2015.2.4    マルコ2章1-5節
JAS Mark 2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。 (Mar 2:1-5 JAS)

もう一度、1節を読ませていただきます。
カペナウムという町に主イエスは二度目に来られました。 そしてシモンペテロの姑(しゅうとめ)の家におられました。そのことが村の皆に知れ渡ったのです。
主イエスの噂はあっという間に広まり、主イエスが泊まっていた家には集まった群衆たちでいっぱいでした。
さて、主イエスが神の国の福音を伝えていた時の事です。
その時、中風の人が4人の人によって担架でかつがれてきました。ところが、あまりにもたくさんの群衆のために、4人の人は主イエスに近づくことができませんでした。
そこで、彼らは、主イエスのおられるあたりの屋根をはがし、中風の人を寝かせたまま屋根からその担架をつり下ろしました。
(ここで私見ですが、私は4人の人を注目して考えてみたのです。つまり、この四人が屋根をはがすときの騒音やほこりなどで主イエスの福音伝道に邪魔をしたのではないか?また、彼らは、家主にちゃんと許可をとって、屋根を破ったのだろうか? 一見、何もなさそうな出来事ですが、よくよく考えてみるとすごい事が起きていることに私は気づいたのです。)

さて、主イエスは、その屋根を破る騒音や群衆の騒ぎに動揺せず、そんな彼らの信仰を見て、中風の人に、「あなたの罪は赦されました」と言われるのです。
なんと主イエスの言葉には、中風の人に、私たちが期待できる「あなたの病は癒されました」という気持ち良くてダイレクトな言葉は聖書には記述していません。
罪を赦す権威を持っている、人の子である主イエスは、中風の人の罪を赦し、寝床をたたんで起きて家に帰りなさいと言われたのです。もちろん、彼は癒されました。
ここで、二つのことを考えてみたいと思います。

病人を担架で運んできた信仰のある4人の人たちは、家の屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままつり下ろしました。
ある注解書には、屋根を障害物として考えています。つまり、私たちの信仰生活が何かによって邪魔されるなら、4人の人たちのようにその障害物をとりのぞく必要があると言うことです。
私たちの人生において、時には障害物を取り除いて、通過しなければならないことも起こり得るということです。
皆さんは、いかがでしょうか? 私たちに現在置かれている障害物は一体なんでしょうか?
もしかしたら、その障害物を取り除く勇気はなく、未だにどうしょう、どうしょうと周りを気にしながら、いや、むしろ逆に空気を読み過ぎて、結果的に実行に移せなかったりしてはいないでしょうか?
もし、あなた或いは皆さんにとってのその障害物が主イエスへの信仰生活に邪魔になるのであれば、大胆に4人の信仰者が屋根を破って病人をつり下したように、皆さんもその障害物を取り除かなければ、「あなたの罪は赦された」という良い結果には及ばなくなるかもしれません。

また、二つ目は、信仰による祈りは、病む人を回復する力があるということです。回復とは、元の正常な状態に戻されるという意味です。
ヤコブ書5章15節にはこう書いてあります。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、その人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」とあります。
ですから、先ほどお読みしましたマルコの福音書2章11節に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と、人の罪を赦す権威を持っておられる主イエスはそう言われたのです。この「起きなさい」とは、すなわち、「立つ」と「起きる」という2つの意味を持っていまして、ギリシア語原文の動詞の原型はεγειρωと言います。
また、先ほど触れましたヤコブ書5章15節にも、「主はその人を立たせてくださいます」という言葉にも同じ単語が使われ、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦され、またその人が持っている病さえも潔められる」と言われているのです。

繰りかえりますが、主イエスは、マルコの福音書において、中風の人に「あなたの病は癒されました」とダイレクトに言ってはおられません。 むしろそれよりも、「あなたの罪は、あなたを運んできた4人の信仰によって、赦されたのであるから、起きなさい。立って家に帰りなさい」と言われたのです。

もう一度、纏めたいと思います。
一つは、私たちが主イエスに出会って問題を解決してもらいたいと思う時に、障害物が現れます。しかし、私たちはその障害物を大胆に取り除く必要があるということです。
そして、二つ目に、人の罪を赦す権威を持っておられる主イエスに、私の病も、心配事も、不安な未来も信仰によって委ねてみることです。
その時、主はこう言われるかもしれません。「あなたの罪は赦されました。起きなさい。立ち上がりなさい。そして、自分の足で家に帰りなさい」と。
Εγειρω,Raise me upしてくださる、主イエスにこの福音書を思い浮かべながら、今晩も一緒に祈ってみようではありませんか。
では、お祈りいたします。

