2015.7.22 【過越しの祭りと主イエス・キリストの十字架】
マタイ26:1-13節

 これは、主イエスが十字架にかかる二日前の出来事を現しています。ここでのポイントは「過ぎ越しの祭り」です。
では、過ぎ越しとは何かを映画を少し観てから、過ぎ越しの祭りとキリストの十字架との関連性を考えていきたいと思います。
過越しの祭りの発端は、今から3,500年前にエジプトで起きました。
これについての聖書は、旧約の出エジプト12;1-14節、出エジプト34;22などで確認できます。 ⇒映画を観るhttps://www.youtube.com/watch?v=aTpKYlFVtyQ (39:00-45:00)

過越しの祭りは、イスラエルにおける三大祭の一つです。
1、 過ぎ越しは、メシアとして来られた主イエスの復活によるキリスト者の救いを暗示しています。(出12:1-14)
2、 小麦の刈り入れの初穂のために7週の祭りがあります。これを五旬節とも言います。
エジプトを出たイスラエル人は、七週間の祭りの際、モーセがシナイ山に登っている間、モーセを待ちきれませんでした。そしてアロンとイスラエル人たちは、目に見える形としての黄金の子牛の神、偶像を造り、これに拝みます。これは彼らにとっての大きな罪となりました。(出34:22)
3、 年の変わり目に収穫祭を行ないます。これを「Thanks giving day」として、アメリカでも祝っています。(出34:22)これの由来は、仮庵祭りで、イスラエルの民がエジプトを出て、荒野で天幕の生活をしたことを記念としています。

ここで注目すべきことは、マタイの福音書26章の過越しの祭りから、50日目の使徒の働き2章の聖霊降臨までちょうど50日がかかったことです。この日が五旬節の日、ペンテコステだったのです。これは、言い換えますと、旧約聖書の出エジプトでの「Pass Over」過ぎ越しの出来事からイスラエル人たちがエジプトを出て、ちょうど50日後にシナイ山でモーセに神の律法である十戒が与えられたことです。

ですから、出エジプトの過越しは、メシアが来られるという預言であり、その救いは、過ぎ越し祭りの際、小羊として、十字架にかかられた主イエスがそのメシアであることを証明しています。そして、人の子、神の子である主イエスの流された血によって、私たちの心の扉にその血を塗ることで、私たちは、神の呪いから免れることになるのです。
キリストは十字架につけられて死んで、三日目に復活し、40日間弟子たちに現れ、その後天に上ります。そして、その一週間後に集まった120人の弟子たちにキリストの霊である聖霊が下るのです。これを、ギリシア語で50日を現すペンテコステと言うのです。
先ほども申しましたが、「過ぎ越し」とは、出エジプト記12章にもありますように、神の民とそうではない者たちを分けて裁くために、子羊の血を扉に塗ることによって、神の天罰を免れ、救われることを意味します。
メシアであるキリストが過ぎ越しの羊として十字架で死なれて、ちょうど50日目に聖霊がユダヤ人ではない、主イエスを信じる全ての人に下ったのです。これが神からの新しい契約です。
旧約では、出エジプト、即ち、神は「Pass Over」、過ぎ越しの出来事を通して、ご自分の民を救われました。そして、ご自分の民がエジプトを出て、過ぎ越しから50日目にモーセを通してご自分の御言葉を彼らに与えられました。
しかし、新約においては、キリストの死後、50日目に聖霊が主イエスを信じる人たちに下りました。
これは即ち、旧約では神がモーセを通して、ご自分の民に間接的に言葉を語られたとするならば、新約においては、第二のモーセである主イエスの霊が直接的に主の兄弟たちに下ることによって、間接的ではない、直接的に私たちが神と会話ができるようになったことを意味します。
ですから、Pass Over された私たち、言い換えまして、神の恵みによって救われた私たちはモーセのように御言葉が与えられるしるしとして、聖霊を受けなければなりません。

マタイ26:6節に戻りたいと思います。6節には、主イエスが、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとあります。
「ツァラアト」とは、ヘブライ語で、ハンセン病のことです。ツァラアトに冒された人は、ユダヤ人世界では、「汚れている人、仲間外れ、のけ者とされる」ことを意味しているそうです。ツァラアトのヘブライ語の語源は、「崩壊する」「打ち砕く」の意味を持っています。そして、「天罰を受けた人」を示しています。
 ここで、考えてみたいと思います。
私たちは、実際、霊的なツァラアトに冒された者です。
アダムの罪から始まって、生まれたときから、私たちの遺伝子は神に呪われたのです。
しかし、神の子であり、神である主イエスは、過ぎ越しの小羊として私たちが天罰から逃れるように、私たちの身代わりとして十字架にかかられました。そして、その十字架上で流された血によって、私たちは霊的なツァラアトの状態から、つまり、天罰を受けて、呪われる状態から、打ち砕かれ、悪魔サタンから解放されることになりました。
これぞ、本当の自由であり、平和を意味する過ぎ越し祭りの小羊として死なれたキリストの犠牲なのです。この方が、ツァラアトに冒された、いや皆からのけ者にされた人シモンの家におられたということは、今も主イエスを信じる私たちの心の家にも共におられる証拠ではないかと思います。
 では、祈らせていただきます。
2015.7.8                天国には誰が入れますか  「羊と山羊の譬え」
マタイ25;31-46 
31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」


2015.7.8                天国には誰が入れますか  「羊と山羊の譬え」
 31節-46節までは、前回の引き続きで主イエスの到来における「天の御国には誰が入るのか。羊と山羊の譬え」を一緒に考えたいと思います。
では、31節から見てみたいと思います。
ここで、「人の子」とは、主イエス・キリストのことです。
主イエスは、すべての天使たちを伴って来られるとき、栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民は、王である主イエスの御前に集められ、まるで羊飼いが羊と山羊(やぎ)を分けるように、すべての人々を分け、羊を王である主イエスの右側に、山羊をその左側に置くと聖書には示しています。
そして、羊と山羊、右と左により分ける理由を主イエスは35節から言われています。

