保護観察が終わっている,ある青年から電話がありました。
いつも教会で会っていますが、個人的に打ち明けて喋れる青年です。
内容は19日のY広輝君のことでラインを送ったら、さっそく連絡がありました。
その青年は最近、現場仕事をやっているのですが、雨の日でも忠実に出勤することが認められて、これからはもっと忙しくなり、日曜も仕事に呼ばれることになったとのことです。しかし、Y君が来る19日には、仕事を休んで教会に来ると言ってくれました。 
彼は、かつて体の不自由な人の本を読んで、悪さから心を改めるようになったと話してくれました。
それで、クリスチャンであるY君を青年に紹介したいと思ったのです。
19日の彼らの出会いを楽しみにしています。
2015.4.1 マタイの福音書3章
 
洗礼を授けるヨハネは、2節にありますように、悔い改めることを求めています。このようにして洗礼者ヨハネは、旧約のイザヤ40章3節の預言通りに、主イエスの道を用意して、主イエスの通られる十字架と救いの道をまっすぐにします。
5,6節です。自分の罪を告白して、バプテスマを受けた人々は、当時の聖書の言葉を誰よりも知っているエルサレムやユダヤ全土に住んでいる人々でした。
つまり、神の民としてのしるしである割礼をうけたにも拘わらず、神に立ち返らなかった頭だけの信仰を持っている彼らだったのです。そこに洗礼者ヨハネが登場するのです。
さらに、改めて洗礼を受けに来る人々の中には、パリサイ人やサドカイ人が大勢いました。
パリサイ人とは、信仰的社会階級であります。 彼らはだれよりも厳格に律法を守り、普通の人より優れていると自ら信じていた人々です。そして、彼らは、律法だけでなく、伝説をも重んじて霊魂の不死、肉体の復活を信じ、規律を立てて厳格にこれを守っていました。これに対して、サドカイ人は、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の律法のみを厳格に守り、霊魂の不滅と復活を否定し、パリサイ人のような律法主義者ではなく、むしろ自由主義的思想を持っていました。
ちなみに、復活を否定するサドカイ人がヨハネから洗礼を受ける理由は、洗礼の意味をも知らずに、ただ神の怒りを免れるため、或いは仲間の中に入れてもらうためだったに違いありません。
洗礼とは、水に浸かることで死を意味し、その水から上がることで復活を意味します。
復活を信じないサドカイ人が洗礼を受けるのは、洗礼者ヨハネに怒られるにふさわしかったのです。 洗礼者ヨハネは、彼らに、7節におきまして「まむしのすえたち」と怒りました。これは、その当時の一番最低な悪口、「サタンの子供たち」とも言い換えられます。
そして、8節にもありますように、私たちは、悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。自分だけは神に選ばれている特別な存在だと思ってはいけません。
 神は、良い実を結ばない木は斧をもってみな切り倒され、火の中に投げ込まれるその日が来ると警告しています。
洗礼者ヨハネは、水のバプテスマを授けていましたが、主イエスは、私たち信仰者に聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
ここで、聖霊とは神の霊のことで、聖霊によって私たちに信仰が与えられ、救われるのです。そして、火とは、力強さを示し、最後の裁きを意味します。
 さて、私たちが、田舎で稲を目にしたとき、その稲に実が入っているかどうかは外見では全く判断できません。必ず、触ってみるか、或いは風を起こして、振り落して初めて実が入っているかどうかが分かるのです。
その稲の実ともみ殻を振り分ける作業を昔は、箕(み)をもって行われたのです。(写真)
 その話が12節にあります。
さて、13節を見てみましょう。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた」とあります。
これも写真を見てみたいと思います。
14節です。主イエスは、ヨハネからバプテスマを受けることによって、悔い改めの模範を示されたと考えられます。その時、神の御霊が主イエスのもとに鳩のように下っていました。すなわち、主イエスがバプテスマを受けることにより、「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言われたのです。
 主イエスがいきなり、神の啓示を受けてメシアになったわけではありません。主イエスは、マリアによって生まれる時から、メシアであり、神ご自身だったのですが旧約の神の言葉をことごとく成就するために、ヨハネにより洗礼を受けられたのです。そして、主イエスは、ヨハネから洗礼を受けるや否や、すぐに伝道を開始したのではありませんでした。 その次の聖書を見ますと、主イエスは、悪魔の試みを受けるために荒野に上って行かれ、40日、40夜断食をしました。その後は、福音を伝える弟子づくりをしたのです。
では、纏めです。
洗礼者ヨハネが、パリサイ人やサドカイ人に言ったように、私たちもただ自分の罪を悔い改めるだけでなく、それにふさわしい実を結ばなければなりません。
手に箕をもって、神ご自身の脱穀場をすみずみまできよめられる日が必ず来ます。
救いの麦を倉に納められるあなたになるか、もみ殻のまま消えない火で焼きつくされるあなたになるか。そこに神は、本当の信仰の自由を私たちに与えておられるのではないでしょうか。
では、お祈りいたします。