神にとって、不可能なことは一つもない。主イエスは、生まれつきの障碍者を言葉で癒された。マルコ4章39節ように、荒波さえも言葉で治められた。病人の癒しや突風をしかりつけ、治める主イエスは、神であることがわかる。しかし、マルコ4の38でわかるように、主イエスは疲れていた。ここでわかることは、主イエスの神性と人性を知ることができる。
そして、弟子たちは、イエスの権威ある行動をみて、荒波よりも、更に主イエスの言葉にもっと驚いて恐れを感じた。
私たちは、ついつい自分だけが苦しみにあっていると錯覚する時があります。
昨日は少し時間があって、動物の動画を観ました。

クジラはアザラシを狙い、海に出るまで
じっと待つのです。そしてアザラシは、ペンギンを狙ってじっと待つのです。
何気なく観ているうちに、悟りがひらめきました。
動物の世界でもあんなに必死になって生き、苦しみにあっているんだと。詩篇119/71には、苦しみに会ったことは、私にとって幸いでした。
私はそれでおきてを学びました。とあります。
命がけの動物の世界も。生きるために働く人間の世界も、苦しみがあるから強くなり、感謝の思いが与えられるのではないかと思ってます。主にあって、良い一日を。
2015年1月15日
今日は、少年院の成人式の帰りに、サカキバラ事件担当の裁判官に会いました。
その感想を書かせていただきます。
結論から申しますと、サカキバラ事件とこの前の佐世保少年事件から考えられるのは、「性的サディズム」からであると裁判官は考えているのです。
しかし、ここで一緒に考えてみたいのは、なぜ裁判官は、サカキバラ事件において、加害者に救いの道を備えたのかと言うことです。

裁判官の話しを聞いているうちに、なるほどと納得がいきました。
すなわち、裁判官は、加害者をただ法的に裁いて終わりではなく、その少年事件の原因を突き詰めたことです。そして、その少年の心理を研究し、「性的サディズム」として犯罪心理を結果として残したことです。
そして、その結果をデータにし、それを参考に、次の似たような少年事件において、さらに犯罪の真理が分かるのです。
これを言い換えますと、犯罪者を法的罪人として、ケジメをつけるのではなく、救済の処置を取ったことに大きな意味があります。
そして、彼が犯罪に至った原因を辿って行き、性的サディズムから救済の道を備えてあげることです。
これは即ち、うちの子はあの子のような加害者になるのは怖いので、結婚できない、子供は産まないという考えをなくし、少年犯罪の原因を日本の国民にきちんとわかってもらう目的にありました。
つまり、子を産まないことは、日本人の子孫が絶えることにもなるので、裁判官は、狭義的な目の前の少年事件よりも広義的な考えの上で、あの怖い少年事件にかかわったのです。
その深い話を聞いたとき、私は思いました。
この方は、先見的考えをもってあの恐ろしい少年事件を担当したんだなと。
ここで、少し宗教的になるかもしれませんが、私はその裁判官の判断がとてもキリスト教的であることに気づかされました。
と申しますのは、創造主の神は、罪深い人間に救済の処置としてキリストを与えてくださいました。これはもはや滅びの処置としてではなく、最後の審判において罪人を救うための素晴らしい計画なのです。そして、その救いの道として罪人に望みを与えたのです。
私は、このキリスト教的考えをそのままその裁判官に伝えました。

すなわち、その裁判官は、このキリスト教的思想をその加害者に実践したのです。
しかし、愛する子を失った被害者の立場を考えますと、その深い救済処置は、果たして正しかったかどうかは別の問題であると私は思いました。


最近、ヘブライ語とギリシア語の基礎文法をおさらいしながら、気づいたことがあります。
それは、ヘブライ語の文法は、「彼は与えた」「彼は見た」という過去形の文法が中心になっていますし、それに比べて、ギリシア語文法は「私は教える」「私は知る」の現在形で基礎文法が始まっています。

 これは勝手な解釈かもしれませんが、ヘブライ語の旧約の神が、新約においては「私」という人間存在(受肉)になって、罪びとたちにより近くに来られ、過去にとらわれず、現在と未来の言葉を多く残すことによって、私たちに確かな希望を与えているのではないかと考えられます。
      2015.1.7   創世記32章21-30節を読む。
*Youtube (相撲とイスラエル)を見る。