では、羊をなぜ、王である主イエスの右側に置くのかを考えてみたいと思います。
皆さんもご存じのように羊は羊飼いがいないと前に進むことが出来ない動物です。そして、とても素直で羊飼いの声によく従いますから、例えば主イエスのことを父なる神の言葉に素直に従った小羊として表したり、また聖書の神の言葉に従順さを持ったキリスト者のことを羊とも喩えられています。
しかし、王様の左側に置かれた山羊(やぎ)は、羊とは違って、別に羊飼いを必要としているわけではありません。即ち、羊飼いがいてもいなくても、自分で判断して勝手に好きなところに行ける動物なのです。山羊とされる人々は、神様の言葉よりも自分の判断を優先します。又彼らは、最初から誰かの支持に従って動こうとは思っていません。

聖書では、おのれの考えを捨てて神に従った者たちを義人としています。即ちこの人たちを主の兄弟たちとも呼んでいるのです。或いは、正しい人たちとも呼びます。
主イエスが再び来られる世の終わりの時には、主に従った人々。即ち、羊飼いが羊を右側に寄せ集めるように、主イエスに従った従順な人たちを「羊」としてご自身の右側に置かれると伝えているのです。
これに対して、神の言葉に従わず、おのれのことを思い、神のことより人のことを優先する人を「山羊」と譬えて、主イエスの左側に置かれ、呪われた者として分けます。

ここで、救いについて少し説明させていただきたいと思います。
 私たち、キリスト者は、かつてキリストに出会う前には、悪魔によって完全に呪われていた者でした。しかし、今は、聖霊によるキリストへの信仰によって義とされ、神の子供とされる特権が与えられています。そして、これは継続的であり、最後までに信仰を貫き通した結果として、義人とされ、祝福され、永遠のいのちさえも与えられると聖書は約束しています。
そのために、主イエスは2千年前に来られ、私たちの罪の為に、身代わりとなって十字架上で完全に罪を背負われたのです。
しかしながら、救われた私たちは、以前としてこの世においては、信仰の戦いをしていますし、悪魔、サタンの誘惑によって時には信仰を失ったり、御言葉に不従順になったりします。
こういう人たちにならないようにマタイ25章31節から46節の譬えで、私たちに注意を呼び掛けているのです。

山羊として分けられ、神の左側に立った呪われた者たちは、この世の務めにおいて、おのれの力を信じ、自分に栄光を変えそうとします。
その人たちは、恐ろしいことに、永遠の刑罰である、永遠の火に投げ込まれるとマタイ25章41節で示しています。
即ち、主イエスの左側に立っている者たちは、正式に言えば、キリスト(救い主)に出会っていない人たちのことです。
言い換えますと、なんと、教会の中にも洗礼は受けても、最初の救われた喜びを忘れて、神との関係が崩れたまま、神様よりもおのれに栄光を返すために、外面(そとづら)をよくする人たちがいます。
残念ながら、私たちには、その人たちが誰なのか、つまり、誰が羊で誰が山羊なのかは見分けがつきません。 マタイ25章31節からの譬えで世の終わりの時には、主イエスが彼らを右と左に分けられると伝えているのです。
特に、32節に「すべての国々の民が、その御前に集められます」とありますが、これは神学的に色んな解釈をしています。しかし、私の見解としましては、一般的な人々を言及するのではなく、キリスト共同体、教会共同体の兄弟姉妹たちを現しているのではないかと思います。
それは、なぜなら、王様の右側に置かれる側も、左側に置かれる側も、王様と何らかの関係があるから振り分けられるし、外見ではわからない霊的な奥深い世界で裁かれるからです。

それから、飛びまして、41節をもう一度読ませていただきます。
「41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』とあります。
神様にたくさんの天使たちがいるならば、悪魔、サタンもたくさんの使いたちがいます。
小学館の辞書からは、サタンの手下で神と敵対するものを悪霊とも言います。つまり、悪魔、魔王、サタンは同じ意味で、その手下で働く者たちを悪霊とか悪鬼とか呼びます。
例えば、マルコ5章5-9節に、主イエスは、悪霊に取りつかれた青年に、「サタンよ、出て行け!」とかは言いませんでした。最初に、「名は何か?」と汚れた霊に取りつかれた人にこう質問するのです。そして、彼の答えは、「レギオン=2千」と答えるのです。
そして、マタイ4章1節、主イエスに対する悪魔の試みがありますが、ここは、悪霊の代表であるサタン、悪魔が神の子なる主イエスに立ち向かおうとしています。
さらに、マルコ8章33節、主イエスが弟子たちにご自分の十字架のことを伝えた時、ペテロがいさめ始めた時、ペテロに「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱りました。
では、もう一度、マタイ25章41節に戻ります。
王である主イエスは、左側にいる者たちに、「わたしから離れて悪魔とその使いたちの為に用意された永遠の火に入れ」と言われます。
先ほども伝えました、王である主イエスの左側に分けられた山羊は、神のことを考えず、おのれの事、人の栄光を考える者であると申しました。
ここで、マタイ7章22-23節を私が読ませていただきます。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』とあります。

私たちは時々人々から褒められることを好みます。 しかし、褒められるためにやる奉仕は実は自分に栄光を返す奉仕であると注意しなければなりません。
ですから、神の栄光のためにする奉仕とは人間的判断基準ではない、ひそかに人々が気づかぬうちに、右手がやっていることを左手すら知らない中に黙って行動に移すことではないかと思います。