 
2015.3.18         
 エゼキエル47章1-12節。マタイ2章2節。ヨハネの福音書4章1-14節。

注目すべき単語は?東の方。水。
主イエスが来られた目的は、もちろん、人間の救いのためではありますが、旧約聖書におけるたくさんの預言者たちの言葉をことごとく成就する為でありました。
ですから、新約聖書の福音書にある主イエスの言動は、自分勝手に好き放題で奇跡をなしたり、行動したり、言葉を発したりしたわけではなかったのです。
主イエスの誕生から十字架の死と復活までのすべては、旧約の預言通りに行われたのです。
その一部の証拠を見てみたいと思います。
まず、エゼキエル47章1-12節を一緒に読みたいと思います。ここで、「東」という言葉と「水」という言葉に注目しながら、或いはチェックしながら、読んでいきたいと思います。その後、マタイの福音書2章2節の東方の博士たちの話を見てみたいと思います。
そして、主イエスとサマリヤの女の井戸の前での対話を、ヨハネの福音書4章1-14節まで読んでいきたいと思います。
主イエスは、サマリヤの女に、ご自身がメシヤであり、ヨハネ4章14節において、主イエスが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水になると言われています。主イエスの与える水とは、御言葉のことです。ヨハネの福音書1章1節、2節にもありますように、初めに言葉があり、言葉は神と共におられ、言葉は神でありました。主イエスこそ、ロゴスなる御言葉そのものです。先ほど御言葉は水であると申しました。
では、旧約聖書エゼキエル書47章9節と12節をもう一度読ませていただきます。
9節:「この川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」
12節:「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
主イエスは、ご自身が乾くことのない永遠の水、即ち、神のみ言葉そのものであり、たくさんの夫を持っていた罪深いサマリヤの女が待ちに待ったメシヤであったことをヨハネの福音書4章にて確認できます。
その主イエスのみ言葉が聖所から流れ出て、新しい実をつけるのです。
ここに、私たちが教会という霊的聖所に集まる理由があるのです。
讃美や説教を通して、私たちは生ける水に出会い、その水は私たちの生活や人生の全てに流れ出て、実を結び、その葉は薬となるのです。この永遠の水である主イエスによって「全てのものが生きる」とエゼキエルという預言者は、主イエスの到来を預言しているのです。アーメン。            では、お祈りします。
            
2015.3.18 主日
*聖書:ヤコブ4:13‐15、詩編1:1‐3

1、 皆さんは、どのようにして神の声を聞いているでしょうか?或いは、どんな時にこれは神の御声だと確信できるでしょうか?
それは、もちろん聖書の御言葉を通してでしょう!と答える方もいれば、祈りの中で示されます!とそれぞれ経験をもって答える方がおられると思います。
私は、皆さんが聖書からでも、祈りの中からでも、ぜひ神様からの語りかけを体験してほしいのですが、私に最近あった出来事を少しお話して、主題に入りたいと思います。
先週、前に4年間働いていたごみ収集の会社を挨拶がてら、久しぶりにドーナツを買って訪ねました。本当の目的は、そろそろ、私も母の入院代や生活費を稼ぐために、仕事をしたいがために様子を見に行ったのです。
そこで、8年前から知り合いの社員に最近の仕事のことや給料のことを聞いてたら、以前、私がもらっていた日当8,000円が、今は、臨時のバイトでなんと5千円に下がったとのことを聞きました。
しかし、その社員は、とりあえず社長に言ってみると、「すべては神のみぞ知る」と言ってくれたのです。そして、給料のことも、5千円になるか6千円になるかは、すべて神の御手の中にありますよと、彼は私に言ってくれたのです。
彼はノンクリスチャンです。彼と8年の付き合いの中で彼は教会に行ったこともなければ、聖書を読んだことがあるとは一度も聞いたこともありませんでした。
ところが、そんな彼の口から、私は神の声を感じたのです。
私は帰ってきて、その日の夜10時くらいに、ふっと彼の言葉を思い起こしました。そして彼に、感謝のメールを送りました。「今日はありがとうございました。そして、励ましの言葉もありがとう!」とメールを送ったのです。