 創世記25章19節以下の内容から確認できますように、イサクには双子がいました。兄エサウと弟ヤコブです。彼らは、生まれる時から仲が悪かったのです。
創世記25章27-34節には、二人の性格と育ちが書かれています。
『27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。
29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。
32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。
33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。』
 すなわち、次男ヤコブは、狩りから帰ってきた兄エサウの願いに応え、パンとレンズ豆の煮ものを与える代わりに、兄エサウの長子の権利が欲しかったのです。
それに反して、兄エサウは、狩りからの疲れとお腹がとても空いていたため、長子の権利などどうでもいいと思い、弟ヤコブにその権利を売ってしまうわけです。これが、ヤコブが天使と相撲を取らなければいけなかった発端なのです。
 それから、弟ヤコブは兄エサウから長子の権利と祝福を奪った後、20年以上も、兄エサウを恐れて逃げ回らなければなりませんでした。
そしてヤコブがカナンの地に向かって旅を続けていた時のことです。 彼の使いから兄エサウが近くに住んでいてしかもこちらに向かっているという知らせを受けます。
彼は、兄エサウの復讐をとても恐れていました。
しかし、創世記32章1節をご覧になって、わかりますように、その時、神の使いたちが、いや神の天使たちが軍隊を造り、困っているヤコブに現れるのです。
そこで、ヤコブはヤボクの川を渡る時、家族皆を渡らせて、一人だけ残り、夜明けまで、神の天使と相撲を取ることになります。なんと、日本の「スモウ」という言葉がここから由来したなんて、信じられませんね。
では、創世記32章26-28節をもう一度見てみましょう。
『26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」』
 なんと、ヤコブは主の天使と相撲をとって、勝ちますね。そこで、彼の名前は、ヤコブから「イスラエル」という名に変えられるのです。これがイスラエルの名の発端です。
イスラエルとは、「神と戦い、勝った」という意味です。

さて、2015年、新年明けの先週の金曜日の朝、私は、韓国にいる家族から悪い知らせを聞きました。
それは、母親がいきなり夜に、記憶が喪失して、皆のことも覚えなくなり、確かに、電話でのビデオチャットの中でも、私のことも覚えていなくて、的外れの言葉ばかりをしゃべりながら、「大丈夫だ。大丈夫だ」と繰り返していました。
その日に、早速、大学病院で検査した結果、「脳梗塞」と判明されました。脳の血管が詰まって言語障害と記憶障害を起こしていたのです。
今は、皆様の祈りのおかげで少しずつ回復に向かっています。

ヤコブがヤボクの川で兄エサウに追い込まれながら、神の天使と相撲をとらなければいけなかった理由。 それは、母の脳梗塞を通して、私に身を染みてわかる気がします。
ヤコブは、兄エサウに20年間も追い込まれながら、どれだけ、ストレスになったことでしょう。そして、今じゃなければいけないと思い、ヤコブは必死になって、神の使いと相撲をとったのです。言い換えますと、必死に祈ったのです。ヤコブがその相撲に勝ってイスラエルという名前が与えられたのも、彼の祈りの切実さと粘り強さがあったからだと思います。
私たちは、時には、試練を通して、信仰が試されるときがあります。
その時、ヤコブのように、神の前で粘り強く、あきらめずに祈れるかどうかが問われます。
私は母の病を通して、新年の初めから祈りことの大切さを教えてもらい、神様に感謝しています。そして、これからは、ヤコブのように私を祝福するまで神の御言葉を離さない者になりたいと思っています。皆さんも、ヤコブのように祈り続けて、神に勝つ「霊的なイスラエル人」になろうではありませんか?
では、お祈りいたします。