ですから、マタイ16章27節には、こうあります。「27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」
 ここで、誤解しないでほしいのは、行ないによる救いを言っているのではありません。
マタイ25章31節からの譬えは、善い行いが救いの根拠であることを伝えたいのではなく、神の民としての善い行い、即ち、慈悲深い行動が、普遍的に働かれる神の恵みによって、最後の審判の時に右と左に分けられるのではないか思います。
 
本日のポイントです。
神の裁きは、単なる神を信じる、信じないことではありません。
むしろ、神を信じている者で、羊なのか山羊なのか見分けがつかない者が教会共同体の中にもたくさん存在するのです。しかし、神は、その人の行いの根底或いはその人の趣旨を常に見ておられているということです。そして、主が栄光を帯びて再び来られる時には、羊と山羊。義人と呪われた人でふるい分けられることをマタイ25章31-46節の譬えで教えておられるのではないかと思います。
では、お祈りいたします。
2015.6.24 「天の御国には誰が入れるのか」
 マタイ25:1-13
天の御国は、誰が入れるのかという例えで、主イエスは、花婿を出迎える10人の娘のようだと言われています。そのうち、5人は灯を持っていましたが、油を用意していなかった愚かな娘たちでした。そして、他の5人は、自分の灯と一緒に、入れ物に油を用意して持っていたのです。
愚かであることをギリシア語の女性、複数形で「μοραι」=「モライ」と原文には載っています。正に、愚かな処女たちは花婿を待っている時、油が切れると、他人から「もらう」つもりだったのでしょうか。愚かな女性たちを示す原文が日本語の発音「モライ」に似ているのは、なぜか偶然ではないような気がします。さて、油を用意して置いた賢い女性たちは、油を貰おうとする愚かな女性たちのお願いを断りました。彼女たちはこう言っていました。「うちも、油がちょうどなのであなたに与えるわけにはいきません。今、店に行って自分のを買いなさい」と言います。
皆さんは、賢い女性たちの行動にどう思っているでしょうか?ある方は、「冷たいな」ある方は、「それは、仕方ない」と思う人もいるかもしれません。
実際、自分がもし、愚かな女性たちの立場で、油を借りるのに断られて、夜分遅く、店に油を買いにいかなければならないと想像してみてください。たぶん「だるいな」と思うに違いありません。
しかし、ここで、もし花婿を迎える10人の女性たちに油を用意して待てる十分な時間とチャンスがあったとすれば、この5人の女性たちの行動がむしろ納得のいかない、愚かな行動であったことが分かると思います。
天の御国はこのようであると主イエスは例えておられるのです。
皆に、同じ時間が与えられて、ある人にとって時間を上手に使って、この世での生活をうまくやりくりできている人がいるとすれば、ある人にとっては、何をやるにも怠けて、ぎりぎりで何とかなると思い、なかなか行動に移せない人も、この世にはたくさんいます。
では、皆さんは、どちらでしょうか。
主イエスの再臨を、聖書では、花婿を迎える花嫁のようであると、マタイの福音書9章15節にも示しています。
その花婿なる主イエスはだれも予期しないうちに、雷のように突然来られると聖書は語っています。 では、花嫁とされている私たちキリスト者たちは、花婿を迎える用意はできているでしょうかというのが、本日のポイントなのです。
愚かな処女たちは、花婿が何時来られても良いように、残念ながら油を準備してはいませんでした。彼女たちは人生を行き当たり場たり、何とかなるという甘い考えを持っていたのです。
その結果、どうなったでしょうか?それは、婚礼の祝宴に入ることは許されませんでした。 では、クリスチャンと言われる私たちはどうでしょうか。 主イエスが何時来られても良いように、心の準備をして、礼拝に臨み、祈っているでしょうか。或いは、そのような緊張感を持って、霊的な目を覚ましているでしょうか?
この譬えのポイントは、二つだと私は思います。すなわち、「心の準備」と「緊張感」です。
スポーツ選手は試合に出る前に、一所懸命イメージトレーニングをして試合に臨みます。また、楽器を演奏する人も、舞台に出る前に、緊張感の中でイメージトレーニングをしながら、舞台に立ちます。
ですから、私たち、キリスト者たちも救われたことの喜びと感謝を保ちつつ、主イエスが何時来られても良いように心構えをしなければなりません。
それが、日々の礼拝であり、礼拝の中で行われる聖礼典つまり、洗礼式と聖餐式。そして祈りであります。 そして、私たちが御言葉としっかり向き合って神様の御声を聞く時に、神の霊はその時、即ち、最後の日に供えるべき信仰のランプを私たちに与えてくださるのではないかと思うのです。
日本語のともしびとは、英語でランプと言いますが、これは新約聖書の原文であるギリシア語のλαμπάδας に語源を持っています。
ところで、主イエスを待ち続けた10人の処女たちは、みな、うとうと眠りはじめました。
しかし、油を絶やさずに信仰のランプを灯(とも)しつづけている処女たちは、10人のうち、なんと5人の賢い女性たちだけだったのです。 ここで賢い人とは、頭の良さではありません。前もって良く準備しておく人のことです。
彼女たちにしか花婿なる主イエスの婚礼の祝宴に、即ち、天の御国へ入ることが許されなかったのです。  私たちは寝ることも大切です。 聖書には、「目を覚まして祈りなさい」という御言葉がありますが、それは、寝ないで祈りなさいと言う意味ではありません。なぜなら、賢い5人の女性たちもうとうと眠っていたからです。しかし、彼女たちが婚礼の祝宴に入れたのは、長い時間眠れずに祈っていたからでもなく、善い行いをしていたからでもありませんでした。
それは、等しく与えられていた人生の中で、信仰のランプに、どれほど、花婿なる主イエスのことを思い、礼拝と祈りと礼典に真摯に向き合い、御言葉によって、聖霊の油を注がれ、いかに心の準備をしていたかによって天の御国の扉は賢い女性たちに開かれ、いよいよ婚礼の祝宴にまで無事に入れることになったのです。
私たちはキリストにあって霊的な花嫁です。ですから、いずれ、花婿なる主イエスを迎える日が来ます。しかし、その日が、いつになるかは誰もわかりません。その日は、愚かな5人の女性たちにとっては、苦しみの日であり、終わりの日であったように、形式的な、宗教的な礼拝に長年出席した人たちがこのような人たちです。しかし、喩え短い信仰期間であっても宗教的礼拝ではなく、霊と真をもって真摯に礼拝し、祈った人たちは賢い5人の女性たちに等しく、その人たちにとっては主イエスの再び来られる日が、喜びの日、復活の始まりの日になるのです。
それゆえ、私たちは、5人の賢い女性たちのように、信仰のランプに、聖霊の油を用意しておく必要があります。 そして、霊的な目を覚まして、主イエスを待ち続けるように、今晩も一緒に祈ろうではありませんか。     では、短く祈らせていただきます。
2015.6.10         「主の再臨の時」
マタイ24:32-44

