2016.2.10 「主の祈り―試みにあわせず」
「マタイ6:9-13」
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
旧約聖書は、主イエス・キリストの到来以前の話で、救い主なる主イエスの到来とその必要性と理由を、歴史を通して順序良く書き留めたのが旧約であります。
旧約の時代に、イスラエルにはモーセの律法があっても、彼らは罪から自由にされることはありませんでした。むしろ、彼らは律法に縛られて、群衆は自らその律法を破った人を裁いたりもしていました。
即ち、形式的な律法を守っていても、彼らは依然として罪の中にいました。そして、彼らは、神にどのように祈ればいいのかすら知らなかったのです。そこで、福音書において、弟子たちは主イエスの下に来て、どのように祈ればいいのか教えてくださいと主イエスにお願いをしているのです。そして、主イエスは彼らの願いに応えて、神様への祈り方を教えてくださったのです。それが、所謂「主の祈り」でマタイの福音書6章9-13節にあります。
さて、ギリシア語原文には、「diaboros」という単語があります。これは、日本語に訳しますと「中傷する者、敵対者、悪魔」を現します。これをヘブライ語で「Satan」と言います。
悪魔は、神の似姿として造られた人間を神から離反させ、又不従順に陥れようとして昔も、今も一生懸命働いています。だから、聖書は、私たちに、目を覚まして祈りなさいと言っているのです。 悪魔は、私たちの中に毒麦の種を蒔き、神の言葉の善い種を盗み取ろうとしています。*ルカ8:12「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。御言葉を聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、御言葉を持ち去ってしまうのです」。
誘惑に屈服する者はサタンの子らに属します。
主の祈りの中の「試みに会わせず」の「試み」とは、ギリシア原文では、「ペイラスモス」と言います。「ペイラスモス」には、プラスの意味とマイナス意味があります。プラスの意味は神が私たちの信仰を試すために試みられることです。これを英語で「Trial」と訳します。また、マイナスの意味は、悪魔が私たちを神の信仰から切り離すための試み、つまり「誘惑」という意味を持つ「試み」があるのです。これを英語で「Temptation」と訳します。
ですから、主の祈りの中の「試みに合わせず」とは、マイナス意味の悪魔からの「誘惑」であると考えられます。
第一ヨハネ3章8節にはこのようにあります。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです」。ここで考えられますのは、私たちも一方間違うとサタンの使いになり得るのではなく、サタンそのものになり得るということです。
悪魔、サタンはこの地球全体を今も支配しています。ですから、私たちには、常に祈りと礼拝が必要なのです。
私たちが 神の国の到来と主イエスが再び到来することを待ち望んでいる理由は、苦しみ多きサタンの支配下にあるこの世から救い出されたいからです。
私たちが旧約の出エジプトを未だに大事に考えるのは、今現在サタンの奴隷にされているこの世からエクソドスを待ち焦がれているからです。また、新約において、二千年前に主イエスが来られた理由も、この世を支配している悪魔のわざを破壊し、十字架から流れた血と主イエスを信じる信仰によって、私たちに霊的なエクソドスを与えて、真の自由を保障する為であるのです。
悪魔とサタンの使いたち、即ち悪霊たちとの戦いにおける、エクソドスのための私たちキリスト者の霊的な武装は、まさしく「礼拝」であります。私たちキリスト者は、この礼拝に命を懸けなければありません。そうでないと、悪魔、サタンは私たちを、道端に落ちている種のように、すぐにでも呑み込もうと狙っているからです。その結果は、永遠の滅びが待っているだけです。
もちろん、私たちの主イエス・キリストの十字架の愛と憐れみなしの、私たちの肉の頑張りだけでは到底そのような悪の力に立ち向かうことはできません。しかし、私たちが真理と義に立ち、主イエスによる救いを信じる信仰、そしてキリストの霊である聖霊と神の御言葉とに対する従順により、霊的に常に武装されていれば、私たちは悪魔、サタンの支配から解放され、サタンの奴隷生活からいよいよエクソドスされることが出来るのです。