聖書:ルカ福音書2:1-11、マタイ2:1-17
2014年12月24日
ローマの皇帝アウグスト(アウグストゥス)は、B.C27年に、元老院より本名オクタウィアヌスからアウグストゥスに名前が変えられます。この名前の意味は、ラテン語で「威厳者」、「尊厳者」を意味します。彼は、B.C27~A.D14年までローマ皇帝を治めていました。
これがローマ皇帝の始まりであります。
彼は、ローマ帝国の各地方に税金を集めるために、戸籍調査をさせ、最初の住民登録をシリアとイスラエルにまで命じたのです。当時、シリアの近くにあるガリラヤ、英語名でガリリーには、ナザレという小さな村がありまして、ここでヨセフの婚約者であったマリアは男を知らないうちに、天使から受胎告知をうけるわけです。
聖霊によって主イエスを身ごもっていたマリアは、婚約者ヨセフと一緒に、ガリリーの町ナザレから離れてユダヤのベツレヘムというダビデの町まで帰らなければなりませんでした。それは、ヨセフが、ダビデの家系の出身であったこと、そしていいなずけの妻マリアとお腹にいる赤ちゃんをも一緒に住民登録をさせ、戸籍に入れるためでした。
ナザレからベツレヘムまでの距離は直線で115キロです。地図を見てみましょう。
しかし、実際に歩ける距離は山あり、谷ありで、150キロ以上の旅であったと考えられます。そして、妊娠中の女性が山道を一日に歩ける距離を10キロくらいだと想定しますと、一週間以上の長い旅になります。
ルカの福音書2章6-7節を見てみたいと思います。「ところが、彼らはベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めの男の子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。ところが、宿屋には、彼らのいる部屋がなかった。」とあります。
ここで、疑問は、産婦に部屋をゆずってくれる人はひとりもいなかったのか?という疑問が起こります。
さて、ここで、キリストの誕生に、羊飼いが登場します。
ルカ福音書2章8節、羊飼いたちは、天使たちによって素晴らしい知らせを聞きます。
特に、10節と11節です。「私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」「きょう、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
ここで、「きょう」とは、σήμερον、狭い意味での(ヘメーラ)今日ではなく、広い意味での今日の意味を持ち、すべての英語訳はTodayではなく、This dayと訳されています。
即ち、ローマに支配されて、住民登録させられ、税金を納めなければならない苦しい時代に、救い主、メシアが旧約聖書の預言通りにお生まれになることを天使たちは、羊飼いに知らせたのです。これを「福音」と言います。福音とは、ご存じのように、良き知らせです。この良き知らせは、この世における罪と悪魔に支配されている私たちのために、主イエスが救い主、キリストとして来られたことを意味します。
羊飼いたちは、この福音を天使たちから聞くや否や、急いでベツレヘムに向かいました。
そして、飼い葉おけに赤ん坊として生まれたばかりの主イエスを探し当てます。
羊飼いとは、長旅に慣れていて、道を知り尽くしていたので、その場所をすぐに探し当てたのだと考えられます。詩編23編で、「主は私の羊飼い」と言ったのも、又、天使たちが、キリストの誕生を真っ先に羊飼いたちに知らせたのも、何か意味を持っているのではないかと個人的に考えてみました。 羊飼いは、羊の世話をするだけでなく、長い旅の中で、村と村に良き知らせを伝える役割をもしたのではないかと考えられます。ルカ福音書2章16-19節を私が読みます。
羊飼いたちが、天使たちから聞いたことをそこに集まった皆に伝えたとき、皆は驚き、驚嘆したとあります。つまり、ウバ小屋にいたのは、ヨセフとマリアだけではなかったことが分かります。
つまり、ヨセフとマリアは事前にキリストが生まれることを知っていたので、驚くはずがありません。そして、19節で、マリアはこれらのことを聞いて、1章31節にある、受胎告知を思いめぐらすわけです。20節に、羊飼いたちは、天使たちの知らせ通りだったので、神を賛美しながら、帰るのです。
 