マタイ24章は、主(おも)に、主イエスの再臨以前の中間期に対する現象を言及しています。即ち、私たちが住んでいる今が、主イエスの初臨と再臨の中間期であります。
ですから、現在の苦難、そのものが終末でもなければ、終末における前触れでもないことを示しています。そして、いつ終わりの日なのかは具体的には教えてくれません。
なんと、マタイ福音書の中心人物である人の子、つまり主イエスご自身も、その日を知らないと24章36節で「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」と示しています。
24章は、来たるべき終末或いは、予測される終末を待ち望みなさいとも言いません。その代わりに、終末が迫っていると感じられる色んな苦しみは、単に災難の始まりであると24章8節で現しています。そして、最後まで耐え忍ぶ者は救われると13節で言っています。
しかしながら24章で、はっきりと示しているのは、終りの日は確かにあるということです。
でも、その時間は、誰も知らず、常に準備しておくことを強調しています。 ですから、24章は、2千年前のキリスト者のみならず、現代のキリスト者にも適応されるのです。
マタイ24章において、主の日、終わりの日がいつになるかは正確には伝えていませんが、一つ、その日の時間を現すのが、29節の「すぐに」(ευθεως)であります。

*では、終末以前の出来事を見てみます
マタイ24:9-13 「 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
特に12節「多くの人たちの愛は冷たくなります」は、まさに再臨の中間期に生きている私たちのことを描いているのではないでしょうか。 政治家は国民をだまし、隣人は隣人をだますこの世の中には、もはや愛は存在しません。むしろ、人間の愛は利用されて、ずる賢い人だけが勝ち組になって堂々と生きているような気もします。
 
*24章3-4節を見てみたいと思います。「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」
ここで私たちが知れるのは、弟子たちが主イエスに質問しました、世の終わりの徴が、まさに今起きていることです。しかし、未だに終わりが来ないのは、世界のどこかにまだ救われていない神の民が存在するからなのです。
ところが、24節には、「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」とあります。
ここで、「選民」とは、クリスチャンのことです。終わりの日には、偽預言者や偽メシアがクリスチャンを惑わします。それは、大きなサインと驚くべき力によって惑わされます。ここに騙されることがあると警告しています。
ここで質問です。皆さんは、日本には、すでに福音が伝えられていると思うでしょうか?もし、神の言葉が伝えられたとするならば、どうして、未だに日本人の99%が主イエスを受け入れていないでしょうか?
ですから、主の再臨の日は、ディレイー(延期)されているのです。 

第二ペテロ3:9 「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

主イエスはマタイ24章21節で預言しています。「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」
エルサレムは、嘗てBC200年、アンティオクスによる迫害がありました。その後、主イエスの死後40年頃、AD70年、ローマによってエルサレムは完全に崩壊されます。
そこで、主イエスはローマによる迫害がある時、エルサレムから逃げなさいと勧告しています。

24章24節は、旧約の申命記13:1‐3節を背景にしています。
「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、
2 あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、
3 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」

偽キリストについては、第一ヨハネ4:1‐3節を見ればわかります。
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」

偽キリストの目的は何でしょうか? それは神に選ばれた者を誘惑するためです。
27節をみますと、主が再び来られるときは、「稲妻」のように、夜中の「盗人」のように来られると言っています。
しかし、36節に「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」とあります。
ですから、主が来られる終わりの日は、誰も知りません。
戦争や地震が起きても、それは産みの苦しみの初めなのであり、世の終わりの前兆であって、終わりが来たのではありませんので、あわてないで最後まで忍耐する事を主イエスは今の私たちにも教えておられます。

では、お祈りいたします。
2015.6月 東大阪 朝祷会 / 主題:「光なる神」
KOG Genesis 1:1  はじめに神は天と地とを創造された。
2  地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3  神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4  神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
・・・・・
14  神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
15  天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
16  神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。

メッセージ:
神は、天地創造の四日目に太陽と月を造られました。ですから、3節の「光」と14節の
「光」とは異なります。3節の「光」はヘブライ語原文で、「א֑וֹר 」と言いまして、単数形で表しています。しかし、14節の「光」は、מְאֹרֹת  複数形で「太陽と月」を現しています。ですから、14節の光があってから、人間の時間が誕生し、一日とか一年と言う概念ができました。なので、人間の時間も被造物なのです。
1章5節にあります、「夕があり、朝があった。第一日」という表現は、神の時間のことで、カイロスにおける一日のことです。人間の時間であるクロノスとは異なります。