先ほど、読みました聖書のヤコブ書4章13-15節をもう一度見てみたいと思います。
そこには、『「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたは、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこういうべきです。「主の御心なら、私たちは生きていて、この事を、またはあのことをしよう。」』
とあります。
私は先ほど一週間前の出来事を分かち合ったのですが、つまり、自分が社長にお仕事のことでこう言おうかああ言おうかと悩んでも、結局のところ、すべては神の御心の中で決まるものであることを、私はノンクリスチャンの彼を通して、改めて自分の信仰が試された気がしました。
さて、ルカの福音書9章25節には、こういう御言葉があります。
「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」とあります。私たちが一所懸命に何かに目標を立てて頑張ることは素晴らしいことです。しかし、自分自身を失うほど忙しくし、たとい全世界を手にいれても、むしろ、肝心な家族や自分の命を失うと、何の益にもならないことを、聖書は私たちに伝えているのです。

2、 では、本日の主題である「幸せとは何か?」を考えてみたいと思います。
神の御心の中で私たちは、どのように行動すべきかを考える上でも、聖書は私たちにとって大切な道しるべであり、或いは私たちの人生にとってのGPSになることは違いありません。
詩編90:10節を見ますと、「私たちの歳は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と3千年前に書かれた詩編の著者はそう言っているのです。
では、改めて質問してみたいと思います。
「私たちの人生にとって幸せとは何でしょうか?」
私は幸せの定義づけを大きく二つに分けて考えてみました。
一つは、人間は短編的、一時的な幸せを追求しているのではないかと考えています。
これは、聖書の原文であるギリシア語で「クロノス」という「人間の時間」の中で世俗的に求める一時的な幸せのことです。
そこには、更に四つに分類することができます。
 一つは、所有することへの幸せです。例えば、車を所有することの幸せ。たくさんの財産を所有することの幸せなどがありますが、これらは、一時的でいずれは飽きてきます。
二つ目は、経験を通した幸せです。例えば、お金をためて、旅行に行くこと。旅行先で出会ったこと、経験したことを10年、20年が過ぎても忘れられず、語れる幸せもあります。ところが、この経験を通した幸せは、死ぬまで忘れることはありません。
三つ目は、人間関係の中での幸せです。罪に満ちている世の中で、自分がどんな人に出会ったかによって、その人の人生は素敵な人生にもなり得ますし、最悪の人生にもなり得るのです。
私たちの束(つか)の間の人生の中で、皆さんはどういう人に出会って、幸せを感じているでしょうか?
四つ目の幸せは、自分自身のための第三の空間を作って、そこで気晴らしができているかということです。
例えば、日曜に教会に行くことによって、幸せを感じているとか、スポーツのジームに行き、筋トレ―をするとか、ゴスペル教室に行き、皆で声を揃えて歌うことへの幸せを感じる人もおられるかもしれません。
 これらは、私たち、人生の中で短編的で、一時的な幸せとも言えるでしょう。
しかし、大きな二つ目の幸せは、永遠なる幸せがあるということです。
先ほど、読みました詩編1:1‐3節をもう一度見てみたいと思います。
 「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

正しい生き方の第一歩は、悪しき者との交わりを避けることにあります。悪者とは、神を恐れない人、また聖書の御言葉に心を寄せることなく、神の義から遠く離れている人のことです。その人は、神への不信仰によって滅びると或る神学者は言っています。
詩編の著者は、悪者の滅びに私たちが巻き込まれることがないようにと伝えています。
悪者の道とは、生活習慣、行動が悪いことであり、彼らは、それに気づいてはいません。
人が神から離れて、その人自身の欲望に従って歩むとき、習慣となった罪はその人の目をくらませ、その結果彼は自分自身を忘れ去り、邪悪な中にいっそう頑なになるのです。
詩編の預言者は私たちが悪者と共に歩まず、彼らの道に立たず、彼らの席にも座ることを禁じています。
3千年前の預言者の時代においてさえ信仰深い神の僕たちが、悪しき者との交わりから身を引き、その堕落から身を避けるようと詩編は伝えているのです。