では、ここで、東方の博士たちの登場の場面を見てみたいと思います。
マタイ福音書2章1-17節です。
ルカ福音書では、主イエスが生まれてすぐ、羊飼いたちが訪ねてきました。
ところが、マタイ福音書は、東方の博士たちが主イエスの生まれたことを祝って、礼拝しに来ました。ここで、東方の博士たちについて考えてみることにします。
東方の博士たちとは、ペルシアとバビロンで祭司にあたる役割をもっており、彼らは、天文学と 占星術に通じていて、おまけに、かつてユダヤ人たちがバビロンの捕囚になった時のヘブライ文化の影響もうけ、旧約聖書とイスラエルの歴史にも精通していたのではないかと考えられます。
即ち、彼らは、ダビデの生まれたところであるエルサレムで何れメシアが生まれることをも知っていたのです。ですから、彼らは、星のしるしをうけて、はるばる数千キロ離れたペルシアから救い主であり、メシアであるキリストの誕生を祝い、礼拝しにわざわざベツレヘムに訪ねてきたのです。ここで、地図を見てみましょう。
 東方の博士たちの身分からすると、ユダヤの王ヘロデに謁見(えっけん)できる資格は十分ありました。ところが、彼らの知らせを聞いたヘロデ王は、王の危機を感じます。
2章16節にありますように、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を全部殺すことを命じています。なんと、モーセの生まれたときと状況が非常に似ていることが分かります。
ちなみに、ベツレヘムは「パンの家」の意味をもっておりまして、ダビデが生まれたところです。 そこに、主イエスがキリストとして誕生することになります。東方の博士たちがエルサレムにやってきたときは、主イエスは既に、生まれて1歳を超えていたのではないかと16節を詳しく読みますと推測できます。
ですから、私たちが思っているウバ小屋に寝かせられている主イエスに、東方の博士たちが来たことは距離的にも、時間的にも間に合わないのです。それをさらに証拠づけるのは、キリストが生まれたところが、洞窟のウバ小屋ではないかと推測されていることに対して、マタイ2章11節には、「そしてその家に入って、母マリアとともにおられる幼子を見、」と書いてありますので、家の中でまさか馬や牛を飼っているわけではありませんので、これらの聖書の御言葉から東方の博士たちは、羊飼いたちが訪ねてきた一年後くらいキリストに拝みにしたのではないかと考えられるのです。
そして、博士たちが持ってきた宝の箱についてです。
その箱の中には、黄金、乳香、没薬を贈り物として持ってきて、それをささげ、主イエスを礼拝しました。彼らは、異邦人として、なんともっとも高価で最高のものを主にささげ、礼拝するのです。ここで、黄金は、主イエスが救い主として、また「王」となられたことを表し、乳香と没薬は、出エジプト30:22-36節を通して、祭司を立てるとき、聖別し、油を注ぐ材料として使われたので、ヘブライ文化を知っている彼らは、聖書通りに主にささげたのです。
そして、没薬は、十字架で死なれるキリストを意味し、ヨハネ19章39節でもそれを確認できます。
さらに、これらは、別の意味も持っています。つまり、黄金は、まっすぐな信仰を現し、ヨブ記23章10節で、ヨブの告白からわかりますし、乳香は祈りを示しており、詩編141編2節で確認できます。没薬は、十字架の死を意味していると考えられます。
さて、ユダ王ヘロデが主イエスを殺そうとしていたので、マタイ福音書2章13節で、ヨセフは、天使の声を聞いて、マリアと一緒に幼子イエスを連れて、エジプトに逃げます。
そこで、ヘロデ王が死ぬまでエジプトに避難していました。しかし、ヘロデの子、アケラオがユダヤを治めていたので、ヨセフは仕方なく、最初に住んでいたガリリーのナザレに立ち退き、そこで住むことになります。これも、預言者たちを通して「主イエスは、ナザレ人と呼ばれる」と言われることが成就されるためでした。その預言は、イザヤ書11章1節、ゼカリヤ6章12節などの原文から推測できます。
纏めますと、主イエスは、ダビデが生まれたエルサレムのベツレヘムで生まれ、しばらく、エジプトに逃れて、その後、ずっと、ガリリーのナザレで生涯を受けることになります。しかし、最後の十字架にかかるのは、エルサレムです。
ベツレヘムから10キロ離れたエルサレム、原文で平和の町の意味を持っており、へブル人への手紙の著者は7章において、創世記14章20節と詩編110:4節に書いてあるメルキゼデクと等しい位として、主イエスを王であり、大祭司であったと言っています。ここでメルキゼデクとは、ヘブライ語の意味で、義の王であります。メルキゼデクは、当時サレムの王でありました。すなわち、サレムの意味は、平和を意味し、平和の町であるエルサレムにおいて、キリストは最後の十字架を背負い、平和の王、即ちサレムの王として又、再び来られる際の、最後の審判者として再びエルサレムに来られることを、旧約のゼカリヤ14:4節、イザヤ11章などで確認できます。
そして、預言通りに、主イエスの誕生と生涯は実現できるのです。
ですから、キリストがなぜイスラエルのエルサレムで誕生しなければいけなかったのか、また、ガリリーのナザレにて成長するしかなかったのかなどがお分かりになったと思います。
最近、ネットのニュースで騒がれている、インドの電車駅ホームで、感電して気を失っている猿を、仲間の猿が救ったニュースをご存知でしょうか?
 私たち人間は、こんにち、モラルを失ってしまい、他人を愛すること、助けることなど人間として当たり前のことすらできていない時がたびたびあります。が、時には、自然界を通して、あるいは、人間が無視したり、研究したりする動物から、逆に親子関係の大切さや仲間の助け合いを学ばされることが多いような気がします。
 さて今日をもって、9年目のいろんな少年院へのクリスマスプレゼントを無事に全部配ることができました。
皆様のお祈りと応援に心から感謝いたします。
また、今日は特別に初めてY学園の先生とゆっくり話しながら、館内を案内していただきました。とても勉強になりました。
そしてさらに、彼らのために私たちができることは何かを深く考えさせられました。こんなに日本では、若者の更生のために、国を挙げて教育していることに羨ましくも思いました。それに比べまして、私の国、韓国のJ/Sの教育はどうなっているのかな?と考えました。韓国も日本を見習ってほしいです。
彼らに偏見を持つ前に、彼らに人間として、仲間として私たちができることは何かをまず考えてほしかったのです。
 私は外国人として、今は日本で奉仕をしていますが、いずれ韓国にも行って、日本の更生の仕方などを伝えて、被害者、加害者を区別する前に、一人の愛されるべき大切な人間存在として、その愛を伝えないと思っています。
これからも皆様のご指導と お祈りをよろしくお願いいたします。
2014.12.10    
 3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:3-6、新改訳)
 