そして、創世記1章2節では、秩序のない状態を現しています。
私たちは宇宙を「コスモス」と呼んでいます。しかし、「コスモス」という意味は「秩序」の意味をも持っています。ですから、2節は、秩序と調和の現れとしての宇宙創造を現しています。
ですから、私たちが信じている創造主なる神は、秩序の神であり、調和の神であります。
この方は、言葉によって、宇宙の秩序を定め、地球を造られ、二千年前に、旧約の預言者たちの言葉を成就されました。この方の名は神でありながら、人間の身体を受けて生まれた救い主、主イエスです。
では、ヨハネの福音書1章1-5節まで私が読ませていただきます。
KOG John 1:1  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2  この言は初めに神と共にあった。
3  すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4  この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5  光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

創世記1章の天地創造の初めに、言葉があり、「光」ができました。それを1章3節で確認できます。
新約聖書の原文のギリシア語で、皆さんもご存じのように、「言葉」を「ὁ  λόγος」
と言いまして、単数形で現しています。「この方は、神と共におられ、神であった、そして、この方は、創造の初めに、神と共におられた」とヨハネの福音書1章1-2節で確認できます。ですから、主イエスは、初めから神と共におられ、神であられたこと、そして、この言葉、即ち、ロゴスなる主イエスに命がありました。
そしてこの命は、今も人生の空しさと闇の中で苦しんでいる罪人たちの光となり、その暗闇を照らし、人の光である主イエスのもとに来れるように、聖霊の照明(illumination)によって照らされ、それだけでなく信仰が与えられ、光なる神に、即ち、秩序と調和のある神に礼拝し続けるように今も呼びかけています。なぜならそれは、この世が、悪魔、サタンによって、アダムの時から霊的な秩序を失っているからです。
神は信仰の光です。
私たち、キリスト者は、この世の苦難の中から聖霊によって信仰が与えられ、以前、霊的盲人から、今や、光である神の存在を聖書の御言葉を通して、感じることができ、心から喜びをもって礼拝することが出来ます。ですから、単なる宗教的礼拝とは異なります
それゆえ、世の光である主イエスによって、私たちに天の御国への希望が与えられているのは、自分の努力や自分の意思による頑張りではなく、聖霊による恵みとその働きの他にありません。

私も、以前、キリストに出会う前は、天地創造の神の言葉が発せられる以前の茫漠(ぼうばく)で、混沌とした人生を過ごしていました。つまり、霊的秩序がありませんでした。
かつて霊的盲人から、生きる希望を与えられたのは、この「聖書」、神の言葉のおかげです。
さきほど、聖霊の照明(illumination)という表現をしました。これは神学用語かもしれません。
照明とは「光」のことです。
最近、韓国で無線通信インタネットの代わりに、LED照明によって、無線通信ができる技術が開発されました。
LED照明は、家庭や駐車場、地価の空間で使われています。このLED無線通信が実用化されれば、深い地下ドンネルでもインタネット通信ができるようになります。
もはや、Wifiの時代はなくなるかもしれません。
その無線通信ができるLED照明の研究者の話によれば、このように言っていました。
「単に暗闇を照らす照明から、互いに情報伝達ができる技術が必要とされました。この照明を通して、あらゆる情報を受けることができ、照明とネットワークが駆逐されれば、もう一つ別次元の情報通信世界が開かれるのではないかと思います」と言っていました。

結論です。もし、私たちが、聖霊による照明を受けたならば、LED照明の無線通信技術以上の神様との霊的通信ができるのではないかと私は思うのです。今日も、神との無線通信が円滑に出来る一日となりますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
2015.5.27マタイ21:1-11 「いま、救ってください」

① 群衆の主イエスへの考え:
ここで群衆とは、マタイ20:30-34にあるように、主イエスによって目を癒された盲人たちと過ぎ越しの祭りを過ごすためにエルサレムに集まった巡礼者たちをも含む。彼らは、主イエスが病を癒し、奇跡を行なうすごい預言者だと考えていた。
しかし、エルサレムで主イエスを迎える群衆は、申命記18:15「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」
これを解釈すると、「イスラエルの神は、イスラエルの子孫から、モーセのような一人の預言者をイスラエルの為に起こされる」。
群衆は、主イエスのことを、第二のモーセとして、イスラエルを罪の奴隷から解放されるために来られた方としては残念ながら考えていなかったのである。そして、主イエスを、旧約で預言された、来るべきメシアであるに違いないので、人類を救い出す終末論的預言者としてエルサレムに迎え入れたわけでもなかった。
それは、マタイ21章11節でわかるように、「ガリラヤのナザレの預言者」としか、主イエスのことを見てなかったことがその証拠である。そして、群衆が主イエスのことをダビデの子孫であり、メシアとして、王として一応考えたのは、現にローマの支配権からの解放、政治的国家の樹立をもしかしたらこの人を通して実現できるかもしれないと信じていたのであろう。
しかし、王として来られる主イエスのエルサレムの入城は、白馬に乗ってくる勇ましい王としての姿ではなく、何と雌ロバの、ロバの子に乗って入城するみすぼらしい姿の王であった。けれども、彼らは、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいた。
「ダビデの子」とは、旧約で神が、預言者たちを通して、来たるメシアはダビデの子孫から生まれることへの預言の成就を示している。
そして、「ホサナ」とは、もともと、ヘブライ語、アラム語で、日本語で訳すと、「万歳。祝福あれ。どうぞ、救ってください」と意味である。「ホサナ」の「ホ」は、「どうぞ」の意味で、「ナ」は「私は今祈る」の意味である。
 マタイ21章9節の群衆の喜びと叫びは、旧約聖書、詩編118編の主の勝利と終末論的救済を意味する所から、特に、詩編118編の25-27節は、このようにある。
「25 ああ、主よ。どうぞ救ってください。 ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
26 主の御名によって来る人に、祝福があるように。 私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
27 主は神であられ、私たちに光を与えられた。 枝をもって、祭りの行列を組め。 祭壇の角のところまで。」