結論です。この世における正しい幸せの求め方は、主の教えを真に喜びとし、昼も夜もその言葉を口ずさむことにあります。その人は、まるで砂漠の中で飢え乾いている、罪に満ちているこの世において、水路のそばに植わった木のようだと預言者は言うのです。
その人は、時が来ると実がなり、その葉は枯れることがありません。
ここで「時」とは、ギリシア語で「カイロス」即ち、「神の時」を現しています。
先ほど、人間の時は、「クロノス」と申しました。クロノスにおける幸せは、一時的なものです。
しかし、「カイロス」における、つまり「神の時」における幸せは、砂漠の中のオアシスのように、水路のそばに植わった木のようで、時が来ると実がなり、その葉は枯れることがありません。昼も夜も御言葉を口ずさむその人は、何をしても栄えるのです。アーメン
これぞ、永久的な幸せであり、10年,20年経てば忘れたり、飽きたりするような所有物による幸せや経験による幸せとは別次元の霊的世界における幸せなのです。
このように永遠の幸せは、主イエス・キリストへの信仰による永遠のいのちと共に、聖霊によって与えられるものであって、決して人間の頑張りや努力で得られるものではありません。この永遠の幸せは私たち信仰者に、聖書を通して与えられた神の約束なのです。アーメン

この前、水曜日、K君が入院している病院へ二度目の見舞いに行ってきました。もう、彼は昨日退院しました。 彼のベッドの所にだれかからプレゼントされた本がありまして、許可を得てそれを読みました。
そこには世界の有名な人物の名言が載ってありました。その本にありましたトルストイの言葉を借りたいと思います。
このように、書いてありました。「確実に幸福になるただ一つの道は、人を愛することである」。
私は瞬間思いました。「人を愛してやまない神は、ご自分のたった独り子主イエスをこの世に送った。そして、主イエスは、人の罪のために自分の命を投げ出したのだ。それゆえ、主イエスこそ神の愛を実現した方であり、神ご自身なのだ」。
トルストイの言葉を借りるならば、主イエス・キリストこそ、神の愛を実現し、だれよりも一番幸福な人生を送ったのではないかと私は思ったのです。
では、お祈りします。




昨日は、20歳の青年の二度目の見舞いに行ってきました。
以前、私たちが面倒を見たこともあり、クリスチャンではありませんが、祈ってもらうことが好きな青年です。
彼は親はいません。
彼が入院した理由は、この前、夜12時頃、高校の後輩たちとダンスの練習をいつもの場所で練習していた時に、通りかかっていた暴走族にリンチをされたからです。
彼は、喧嘩もつよい子なんですが、後輩たちを守るために、戦ったのが、顔の骨まで折れてしまったのです。
無事に手術が終わり、退院するまでご飯も食べれない状態です。
この前、見まいに行ったときは、祈ることをうっかり忘れてしまいましたが、今度は、なんと2回も祈ることができました。
彼は、私に「ありがとうございます」と言ってくれました。
私は、ただ主イエスに感謝をしました。
2015.3.3       マルコ13章14-27節