この前のメッセージでも申しましたように、「霊的祝福とは、私たちが考える、目に見える形における物質的な満足感ではなく、神ご自身が本来受けるべき祝福を、キリストの霊、即ち聖霊によって、私たちの目に見えない霊的状態や精神世界にまで超自然的に満たされることが霊的祝福であると伝えました。
そして、ローマ書12章1節を見てみますと、「JAS Romans 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここに書き記されている霊的礼拝とは、更に補足しますと、目に見える建物の中で下から上へ人間側から一方的に神にささげる礼拝形式ではなく、建物の外においても、自分自身と創造主なる神との関係を敬虔な姿勢で祈り続け、かつ神の御前で私を生きた供え物とし、神に祝福を返す、即ち賛美をささげることが霊的礼拝であります。
勿論、この霊的礼拝には、主イエス・キリストの十字架の贖いによって救われた喜びを心から表し、全身全霊で父なる神をほめたたえることが大切です。
さて、先ほどのエペソ人への手紙1章3-6節に戻りまして考えてみますと、初代教会における最初のキリスト者たちは自分たちの礼拝の究極的な意義を自覚していたのではないかと文書を通して推測できます。
更に、初代教会の礼拝者たちは、彼ら自身が神によって前もって定められていたこと、そして神の国を受け継ぐことのできる相続者とされていたことへの自己理解を十分持っていたのではないかと考えられます。

1640年代にイングランドとスコットランドの神学者たちの会議において定められたウェストミンスター小教理問答の第一問は、「人の生きる主な目的は何か」という質問に対する答えとして、「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と答えています。
これは、即ち、創造主なる神が、ご自身を礼拝するように人間を創造されたという理由を証言しているわけです。
それゆえ、もし誰かが私たちに、礼拝とは何かと問われた時に、まず最初に答えなければならない返事はこれです。 礼拝とは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことであり、これが私たちの生きる目的です」と言い表せるように心がけてほしいのです。
つまり、礼拝とは、何よりも神の栄光のために仕える行為で現さなければなりません。
ですから、礼拝は決して、自分自身のための、自己満足の礼拝になってはいけない理由はここにあるわけです。
即ち、神が宇宙の秩序と、生命の神秘を通して、今も私たちを愛し続けてくださるように、私たちも神を愛し続けなければならないということです。
 例えば、もし、神が人間のように都合の良い時、太陽を昇らせ、都合の悪い時は太陽の動きを止めて真暗な状態のままを一週間も一か月も続けていたとしましたら、私たちの生活はどうなるでしょうか? それと同じく、私たちも太陽がきちんと昇るようにどんな時も、神を愛し、求め続ける必要があることが一般啓示である自然界の働きを通してでも創造主なる神礼拝とは何かを、又その大切さに気づかされるのではないでしょうか。
 先も触れましたように、礼拝は、必ずしも建物の中で、更にグループになってささげなければならないというわけではありません。
天の父なる神と私との関係において、賛美を通して神に栄光を返し、祈りを通して神の御心を問うて、神に喜ばれる礼拝がささげられますように、主イエス・キリストの御名によって切に願います。
 しかしながら、未だに、私と父なる神との関係において、共同体と言う目に見える教会で、礼拝がささげられる大切さは、それなりの大きな理由があります。
或る人は、こう言うかもしれません。「神はどこにでも普遍的におられるから、今日は教会に行かなくてもいい」と勝手に決めつけて考える人もいるかもしれません。
これは、人文主義、ヒューマニズムの考えで、ルネッサンス期(14c-16c)に、ギリシア・ローマの文化の研究を通して、人間性の解放・向上を目指し、教会中心の考え方に対抗して生まれた考え方に他なりません。この思想によって、ヨーロッパの教会における神礼拝は崩れていきました。いや、今や崩れていると言っても過言ではありません。
これは、サタンのささやきにほかなりません。
サタンは、人間にずるがしこさを与え、教会共同体を通しての神礼拝をつぶそうと今も、飢えているライオンのように動き回っています。ですから、私と父なる神との関係において、常に聖霊に満たされて祈れるのは、共同体を通しての礼拝と説教、賛美と交わりの力によってであり、そしてしっかりとした聖書教育によって信仰はますます成長するのです。
ところが、サタンの攻撃は、私たちだけに限られていたわけではありませんでした。
なんと、私たちの救い主である主イエスでさえ、一人でおられるときにサタンの攻撃を受けました。
マタイによる福音書4章1-4節を見てみたいと思います。
JAS Matthew 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
 生まれたときから、遺伝的に罪に塗れている私たちは、聖書の御言葉が日ごとの糧、ご飯となり、御言葉によって生かされるのでなければ、まるで道端に落ちた種がカラスによって食われるように、あっという間にサタンの餌食になってしまうのです。
ですから、信仰共同体である教会から離れてはいけないのです。
主イエスは、サタンからの試練にあった時、すぐに御言葉を思い起こして、御言葉でサタンと戦いました。しかし、私たちの霊的状態はどうでしょうか?
御言葉を読むだけでなく、果たして御言葉を心に刻みたいと努力しておられるでしょうか。
ですから、この世における、誘惑と試練に打ち勝てるのは、聖書の御言葉と礼拝がなければならないのです。
決して、聖書の律法によって、礼拝を守ってくださいと言う意味ではなく、皆さん一人一人の正しい生き方と真の幸せのためであることを神は願っておられるのです。
余談なのですが、私も、10代の後半から20代の初半にかけて、礼拝をおろそかにした覚えがあります。即ち、礼拝は自分が守るものであって、心から捧げるものであるという自覚が足りなくて、一時期は、教会での人間関係につまずいて、教会に行けなくなった時期もありました。
それは、礼拝の目的が神中心ではない、人間関係の楽しさを求めた結果ではないかと思いました。

