2015.3.18 主日
*聖書:ヤコブ4:13‐15、詩編1:1‐3
1、 皆さんは、どのようにして神の声を聞いているでしょうか?或いは、どんな時にこれは神の御声だと確信できるでしょうか?
それは、もちろん聖書の御言葉を通してでしょう!と答える方もいれば、祈りの中で示されます!とそれぞれ経験をもって答える方がおられると思います。
私は、皆さんが聖書からでも、祈りの中からでも、ぜひ神様からの語りかけを体験してほしいのですが、私に最近あった出来事を少しお話して、主題に入りたいと思います。
先週、前に4年間働いていたごみ収集の会社を挨拶がてら、久しぶりにドーナツを買って訪ねました。本当の目的は、そろそろ、私も母の入院代や生活費を稼ぐために、仕事をしたいがために様子を見に行ったのです。
そこで、8年前から知り合いの社員に最近の仕事のことや給料のことを聞いてたら、以前、私がもらっていた日当8,000円が、今は、臨時のバイトでなんと5千円に下がったとのことを聞きました。
しかし、その社員は、とりあえず社長に言ってみると、「すべては神のみぞ知る」と言ってくれたのです。そして、給料のことも、5千円になるか6千円になるかは、すべて神の御手の中にありますよと、彼は私に言ってくれたのです。
彼はノンクリスチャンです。彼と8年の付き合いの中で彼は教会に行ったこともなければ、聖書を読んだことがあるとは一度も聞いたこともありませんでした。
ところが、そんな彼の口から、私は神の声を感じたのです。
私は帰ってきて、その日の夜10時くらいに、ふっと彼の言葉を思い起こしました。そして彼に、感謝のメールを送りました。「今日はありがとうございました。そして、励ましの言葉もありがとう!」とメールを送ったのです。
先ほど、読みました聖書のヤコブ書4章13-15節をもう一度見てみたいと思います。
そこには、『「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたは、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこういうべきです。「主の御心なら、私たちは生きていて、この事を、またはあのことをしよう。」』
とあります。
私は先ほど一週間前の出来事を分かち合ったのですが、つまり、自分が社長にお仕事のことでこう言おうかああ言おうかと悩んでも、結局のところ、すべては神の御心の中で決まるものであることを、私はノンクリスチャンの彼を通して、改めて自分の信仰が試された気がしました。
さて、ルカの福音書9章25節には、こういう御言葉があります。
「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」とあります。私たちが一所懸命に何かに目標を立てて頑張ることは素晴らしいことです。しかし、自分自身を失うほど忙しくし、たとい全世界を手にいれても、むしろ、肝心な家族や自分の命を失うと、何の益にもならないことを、聖書は私たちに伝えているのです。
2、 では、本日の主題である「幸せとは何か?」を考えてみたいと思います。
神の御心の中で私たちは、どのように行動すべきかを考える上でも、聖書は私たちにとって大切な道しるべであり、或いは私たちの人生にとってのGPSになることは違いありません。
詩編90:10節を見ますと、「私たちの歳は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と3千年前に書かれた詩編の著者はそう言っているのです。
では、改めて質問してみたいと思います。
「私たちの人生にとって幸せとは何でしょうか?」
私は幸せの定義づけを大きく二つに分けて考えてみました。
一つは、人間は短編的、一時的な幸せを追求しているのではないかと考えています。
これは、聖書の原文であるギリシア語で「クロノス」という「人間の時間」の中で世俗的に求める一時的な幸せのことです。
そこには、更に四つに分類することができます。
一つは、所有することへの幸せです。例えば、車を所有することの幸せ。たくさんの財産を所有することの幸せなどがありますが、これらは、一時的でいずれは飽きてきます。
二つ目は、経験を通した幸せです。例えば、お金をためて、旅行に行くこと。旅行先で出会ったこと、経験したことを10年、20年が過ぎても忘れられず、語れる幸せもあります。ところが、この経験を通した幸せは、死ぬまで忘れることはありません。
三つ目は、人間関係の中での幸せです。罪に満ちている世の中で、自分がどんな人に出会ったかによって、その人の人生は素敵な人生にもなり得ますし、最悪の人生にもなり得るのです。
私たちの束(つか)の間の人生の中で、皆さんはどういう人に出会って、幸せを感じているでしょうか?