東日本大震災が起きてからちょうど4年目を迎えました。しかし、未だに、その日の爪痕は色濃く残っており、その例として福島原発事故は終わることのない宿題として未だに多くの作業員たちが放射能を浴びながら現場で働いています。
それが、近年、日本にとっての大きな災難でした。
本日、マルコの福音書13章14節から27節までは、世の終わりにおける大患難に対する注意と主ご自身の再臨について、主イエスは直接私たちに話されています。
世界の歴史における、数千年前からのユダヤ人迫害は、彼らの家々だけでなく、彼らが集まった集会所であるシナゴーグ、教会でもその迫害は行われたそうです。
つまり、彼らは、災難の時に教会に集まったことが余計に被害を大きくしてしまったのではないかと学者たちの中では考えられています。 4年前の東北における震災の時にもそれと同じことが起きました。 それは、避難所として指定されていた場所が逆に災いの場所になったこと、そしてそこで多くの人が津波によって命を失ったことからしても、2千年前の聖書の預言と今の災難の時とは全くかけ離れている言葉ではないことが分かります。
と言いますのは、マルコの福音書13章の14節を見ますと、「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と、主イエスは旧約のダニエル書9章27節などを引用しながら彼らに言われています。
15節には、「屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうして中に入ってはいけません。」と言われているのは、まるで4年前の津波の被害を予測して語っているかのようにも感じます。
しかも、18節には、「このことが冬に起こらないように祈りなさい」と主イエスは言われています。何と、4年前の3月11日に起こった震災でも真冬の終わりかけで、東北の冬の寒さは雪とともに増していました。そして寒さの中、非難することすらままならない老人たちや子供たち、妊娠している女性たちは走るスピードを出すことは混乱だったのです。
彼らは指定された避難所に行くのも精一杯でした。 なのに、ましてや津波を経験したことのない彼らにとって、山に登ることはままならないことだったのかも知れません。
また特に頑丈な家の中で地震の揺れをあんまり感じなかった人たちにとっては、まさかあんなに高い津波が自分の家に押し寄せてくるとは想像もできなかったことでしょう。
むしろ、大丈夫だ。大丈夫だと思い込んでいたのかもしれません。
19節には、「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです」とあります。
歴史上、今まで一度も起こったことがないことを日本語で「未曾有」と言います。勿論、中国語でも同じ言葉を使います。
この「未曾有」、すなわち、未だ曾て有りえなかったことが、その日、即ち、世の終わりには起こると、聖書は私たちに伝えています。
ここで、誤解してはならないのは、東北の震災と聖書でいう終わりの日を敢えて結びつけようとして私はその喩えを考えたのではありません。私たちは、「その日」を忘れてはならないということが大切なのです。
なぜか、聖書を読んでいるうちに、それらの世の災難や今話題になっているイスラム過激派ISの活動などを通して、確かに悟るべきことは、20節にもありますように、「主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださる」ということです。
すなわち、「その日」が徐々に迫っていることを暗示しているのではないかと考えられるのです。
21節、「それらの日に、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とかいう者があっても、信じてはいけません。」とあります。
 なんと、韓国だけでも、今現在、自分がキリストであると主張している人だけでも、35人が超えるんだそうです。
私たちが、日ごろ聖書の福音書だけでも丁寧に読んで黙想するならば、私たちは偽キリスト者たちには惑わされることはありません。しかし、未だに何十万、何百万の人たちが、世の終わりのしるしとして、偽預言者や偽キリスト者たちの言葉に従っているのは事実です。 そしてそれは、明らかに悪魔、サタンの計略であり、選ばれた民が神の国に入ることを妨げる行為の一つです。
ですから、22節と23節に、主イエスはこう言われています。
「偽キリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民(選びの民)を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気を付けていなさい。私は、何もかも前もって話しました。」
26節、「その時、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです。」とあります。
ここで、日本語訳は「主イエスが、雲に乗ってくる」と訳されていますが、原文においても、又英語訳のNKJVにおいても、「Coming in the clouds」と訳しまして、わたしたちが空想にふけって、ぼんやりしているうちに、主イエスは来ると考えることもできますし、NIV訳には、in cloudsつまり、主イエスは「大群を作って」来られるとでも考えることができます。
しかし、皆さんもご存じのように「雲」は、「神の栄光」を現す象徴であります。
27節、「その時、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」と主イエスは言われています。
 終わりの日が近づいている象徴として、私たちは大きな患難に遭います。
しかし、私たちは、それらの患難や災害、戦争などに気を取られ、それらがまるでその日であるかのように錯覚してはいけません。
32節 (塚本訳)「 ただし、(人の子の来る)その日また時間は、父上のほかだれも知らない。天の使たちも、子(であるわたし自身)も知らない。」とあります。
又、使徒言行録 1章7 節には、「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない』。」とあります。
再臨の主である主イエスは、私たちがサタンの誘惑に陥ることなく、神の霊である聖霊から与えられた信仰を世の終わりまで持ち続けるようにと今もわたしたちのために執り成しの祈りをしてくださいます。そして私たちは、聖書の言葉によって色んな試練の中でも励まされているのは事実です。
ですから、私たちにもその日がごくごく迫ってくる中におきまして、正しい判断力をもって、悪魔・サタンによる色んなしるしに惑わされることなく、その日が来るまで信仰を保ち続けられるように祈って行かなければならないと思います。

では、お祈りいたします。


皆さん、ありがとうござます。

新約聖書マタイの福音書25章37-40節。

37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

最近、私たち(教会)がやっているチェンジングホームの活動に、滋賀県に住んでおられる仏教徒の方から、お米をいただいておりまして2年くらいになります。施設に来る皆はお米をとてもおいしくいただいております。 また、この前は静岡県に住んでおられる非キリスト教の方から、若者の更生へと布団と机と飲み物二箱を献品してくださいました。
真に感謝しております。