纏めますと、私たちは、礼拝における聖書の説き明かしによって聖書を正しく知り、教会共同体における賛美と祈りをささげ続けることによって、サタンの誘惑から陥ることなく、日ごろ神との関係が回復され、天の御国の相続者になったことへの喜びを共同体を通して確認し、更に励まされ、それを知ることができるのです。
ですから、礼拝とは、「守らなければならない」律法ではなく、神に栄光を返し、心から喜んでこれをささげたい気持ちこそ、真の礼拝者の姿勢であり、神からの祝福はここから始まるのです。
神の霊的祝福を、礼拝を通してたくさん受ける皆さんになりますように、心からお祈りいたします。
では、お祈りいたします。




2014.11.26        礼拝とは何か?
エペソ1章3-6節
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

私たちの礼拝の目的は、宇宙と地球を造られた創造主なる神の栄光をほめたたえ、神に栄光を返し、神を永遠に喜ぶことであります。
エペソ人への手紙1章3節において、ギリシア語原文では、同じ言葉が3回繰り返して書かれています。つまり、一つの語源をもち、形容詞と分詞と名詞でそれぞれ分けられていることがわかります。Εὐλογητὸς ὁ θεὸς καὶ πατὴρ τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, ὁ εὐλογήσας ἡμᾶς ἐν πάσῃ εὐλογίᾳ πνευματικῇ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις ἐν Χριστῷ, (Eph 1:3 BGT)
即ち、新改訳の「神が『ほめたたえられます』ように」と「霊的『祝福』」、「私たちを『祝福』してくださいました」という言葉の語源は、一つであるということです。
これらの意味を言い返しますと、本来、創造主なる神が被造物を通して受けるべき祝福を、罪深い私たち、人間のために、罪なき御子主イエスへの信仰により、その罪を赦し、私たちに祝福を与えてくださると創造主なる神は救いの約束をしてくださいました。
特に、3節に、「天にあるすべての霊的祝福をもって」とありますが、この「霊的祝福」とは何か一緒に考えてみたいと思います。
 普段、私たちが考える祝福とは、どうしても人間側からの祝福を含んでおりまして、即ち、今置かれている環境や状態において、物質的に目に見える形で満たされること、或いは、肉の欲望やこの世の願い事が叶えられることがそれであると考えがちであります。
しかし、エペソ人への手紙1章3節における「霊的祝福」とは、主イエス・キリストの父なる神が本来受けるべき祝福を、御子キリスト・イエスのうちにいる人に与える、キリストの霊(聖霊)による、超自然的祝福を意味します。
それ故、祝福が与えられたその人の心の中には、既にURANOS(天)が存在しており、この天には、創造主なる神が座して一体と為し、厳密に言えば、目に見えない霊的状態や精神世界においてまでも祝福されるということです。
 たとえば、私たちが、心に色んな心配事や憂いがある時を想像してみましょう。
そのような心の状態で、どんなにうまそうな焼肉屋につれて行ってもらい、ご馳走をいただいたとても、嬉しくはありません。
では、逆に、あなたが何の悩みもなく、聖書の御言葉に励まされ、心が満たされた場合はどうでしょうか。その時には、水いっぱいを飲むだけでも「幸せ」を感じ、「生きているのが感謝」という言葉が出るのは、まさしく霊的祝福に満たされている証拠と言えるのではないでしょう。
創造主なる神は、そんな私のために、又あなたのために、天と地が造られる前から予め私たちを選んでくださり、御子主イエスの十字架の死と復活と聖霊による信仰のうちに、主は私たちと共におられるとエペソ人への手紙1章4節と5節で約束し、励ましてくださっています。
 私たち、キリスト者は、この方によって神の御前で聖くされ、汚れのない者とされるのです。
ですから、私たちは、この神にむかって、すべての栄光を返し、心から感謝の讃美と祈りをささげ、喜びをもってささげものをささげるのです。
もちろん、これらの気持ちをリマインドさせることが、みことばによる説教です。この聖書のメッセージも礼拝には欠かせません。即ち、すべての霊的祝福を神に返すことが礼拝です。
これが本日の第一番目のポイントです。