四つ目の幸せは、自分自身のための第三の空間を作って、そこで気晴らしができているかということです。
例えば、日曜に教会に行くことによって、幸せを感じているとか、スポーツのジームに行き、筋トレ―をするとか、ゴスペル教室に行き、皆で声を揃えて歌うことへの幸せを感じる人もおられるかもしれません。
これらは、私たち、人生の中で短編的で、一時的な幸せとも言えるでしょう。
しかし、大きな二つ目の幸せは、永遠なる幸せがあるということです。
先ほど、読みました詩編1:1‐3節をもう一度見てみたいと思います。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
正しい生き方の第一歩は、悪しき者との交わりを避けることにあります。悪者とは、神を恐れない人、また聖書の御言葉に心を寄せることなく、神の義から遠く離れている人のことです。その人は、神への不信仰によって滅びると或る神学者は言っています。
詩編の著者は、悪者の滅びに私たちが巻き込まれることがないようにと伝えています。
悪者の道とは、生活習慣、行動が悪いことであり、彼らは、それに気づいてはいません。
人が神から離れて、その人自身の欲望に従って歩むとき、習慣となった罪はその人の目をくらませ、その結果彼は自分自身を忘れ去り、邪悪な中にいっそう頑なになるのです。
詩編の預言者は私たちが悪者と共に歩まず、彼らの道に立たず、彼らの席にも座ることを禁じています。
3千年前の預言者の時代においてさえ信仰深い神の僕たちが、悪しき者との交わりから身を引き、その堕落から身を避けるようと詩編は伝えているのです。
結論です。この世における正しい幸せの求め方は、主の教えを真に喜びとし、昼も夜もその言葉を口ずさむことにあります。その人は、まるで砂漠の中で飢え乾いている、罪に満ちているこの世において、水路のそばに植わった木のようだと預言者は言うのです。
その人は、時が来ると実がなり、その葉は枯れることがありません。
ここで「時」とは、ギリシア語で「カイロス」即ち、「神の時」を現しています。
先ほど、人間の時は、「クロノス」と申しました。クロノスにおける幸せは、一時的なものです。
しかし、「カイロス」における、つまり「神の時」における幸せは、砂漠の中のオアシスのように、水路のそばに植わった木のようで、時が来ると実がなり、その葉は枯れることがありません。昼も夜も御言葉を口ずさむその人は、何をしても栄えるのです。アーメン
これぞ、永久的な幸せであり、10年,20年経てば忘れたり、飽きたりするような所有物による幸せや経験による幸せとは別次元の霊的世界における幸せなのです。
このように永遠の幸せは、主イエス・キリストへの信仰による永遠のいのちと共に、聖霊によって与えられるものであって、決して人間の頑張りや努力で得られるものではありません。この永遠の幸せは私たち信仰者に、聖書を通して与えられた神の約束なのです。アーメン
この前、水曜日、K君が入院している病院へ二度目の見舞いに行ってきました。もう、彼は昨日退院しました。 彼のベッドの所にだれかからプレゼントされた本がありまして、許可を得てそれを読みました。
そこには世界の有名な人物の名言が載ってありました。その本にありましたトルストイの言葉を借りたいと思います。
このように、書いてありました。「確実に幸福になるただ一つの道は、人を愛することである」。
私は瞬間思いました。「人を愛してやまない神は、ご自分のたった独り子主イエスをこの世に送った。そして、主イエスは、人の罪のために自分の命を投げ出したのだ。それゆえ、主イエスこそ神の愛を実現した方であり、神ご自身なのだ」。
トルストイの言葉を借りるならば、主イエス・キリストこそ、神の愛を実現し、だれよりも一番幸福な人生を送ったのではないかと私は思ったのです。
では、お祈りします。