2015.8.26 「反面教師」
使徒の働き8章1-25節
前回の説教の同じ個所からの違う説教をさせていただきます。
迫害、それは神の福音を述べ伝えるための神の手段とも考えられます。 主イエスの弟子たちは依然としてエルサレムにおいて、奇跡を行ない、ユダヤ人伝道に励んでいました。
いよいよ使徒の働き1章8節にあります「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、キリストの証人となる」という主イエスの言葉が成就される時が来ます。
このように、主イエスは、弟子たちに福音を全世界に述べ伝えるように命じられます。福音とは、ギリシア語原文で、ユーアンゲリオンと言います。ユーとは、「良い」という意味で、アンゲリオンは、「知らせ」を意味します。
福音とは、神の救いに関する「良き知らせ」のことです。英語では、Gospelと言いまして、最近は神への賛美と間違って使われていますが、本来は、神の言葉の良き知らせを意味します。
この福音が全世界に伝えられるように主イエスは弟子たちに命令しました。すなわち、福音を伝えることは、「キリストの証人になること」です。 Amen
しかしながら、主の弟子たちは、以前としてエルサレムに留まり続けました。そこで、彼らをエルサレムから全世界に追い出す手段として、神はキリスト者への迫害を赦されるのです。それが、使徒8章1節です。「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者は皆、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」とあります。
カイザリヤ出身のピリポという男がいました。彼は、1万人の信徒たちから推薦された7人の一人のキリストの伝道者です。彼には預言する4人の未婚の娘がいたと使徒21章9節には記しています。ピリポはエルサレムの中で迫害が起きた時、選ばれた伝道者として、隣国のサマリヤ及び、自分の故郷の町カイザリヤに接する西ユダヤに神の福音を伝えていました。
念のためですが、ピリポという人物は主イエスの12使徒の一人とは区別しています。使徒の働き8章のピリポはステパノと同じ執事としての説教者です。そして、彼がなぜ1万人の弟子たちから選ばれたのかは、あくまで私の推測なんですが、彼には使徒21章にもありますように、御言葉に満たされている4人の娘がいたこと、そして、霊においても、知性において、神の言葉を伝えるにふさわしい人物であったので、その1万人の中から選ばれたのではないかと考えられます。
さて、エルサレムに迫害が起きた時、ピリポはサマリヤに逃げます。使徒8章6-7節です。「サマリヤの群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は治ったからである」とあります。主なる神はピリポにしるしと奇跡を行なうことを許されたのです。
この奇跡は、特にその町で有名になっていた魔術師シモンの偽りの奇跡を打ち破るのに必要でありました。しかし、ピリポは自分を通してしるしと素晴らしい奇跡が行なわれていても、サマリヤ人たちの内面における聖霊の洗礼を受けさせるほどの特別な賜物は主なる神から許されなかったようです。このため、主イエスの12弟子の中の二人、ペテロとヨハネがエルサレムからサマリヤに派遣されます。使徒8:14-17節参照。
ここで、「聖霊を受けること」とは、目に見える奇跡とは異なります。人間の内側が神の霊に満たされることです。内面の変化です。人間の知性で神を理解して受け入れるとは異なります。
これは多分、使徒2章にあります五旬節の日に起きた出来事のような、或いは、使徒10章44-47節のローマの百人隊長コルネリオに与えられた異言の賜物が聖霊を受けているその証拠であると考えられますが、聖霊が何らかの形でサマリヤ人たちに現れて、それが、魔術師シモンには、天からのわざに違いないと確信させたことです。そして、シモンは、使徒8章19節でお金をもって来て、「この権威を私にもください」とペテロに言っていたのです。
聖霊による賜物は金で買うことはできません。信仰もお金で買うことはできません。
ペテロの特別な力をお金で買おうとしていた魔術師シモンは腹黒い考えがありました。
ペテロに怒られた魔術師シモンは、答えて言いました。「あなたがたの言われたことが何も私に起こらないように、私の為に主に祈ってください」(24節)。 彼は、神の審判を恐れました。彼はピリポによるしるしと奇跡を見て自分の意思で、水による洗礼を受けました。しかし、聖霊による洗礼はまだ受けていませんでした。その理由なのか、シモンは未だ自己の罪を悟らず、これを悔い改めることをしなかったのです。
ある注解書では、魔術師シモンの行動を利己主義、自己中心主義であると言っています。
これは、出エジプト記8章28節のモーセとエジプト王ファラオとの会話でも知ることができます。「ファラオは言った。『私は、お前たちを行かせよう。お前たちは荒野でお前たちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私の為に祈ってくれ』。また、出エジプト記9章28節「主に祈ってくれ。神の雷と雹(ひょう)は、もうたくさんだ。私はお前たちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない」。また、ルカ16章28節、金持ちとこじきラザロの比喩で、ハデスで苦しんでいた金持ちは言います。「わたしには兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、良く言い聞かせてください」と。
これらの話に共通していることは、彼らは神の審判を恐れながらも、自ら悔い改めることをしなかったことです。
結論です。1、迫害は私たちには起こり欲しくない最悪のことです。しかし、その迫害によって神の言葉は広まりました。そこに、神の計画が潜んでいるかもしれないことです。
2、聖霊の特別な賜物はお金で買えるものではありません。頭がいいから神存在がわかるものでもありません。又、私たちの頑張りや功績によって神の祝福が来るわけでもありません。
神の賜物は、天地が造られる前から神に選ばれた人に来ます。その人が無学であろうが、障がいを持っていようが神様にとっては、なんの関係もありません。神への信仰は、神の賜物であり、奇跡です。
3、使徒8章22節で、ペテロは魔術師シモンの腹黒い考えから、悔い改めて主に祈りなさいと言いました。
しかし彼はペテロに、天罰が起こらないように私の為に主に祈ってくださいと答えました。エジプトの王ファラオもモーセに同じく答えました。しかしながら、利己主義からの自分の欲を捨てることはできませんでした。
魔術師シモンは、伝道者ピリポによって「バプテスマを受けました」。しかし、魔術師シモンは、以前として、自己中心主義の欲望に駆られていました。つまり、内面的改革までには及んでいませんでした。
「悔い改め」とは、単なる罪の赦しを目的とするのではなく、自我の欲を捨てて神に喜ばれる者になることを意味します。
私たちは水による洗礼に留まってはいけません。何度も繰り返しますが、聖霊による洗礼を受けて内側の改革をしなければなりません。
お祈りいたします。