詩編118:27とマタイ21:8にある「木の枝を切ってきて、道に敷いた」とあるが、木の枝とは、棕櫚(しゅろ)の木であるとヨハネの福音書12:13では証言している。

これは、詩編118:25-26節のヘブライ語原文である。
25 אָנָּ֣א יְ֭הוָה הוֹשִׁ֨יעָ֥ה נָּ֑א אָֽנָּ֥א יְ֜הוָ֗ה הַצְלִ֨יחָ֥ה נָּֽא׃
26 בָּר֣וּךְ הַ֭בָּא בְּשֵׁ֣ם יְהוָ֑ה׃
(Psa 118:25-26 JAS)

では、主イエスの視点から考えてみることにする。
② 主イエスの考え:
マタイ21:4-5節は、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節とイザヤ62:11節にある預言を成就するための主イエスの弟子たちへの命令である。
ゼカリヤ9章9節にこのようにある。
「9 シオンの娘よ。大いに喜べ。 エルサレムの娘よ。喜び叫べ。 見よ。あなたの王があなたのところに来られる。 この方は正しい方で、救いを賜り、 柔和で、ろばに乗られる。 それも、雌ろばの子の子ろばに。」
マタイは、マルコやルカとは違って、旧約の預言者の言葉通りを成就するために、主イエスは来られたことを強調している。
マタイ21:7節「7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。」と日本語訳になっている。
特に、「イエスはそれに乗られた」というギリシア語原文では、ἐπεκάθισεν ἐπάνω αὐτῶν. (Mat 21:7 BGT)「それ」が原文では「それらのうえに」の複数形になっていた。
これは、即ち主イエスが「雌ロバ」と「子ロバ」にまたがってエルサレムに入城するかのように、考えられる所でもある。しかし、ここでの神学的解釈は色んな神学者たちによってそれぞれ異なっている。しかし、主イエスが一気に二頭のロバにまたがって入城したとはとても考えられないため、5節通りに、「ロバの子」に載って来られる主イエスであると考えた方が無難ではないかと思う。
そして、主イエスが、戦いを意味する馬の代わりに、主人に鞭を打たれたら、前に進むしかない柔和で、大人しい子ロバに乗って、「エルサレム」に入られたのは、文字通りの「シャレムの神」として、つまり、「平和の神」として、ご自身の神の言葉を成就する為であり、過ぎ越し際の屠られた羊のように、エルサレム入城後、一週間後に十字架を背負い、血を流すことにより、その死と復活、神の和解と勝利を実現するためのご計画であったことがマタイ21:1-11を通して読み取れるのではないかと思う。          では、お祈りいたします。
2015.5.13      「天の御国に誰が入れますか?」
  マタイ17:14-18:6
 
もし誰かが、キリストに対する不信にとどまっているのなら、その人には、神の御霊が働いていないことになります。言い換えまして、もし誰かが、キリストに対する信仰が少しでもあるのなら、その人には、神の聖霊が働いていると言えます。すなわち、キリストを受け入れる信仰は、神様の超自然的な賜物、プレゼントです。勿論、目には見えません。
私たちキリスト者は、御霊によって、信仰が与えられ、主イエスへの信仰によって神から選ばれた子供とされる特権が与えられました。 ですから、信仰は、聖霊以外からは来ることはできません。 例えば、人間の自由意志によって、キリスト教の神を選んだとしましょう。しかし、そこには、宗教的礼拝や律法、自己満足しか存在しません。
つまり、自由意志によるキリスト教礼拝は、説教や讃美などで、或いは教会活動などで自分を満足してくれないと、教会共同体から何れは離れてしまうことになるのです。
私たち人間の自由意志は、汚れていて、罪に満ちています。
そして、私たちは時には、自分の自由意志からの欲望と聖霊の働きを混同する時があります。私たちには、これも又分別できるように祈らなければなりません。
ですから、聖霊による信仰は、自由意志とは異なります。
それは、信仰が人間側にあるのではなく、神側にあるからです。なので、信仰によらなければ、罪からの「悔い改め」は起こらなければ、他人(ひと)の罪に対する「赦し」も起こりません。  
また、人間の自由意志には、自尊心(プライド)という大きな「罪」が隠れています。
しかし、聖霊による、神の超自然的な賜物である「信仰」には、自分の罪に対する「悔い改め」と共に、「これからは神様を悲しませる行動はとらない」という方向転換も含んでいます。
私たち皆は、以前、罪の奴隷となって、霊的分別力のない、見分けることのできない霊的な盲人、さまよっていた羊だったのです。
 誰かが、「私は、違いますよ。私は生まれたときから、主イエスの十字架の愛を知っていて、母の体の中から主を賛美していました」と言える人は一人もいないと思います。
聖書の人物の洗礼者ヨハネは、別としてです。彼は、母親のおなかの時から、主イエスの誕生を喜んでいたと聖書にはあります。その証拠は、ルカ福音書1章39-44です。
39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

私たち、キリスト者は、この世の苦難の中から聖霊によって信仰が与えられ、以前、霊的盲人から、今や、光である神の存在を聖書の御言葉を通して、感じることができ、心から喜びをもって礼拝することが出来ます。ですから、単なる宗教的礼拝とは違います。
それゆえ、世の光である主イエスによって、私たちに天の御国への希望が与えられているのは、自分の努力や自分の意思による頑張りではなく、聖霊による恵みとその働きの他にありません。アーメン。
そして、神の霊である聖霊は、天の御国へのカギを信仰によって私たちに渡しています。
この聖霊の照明(illumination)が私たちの暗闇の精神世界を照らされるときに、私たちは霊的な盲人から「見る目」が与えられ、うつ病からも癒されるのです。アーメン

