベレヤ地方のユダヤ人は、パウロのキリストの話に
非常に熱心に御言葉に聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」とこの聖句がきっかけに、中世におけるヨーロッパの歴史のみならず全世界とアジアの歴史にも劇的な変化をもたらしたことは考え深い所であります。
 私たちも日ごろ、このような姿勢が必要だと思います。つまり、非常に熱心に説教を聞き、毎日聖書を調べる心が私たちには必要だと思います。
その時初めて、世界の歴史が宗教改革によって変動したように、私たちの人生における歴史も劇的な変化がもたらされるのではないかと思います。
では、お祈りいたします。
2015.10.14 「第二のモーセである主イエスについていくこと」
第一コリント10:1-13
JAS 1 Corinthians 10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
 
 2節を見てみましょう。「モーセにつくバプテスマを受け」と書いてあります。ここで、モーセにつくバプテスマとは、ギリシア語原文から訳しますと、モーセの仲間になってついていくことを意味します。
結論から、申しますと、私たちも第二のモーセである主イエスについて行こうではありませんかと私は伝えたいのです。
出エジプトの際、イスラエルの民はどうやって、洗礼を受けたでしょうか?それは、第一コリント10章2節にもありますように、彼らと共におられた主の雲と海の分かれ目である水の壁を通ることによって、イスラエルの民は洗礼を受けました。
ですから、洗礼(バプテスマ)とは、キリストの十字架の死が私たちの罪のための死であること、そして、キリストの復活は、私たちも朽ちるものから朽ちないものへと復活されることを意味します。 また、イスラエルの民がモーセの仲間になって、奴隷生活をしていたエジプトから逃れて、乳と蜜が流れるカナンに向かったように、私たちも第二のモーセである主イエスについて行くことを、洗礼を通して約束し、契約の子とされること、これが洗礼の本当の意味です。
さらにイスラエルの民が奴隷生活をしていたエジプトは、私たちの現在の「罪の奴隷」の生活を現し、その罪の奴隷から水による洗礼(バプテスマ)を受けて、キリストについて行くことを約束することが私たちの霊的なエクソドス(出エジプト)なのです。

しかしながら、イスラエルの民が紅海を渡った時、すぐにカナンの地に入ることは許されませんでした。なぜなら、そこには、神の民となる条件があったからです。その条件として、彼らは幾つかのテストを通らなければなりませんでした。
それが、40年間の荒野での生活です。ところが、残念ながら、出エジプトを出た200万人近くの洗礼を受けた民は、荒野であらゆる偶像崇拝や姦淫などによって、一日に二万三千人が死んだと聖書は記してあります。これが40年間続きますと、紅海での洗礼を体験した世代のほとんどはカナンに入る事無く、死んだことになります。
私たちも、洗礼を受けたものの、今、この世においての悪魔サタンに支配されて、荒野のど真ん中におり、時には、私たちは神様につぶやいたり、お金や人間関係を神様よりも大事にしてしまいがちです。聖書はこのような行為を偶像崇拝や姦淫を犯す罪であると言っています。
「私は、絶対に偶像崇拝や姦淫を犯したことはありません」と言える人はこの世には一人もいないと思います。ですから、私たちは、そのような試みに遭わないように祈り続けなければなりませんし、聖書の神の御言葉を通して、常に悔い改めて行く必要があります。
そのようにして、信仰を全うした時に、ついに霊的カナンの地に入ることができるのです。つまり、神の国に入ることが出来るのです。
私たちは、洗礼(バプテスマ)によって、確かに契約の子供とされています。これは、すなわち、神の子供とされていることです。しかし、私たちは、人生の荒野において、いろいろな誘惑の中で果たして神様が導く約束の地、神の国に入れるかと言う問題が、出エジプトのイスラエル人の行動を通して示される私たちへの神様からの戒めなのです。
 
では、もう一度考えてみましょう。
エジプトから逃れたイスラエル人約200万の中、姦淫の故に、一日に二万三千人が死にました。それが荒野の生活の40年の間続き、ほとんどの人が滅んだと聖書は教えています。
それはなぜでしょうか?
それは、6節にありますように、彼らは欲望に満ちていました。むさぼっていました。彼らは飲み食いし、立っては踊ったとあります。つまり、彼らは、楽な生活を求めていたのです。私たちもこの世において欲望に満ちています。これは、偶像崇拝であると聖書は言っているのです。
8節には、「姦淫」の話が続きます。つまり、結婚と言う契約を結んでない夫婦関係以外の関係は「姦淫」です。神様と私たちの関係は洗礼によって、花婿と花嫁の関係、又、父と子の関係になりました。現代社会において、モラル(道徳)が 完全に崩壊し、何が罪であるかすら見分けがつかなく、全てが当たり前になったこの世は、キリストの審判を待つほかはありません。
9節では、「主を試みてはならない」と言っています。
イスラエルの民は、神が立てたモーセを試み、主を試みることによって、彼らは、ヘビに噛まれ、死にました。
出エジプト記17章1-7節まで、「主を試みる」場面があります。7節には、「主がおられるのか、おられないのか」彼らは試みたとあります。
私たちも試練に会うとき、主の存在を疑ってしまい、試みてしまいます。そこには、つぶやきがあります。 これらの罪によって、海の洗礼を体験したほとんどのイスラエルの民はカナンの地に入ることはできませんでした。
では、私たちに今、必要なのは何でしょうか。
それは、第二のモーセである主イエスによる新しい霊的な洗礼(バプテスマ)を受けることです。キリストの霊であり、神の霊である聖霊を受けるには、神の霊感で書かれた聖書を丁寧に読むこと。そして、神の言葉に従うことが求められます。
私たちは洗礼を受ければ天国が完全に保証されるわけではありません。霊的なカナンの地、神の国に入るには人生における荒野にてあらゆる試練に耐えなければなりませんし、又、努力しなければなりません。
今日も、人生の荒野において、主は私たちの信仰を試そうとなさいます。聖書は、私たちの会った試練は人の知らないものではないし、神は私たちに耐えられないほどの試練に会わせることはなさらないと約束しています。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださっていると聖書は言っています。
ですから、第二のモーセである主イエスの仲間になって、人生の羅針盤である御言葉を読みつつ、主イエスについて行くことを私は強くお勧めしたいのです。
 では、お祈りいたします。