上記の聖書の言葉の通り、宗教を問わず、神の兄弟たち、しかも最も小さい者たちにしたのは、神にしたのであると私は思うのです。

私たちの少年院・刑務所の更生活動を実質的に応援し続けておられる皆さんに感謝しつつ、一時期、多くのクリスチャンの方からいただいた応援も覚えて心から感謝しています。
今日は、韓国の旧正月、Solnalです。家族皆が集まる日です。
家族と電話でのビデオチャットしました。
皆が喜んでくれました。

なんと、今日与えられた御言葉は、エゼキエル書18章31~32です。
「あなた方の罪をその心の中から放り出せ!新しい心と新しい霊を得よ。わたしは、誰が死ぬのも喜ばない。だから、悔い改めて生きよ!」
今朝、親とこの御言葉を分かち合いました。母はずっと"あ~めん"と応えてくれました。

母の脳梗塞から救い出してくれた主に感謝しつつ、皆さんも神の祝福が豊かにありますように。
1、なぜ、人間と全ての被造物は呪われた状態になったのか
創世記3章
17 また、人に仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 (Gen 3:17 JAS)

13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
14 神である主は蛇に仰せられた。 「おまえが、こんな事をしたので、 おまえは、あらゆる家畜、 あらゆる野の獣よりものろわれる。 (Gen 3:13-14 JAS)