本日のポイントはこれです。マタイの福音書18章3-4節
3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

口語訳:
3  「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
4  この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

この箇所の釈義です:
「まことに、あなたがたに告げます。ἀμὴν λέγω ὑμῖν, あなたがたも悔い改めてないとἐὰν μὴ στραφῆτε(unless you turn)( ギリシア語原文で、「悔い改める」の単語は二つある、一つはστρεφω:行動を変える、向きを変える、思い直すこれに対して、もう一つは、μετανοεω:心を変える、悔い改める、後悔する)、また 小さい子供たちπαιδία =infant(ラテン語:言葉が話せない1歳未満の子)を現し、Infantのようにならない限り、決して天の御国εἰς τὴν βασιλείαν(S) τῶν οὐρανῶν(pl)には、入れません。ここで、天を示す「ウラノン」は複数形です。そして、御国を示す「バシレイアン」は単数形で表しています。天が複数であるのは、もしかしたら、宇宙を示す「天」と地球の空を示す「天」と私の心の中にある「天」を示しているのではないかと考えられます。ですから、この子供(赤ん坊)のようにὡς τὸ παιδίον τοῦτο 、自分を低くする者ταπεινώσει ἑαυτὸν、その人が、天の御国で一番偉い人です。」、ここで「自分を低くする者」とは、 (訳:自分自身を謙虚にする者、つまり、誇りや権力・意思を弱くすることを意味します。「低くする」という英語のhumbleの意味は、
ラテン語からで「地面に近い」ことを意味する。」

纏めです。本日のタイトルは「天国には誰が入れますか?」です。
自由意志ではない、聖霊によって信仰が与えられて私たちは、赤ん坊のような素直で、低い心を持って、「行動や心を変えない」限り、天国に入ることはできないと、マタイの福音書18章3節から学ばせて頂きました。

では、お祈りいたします。
2015.4.29       「富を警戒しなさい」
 申命記28:1-14

この世には二つの富があります。
一つは、神の祝福による富ともう一つは、不正からの富があります。
最初の神の祝福による富とは、申命記28章1-14節にありますように、「主の命令に聴き従う時に与えられる」、神の祝福のしるしとしての豊かな財産です。しかし、マタイ6:24、ルカ16:13の富は、不正からの富を現します。
マタイ6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

ここで、「富」とは、アラム語で[Mammona]と言いまして、新約において、財産を示す「マモーナー」は、不正な商売や不正な詐欺によって得た利益。或いは、人間を巡って、神と争う一つの力として擬人化された「偶像の神」を意味します。
では、まず、神の祝福のしるしとしての財産を聖書からもう一度確認してみたいと思います。
先ほど読みました、申命記28:1-14をもう一度読んでみましょう。
JAS Deuteronomy 28:1 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
3 あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
4 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。
5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
6 あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。
7 主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。
8 主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
9 あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。
10 地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。
11 主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。
12 主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。
13 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。
14 あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。

皆さん、皆さんは、この神様の祝福の言葉を心から受け取っているでしょうか。
特に、6節は、「あなたは、入る時も祝福され、出るときも祝福される」とあります。この御言葉は、私が韓国の母に電話する度に、私に十年間、母から与えられた御言葉です。自分の子供が、外国に出ていても、また、国内にいても祝福されて欲しいのは、親の気持ちでしょう。それと同様に、神様も、ご自身の子とされた私たちにこのような祝福の言葉を保証しています。ですから、私たちは、この御言葉を信じなければなりません。

旧約における神の祝福は、このように私たちが主の命令に聴き従うときに与えられる、豊かな財産がそのしるしとして与えられました。実は、今もそうだと私は信じています。
しかし、新約において、富を警戒しなさいと忠告しているのは、人はお金や財産によってそれらの奴隷になりがちで、挙句の果てには、キリスト者としての信仰さえも失うことがあるので、生まれたときから物質の欲求に弱い私たちに神は警告しておられるのです。
ですから、主イエスは、マタイ6:24やルカ16:13において、「24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
と言われるのです。
富は、カトリックでは、7つの罪の一つとして、悪魔であると言っています。

では、纏めます。
旧約聖書における富は、神によって保証されたこの世の生活における豊かさであり、神に祝福されていることの徴とも見ることができます。
それが先ほど二度も読みました、申命記28章1-14節です。
昔の族長たちの場合、まず家畜を多く持つことは財産であり、これを神の祝福である富として誇りました。そして、王は、土地のほか、金、銀、宝石など多くの財宝を蓄えました。特にソロモン王がそうでした。
ところが、経済活動が活発になるにつれて、都市文明と貨幣制度が発展するとともに、社会的に貧困の差も高まったのです。これによって、法に逆らって、不正な富を得ようとする人たちが増えたのです。
もしかしたら、その短編的な例として、キリストの12弟子の一人であった、ユダヤ地方のカリオト出身のユダも、銀貨30枚で主イエスを人身売買しようとして、不正で富を得ようとした代表的な人物かもしれません。
人は、精神的に追い込まれると、本性が出てしまい、なぜか本能的に不正を犯します。
新約聖書において、メシアの到来を待望し、終末思想が深まる中で、外形的な富は偶像崇拝に流れる傾向があると、マタイ福音書6章24節では、警告しているのです。 これがシリアやエジプトの神話でマーモンの神として、嘗ては崇められたという一説もあります。