では、お祈りいたします。
「マタイ6:9-13」
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
旧約聖書は、主イエス・キリストの到来以前の話で、救い主なる主イエスの到来とその必要性と理由を、歴史を通して順序良く書き留めたのが旧約であります。
旧約の時代に、イスラエルにはモーセの律法があっても、彼らは罪から自由にされることはありませんでした。むしろ、彼らは律法に縛られて、群衆は自らその律法を破った人を裁いたりもしていました。
即ち、形式的な律法を守っていても、彼らは依然として罪の中にいました。そして、彼らは、神にどのように祈ればいいのかすら知らなかったのです。そこで、福音書において、弟子たちは主イエスの下に来て、どのように祈ればいいのか教えてくださいと主イエスにお願いをしているのです。そして、主イエスは彼らの願いに応えて、神様への祈り方を教えてくださったのです。それが、所謂「主の祈り」でマタイの福音書6章9-13節にあります。
さて、ギリシア語原文には、「diaboros」という単語があります。これは、日本語に訳しますと「中傷する者、敵対者、悪魔」を現します。これをヘブライ語で「Satan」と言います。
悪魔は、神の似姿として造られた人間を神から離反させ、又不従順に陥れようとして昔も、今も一生懸命働いています。だから、聖書は、私たちに、目を覚まして祈りなさいと言っているのです。 悪魔は、私たちの中に毒麦の種を蒔き、神の言葉の善い種を盗み取ろうとしています。*ルカ8:12「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。御言葉を聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、御言葉を持ち去ってしまうのです」。
誘惑に屈服する者はサタンの子らに属します。
主の祈りの中の「試みに会わせず」の「試み」とは、ギリシア原文では、「ペイラスモス」と言います。「ペイラスモス」には、プラスの意味とマイナス意味があります。プラスの意味は神が私たちの信仰を試すために試みられることです。これを英語で「Trial」と訳します。また、マイナスの意味は、悪魔が私たちを神の信仰から切り離すための試み、つまり「誘惑」という意味を持つ「試み」があるのです。これを英語で「Temptation」と訳します。
ですから、主の祈りの中の「試みに合わせず」とは、マイナス意味の悪魔からの「誘惑」であると考えられます。
第一ヨハネ3章8節にはこのようにあります。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです」。ここで考えられますのは、私たちも一方間違うとサタンの使いになり得るのではなく、サタンそのものになり得るということです。
悪魔、サタンはこの地球全体を今も支配しています。ですから、私たちには、常に祈りと礼拝が必要なのです。
私たちが 神の国の到来と主イエスが再び到来することを待ち望んでいる理由は、苦しみ多きサタンの支配下にあるこの世から救い出されたいからです。
私たちが旧約の出エジプトを未だに大事に考えるのは、今現在サタンの奴隷にされているこの世からエクソドスを待ち焦がれているからです。また、新約において、二千年前に主イエスが来られた理由も、この世を支配している悪魔のわざを破壊し、十字架から流れた血と主イエスを信じる信仰によって、私たちに霊的なエクソドスを与えて、真の自由を保障する為であるのです。
悪魔とサタンの使いたち、即ち悪霊たちとの戦いにおける、エクソドスのための私たちキリスト者の霊的な武装は、まさしく「礼拝」であります。私たちキリスト者は、この礼拝に命を懸けなければありません。そうでないと、悪魔、サタンは私たちを、道端に落ちている種のように、すぐにでも呑み込もうと狙っているからです。その結果は、永遠の滅びが待っているだけです。
もちろん、私たちの主イエス・キリストの十字架の愛と憐れみなしの、私たちの肉の頑張りだけでは到底そのような悪の力に立ち向かうことはできません。しかし、私たちが真理と義に立ち、主イエスによる救いを信じる信仰、そしてキリストの霊である聖霊と神の御言葉とに対する従順により、霊的に常に武装されていれば、私たちは悪魔、サタンの支配から解放され、サタンの奴隷生活からいよいよエクソドスされることが出来るのです。
では、お祈りいたします。