 二番目は、霊的礼拝とは何でしょうか。
主イエスが十字架にかかったのは、神の御心でありますし、その十字架で流された血によって、信じる人々、即ち、予め神に選ばれた人々(エペソ1:5、ローマ8:29)の罪は、主イエスへの信仰によって赦され、私たちは、もはや礼拝の観客や名もなき群衆ではない、主人公として、創造主なる神に招かれていることに誇りを持たなければなりません。
ここで、ローマ書12章1-2節を見てみたいと思います。(口語訳)
KOG Romans 12:1  兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
2  あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
礼拝者は生きた供え物として、神の御前に立たなければなりません。
例えば、もし、皆さんがタイ焼きを買うとき、あんこが入らなければ、皆さんはそのタイ焼きをわざわざお金を払って買うでしょうか。神様も、礼拝という行為の中で、皆さんの心が込められていなければ、或いは、塩味が効いている礼拝でなければ神はあなたの礼拝を喜ばれないかもしれません。
その礼拝はもしかすると、神への礼拝ではない、自分への礼拝、即ち自己満足の礼拝で終わってしまうかもしれません。
ですから、礼拝の主人公である私たちは、自分側に立って自分の祝福のために礼拝する宗教的な礼拝者ではなく、神側に立って、私たちを罪なき神の子としてくださった、もしくは、私たちを舞台の主人公としてくださった神にその祝福を心から返す、真の霊的礼拝者になることを、心からお祈りします。アーメン。

第三に、真の礼拝者は、真の伝道者です。即ち、礼拝と伝道はつながっています。もし、日ごろの神への礼拝が自己満足で終わらない限り、主イエスを伝えたいという気持ちに結びつくはずです。
ローマ書8章28-29節を見てみましょう。(新改訳)
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
 礼拝で受けた恵みは、伝道として実が結びます。
しかし、伝道は、自分が感動したからすることではなく、自分がしたい時にする自己意志によるものでもありません。
全ては神のご計画のうちに働かれる聖霊の御心によるのです。
そこで「私」という存在は、「神の子」とされ、救われた喜びをもって、神の道具として使わされるのです。
信仰がそうであるように、即ち、自分の意思で神を信じるのではなく、聖霊によって信仰が与えられるのと一緒で、私が伝道したから彼が救われるのではありません。
つまり、伝道したい思いを聖霊によって与えられ、私は神の御心に従い、彼の救いのために単なる道具となって用いられるのです。
ですから、「私でなければ」ではなく、「もし、よろしければ、主よ!あなたの予め選ばれた民を起こすために、こんな私でもあなたの道具、器として用いてください」と祈ることが本筋だと思います。
ですから、人は創造主なる神を受け入れることも自由意志によるのではなく、又、人に伝道したいと強い思いが与えられるのも聖霊の強き働きとご計画によるものであって、決して自分の意思から伝道したり、神を選ぶのではないことを私たちは知らなければなりません。

では、お祈りいたします。