一所懸命に働いて正しく積まれた富と財産は、この世においては、確かに誇りになるかもしれません。しかし、その富と財産をもって、天国に行くことはできません。その財産が漏れることなく、正しく使われるように、祈らなければなりません。
この富と財産は、昔は神からの祝福の徴でありましたが、今は、悪魔の餌食になりやすく、家庭崩壊や教会崩壊をももたらしている原因になっています。

この前、韓国では、裏献金の疑惑で、首相が辞めました。その首相に10年以上裏献金をした人は、国会議員の経験がある、ある会社の社長です。 そして、その社長は首相に長年、政治献金をしてきたのですが、むしろその首相は、その社長を逆に不正疑惑で逮捕しようとしたのです。
そして、裏切られた悔しさで社長は裏献金疑惑の証拠を残して、自殺したのです。
その自殺した社長は、仕返しとして悔しさのあまり、首相の他、多くの政治家にたくさんの献金をしたことを証拠として残していました。
政治家同士の裏献金問題は、どこの国にもあるかもしれません。
富があるのは嬉しいことです。しかし、その財産を一歩間違った所に使用した結果、12弟子の一人であったユダのように自殺に追い込まれることになったのです。
非常に残念な結果です。マタイ16:26節「人は、たとい全世界を手に入れても、まことの命を損じたら、何の得がありましょう」とあります。
私たちは、たびたび宝くじでも買って金持ちになろうとします。しかし、それを祈る前に、私たちキリスト者は、まず神の国と神の義を求めなければなりません。そうすれば、それらのものは時に適って与えられるのです。
さらに、その与えられた富を、私たちは知恵をもって正しく使うことができますし、その財産は決して漏れることなく、それ以上、富や財産に頼ることもありません。
私たちには、聖書の創造主以外に被造物である物や人に頼ろうとすることは、偶像崇拝にあたることを忘れてはなりません。アーメン

それでは、お祈りいたします。
2015.4.15 「幸せは、キリストのくびきを負うときに来る」
   マタイ11章全文

 日本と中国には、福を招く猫があれば、キリスト教には、福を招く音があります。
これを一つの文字で「福音」と言いまして、福音は神の国についてのキリストの言葉です。そして、これは、人生を変える力をもっています。
もし、人がロゴスなるキリストの言葉を聴いて、腹を立てるなら、その人には祝福は遠いのです。しかし、キリストの言葉に腹を立てず、つまずかないならその人は幸せになるだけでなく、神は既にその人の中にいます。これはマタイの福音書11章6節で確認できます。
この世で不幸な人とは、耳があっても聞くことができず、目があっても見ることのできない人のことです。これは、生まれたときから耳や目が不自由な方を指しているのではありません。現に、同じ言葉を聴いてもある人は悟り、ある人は聞き流しますし、同じ聖書の言葉を、目を通して読んでも、ある人は納得し、ある人は見落としてしまうことを意味します。これは、イエス様の時代に、聖書学者と自称礼拝者だとしている人たちを非難する表現でもありました。
又、牧師を先生として接待する者は、その牧師が受けるべき神の報いと祝福をそのまま、受けることになります。その理由で、韓国では、牧師への接待が手厚いか分かりませんが、それは、単に牧師を尊敬しているからとか、神の言葉を取り次ぐ器だからの理由ではなく、聖書のマタイ10章41節にもありますように、神の国の奉仕者を接待することによって、彼らがうけるべき、すなわち、牧師やクリスチャンが受けるべき神の祝福を接待する側もそのまま受けることになると聖書は保証してくれているのです。
ですから、祝福を招く音を運んでいる私たちに、もし、ノンクリスチャンが腹を立てないなら、それがその人にとっても幸せを招くことになるのです。
今日は、マタイ11章を読みましたが、全てを解き明かすことはできません。
最後に飛びまして、28節から30節は、世間の人にも知られているとても有名な主イエス様の言葉です。一緒にもう一度読んでみましょう。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

では、29節を見てみたいと思います。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます」とあります。では、「くびき」という言葉に注目してみましょう。(写真を見せる)

くびきを英語で「Yoke」と言います。これは、服従を意味しますし、さらに「結合する」とか「考えを一緒にする」ことを意味します。
即ち、昔の田舎で牛と牛がくびきを一緒に首にかけて同じ方向に向かって畑や田んぼを耕すことを意味します。二頭の牛は、互いに主人に服従して、一緒に力を合わせて土を耕さなければ堅い土は掘り起こせませんし、収穫に向けての農作業は進まないのです。
たぶん結婚生活もこれと同じではないかと思います。
私たちクリスチャンはキリストを花婿として迎え入れ、洗礼を受けました。そして、花嫁としてどんな時も一緒にすることを約束しました。つまり、この約束はキリストのくびきを共にする約束です。
このくびきを意味する「Yoke」という言葉はインドのサンスクリット語の「結合」という意味をもっています。この「Yoke」は、「Yoga」と同じ系列の単語だそうです。勿論、Yogaはインドが発端であることは皆さんも御存じだと思います。

結論です。私たちは、私たちの主人であり、花婿である天の神様に服従し、同じ「くびき」を負って、同じ方向に向けて結合しなければなりません。
これぞ、教会共同体としての花嫁の特徴であります。
わざわざ教会に来て、一緒に礼拝する意味もここにあるのです。
神のロゴスは、今も音となって響き、すべての人に祝福をもたらそうとしています。
もし、私たちが聖書のキリストのロゴスと一緒になることなく、機械的に人生を過ごし、形だけの礼拝をするなら、もはやそこには真の幸せは存在しません。
ですから、本当の意味で、福音を生かすには、如何に私たちの主人であるキリストに服従するか或いは、如何に教会共同体として私たちが結合するかによって、収穫に向けての春の種まきはスタートするのではないかと思います。

では、お祈りいたします。