なぜ、人間と全ての被造物は呪われた状態になったのか?それは、「アダムによる罪」が原因であると聖書は言っています。その罪によって、なんと土地も、動物も、人間も神から呪われた状態になったのです。補足しますと、ここで呪い、原文「ARARU」とは、本来、神の形として造られた人間が、即ち、神に愛されるべき人間が、神の声から離れることによって、もはや神の子ではなく、悪魔の声に従うサタンの僕になることを意味します。
創世記2章1節「こうして、天と地とその全ての万象が完成された」を見てわかりますように、天と地と全ての万象は完成されました。これを私は、外的創造における完成と考えています。しかし、人間の内側における内的創造、つまり、精神世界や自由意志は神様に向かう完成された霊的状態ではなく、不完全でサタンによってこれらは崩壊されたのです。サタンは、アダムを試みて、神の言葉に従わせるよりも、自分の言葉に従わせるようにと彼を誘惑したのです。
ですから、私たち人間の自由意思(mind)は未だに崩壊されたままで、主イエス・キリストへの信仰による自由意思の回復が私たちには必要なのです。
アダムの時から人間は、常に神が嫌う悪いことを考えるようになりました。 そしていずれ、神の裁きに会わざるを得ない状態にまで追い込まれたわけです。これが呪いなのです。
今も、私たちは、サタンの支配の中にあります。ですから、私たちは、常に主の前に悔い改めて、信仰によって御言葉と聖霊に満たされる必要があるのです。
ですから、福音書において、イエス様が一所懸命に病人を癒したり、精神的に病んでいる人を癒されたのは、創造の時、アダムによって破壊された自由意思の回復と神との関係における被造物の呪いを解いて、神の国を実現するための、メシアとしての、或いは救い主としての御業を示されるためでした。アーメン
これをもって、なぜ被造物は呪われている状態になったのかが、創世記3章14,17節で確認できたと思います。それ故、旧約のイザヤ預言者は、イザヤ書65章25節にて、新しい天と新しい地における平和の象徴として、25 狼と子羊は共に草をはみ、 獅子は牛のように、わらを食い、 蛇は、ちりをその食べ物とし、 わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、そこなわない」 と主は仰せられる。 (Isa 65:25 JAS)
と伝えているのです。
又、新約のローマ書8章19-22節には、こう書かれています。
*塚本訳 ;(そしてこの栄光は必ず与えられる。)その証拠(の第一)は、創造物が神の子たちの現われるのを、首を長くして待ちこがれていることである。
なぜであるか。創造物は自分から(今のような)はかない運命に屈服したのでなく、それは屈服させたお方([神]の御心)によるからである。(彼らはアダムの罪の責任を負わされたのである。)しかし(この屈服には)望みがある。
創造物自身も、滅亡の奴隷になっている(現在の)状態から自由にされて、神の子供たちがうける栄光と自由とにあずかるのだから。
わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一緒になって呻き、一緒になって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの 呻きに耳を傾けられないことがあろうか。)
すなわち、被造物ですら、呪いから解かれるその日、即ち神の国が来る日を待っているのです。
2、動物は救われるのか?
人類最初の世の終わりの出来事といえば、創世記7章の大洪水とノアの方舟を連想しなければなりません。そのノアの方舟には、大洪水から救われたノアの家族8人とそれぞれの動物のカップルがいました。ここから、考えられますのが、世の終わりにおける動物の救いです。神様は、未だに、キリストが再び来られるまで、人間の救いのために、被造物を保持しておられます。
ですから、私たちは、神の一般恩恵、或いは保持恩恵である大自然を眺めながら、神の偉大さとその存在を体験できるわけです。
では、動物は、終わりの日に救われるのか?
旧約の伝道者の書3章21節には21 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。 (Ecc 3:21 JAS)とあります。
聖書の一行だけを見て、結論を出すのは良くないと思いますが、私はその答えを出すつもりで説き明かしをしているのではなく、一緒に幅広く考えていただくためであります。
 では、先ほど見ました創世記3章において、人間の罪によって被造物は呪われた状態になったと申しました。しかし、創世記7章のノアの方舟には、人間だけでなく、動物も大洪水から守られたのです。しかし、創世記1章26節を見ますと、人間は神に似せて造られたのです。聖書の最も大事なポイントは、人間に対する神様の贖いの歴史を示しているのであって、動物の救いについては、触れていません。皆さんもご存じのように動物は、本能はあるものの、人間のように罪意識や良心の呵責はないのです。
 例えば、散歩中によその犬にいきなり噛まれても、その犬は後で私に来て「この前は噛んでしまってすみませんでした」とは言わないのです。
ですから、主イエス・キリストは罪ある人間を赦し、救われるために来られたのであって、動物が神の国に入ることは念頭に入れていません。
もし、人間が動物のように、罪意識はなく、本能だけが残っていれば、どうでしょうか?  マルコの福音書7章21―23節にはこうあります。
「21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
特に、今に至る人間の内側から出て来る悪い考えは、まるで本能に従う動物と同じ考えだと、皆さんは思わないでしょうか。
これは、最初、神に似せられ、造られた人間が、アダムの罪によって呪われ、その悪い遺伝子を保持したまま、私たちは生まれ、未だに、私たちは悪魔、サタンに支配されているという証拠に他なりません。
ですから、主イエス・キリストが十字架にかかったのは、動物を救うためではなく、呪われている人間の罪を赦し、癒すためであったのです。
なので、動物の救いはどうなるのですかと、心配する前に、先ず自分の救いはどうなるんだろうか?と考え、むしろ自分が救われたことを神に感謝し、礼拝することが大切だと思います。
神の形として造られた人間は、未だにサタンの餌食になっていますし、一日も早く、彼らが救われることを神は待っておられるのです。

では、纏めます。
この世における被造物への神の保持恩恵が続けられるのは、サタンに支配され、呪いを受けている私たちが主イエス・キリストの十字架の贖いによって完全に内側から救われることを願われるからです。つまり、私たちの罪のために、主イエスは彼の人生をささげ、十字架の上で身の代金(ransom)を払ってくれたのです。
ですから、動物の救いを心配する前に、私たちは、腐った内側、つまり悪魔・サタンに支配されている内側を主イエスの十字架で流された血によって潔められる必要がありますし、そうするには、信仰によって聖書の御言葉をしっかり読み、又敬虔な祈りによって、再び神の霊である聖霊に満たされる事が大切だと思います。

では、お祈りいたします。

人間が人間を育てることは、盲人が盲人を導くのと同じであると思います。
時には、親は子供に学び、先生は教え子に学ぶ時がたびたびあります。
普段自分でも気づかされてないことに、指摘される時もあります。

ある弁護士が書いた新聞記事にこういう言葉がありました。
「少年は未熟だから罪を犯し、未熟だから素直になれず、他人を信頼できず、非難されると相手を恨む。」

でも、上記の文書は少年だけに限らず、大人にも当てはまると思いました。

人間は、皆、自己中心で、相手の話を聞くよりも、自分の話を優先します。そして、生まれるときから、プライドが高いのです。
自分の存在を認めてほしいのです。
それが未熟な私の姿です。