2015.2.4 マルコ2章1-5節
JAS Mark 2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。 (Mar 2:1-5 JAS)
もう一度、1節を読ませていただきます。
カペナウムという町に主イエスは二度目に来られました。 そしてシモンペテロの姑(しゅうとめ)の家におられました。そのことが村の皆に知れ渡ったのです。
主イエスの噂はあっという間に広まり、主イエスが泊まっていた家には集まった群衆たちでいっぱいでした。
さて、主イエスが神の国の福音を伝えていた時の事です。
その時、中風の人が4人の人によって担架でかつがれてきました。ところが、あまりにもたくさんの群衆のために、4人の人は主イエスに近づくことができませんでした。
そこで、彼らは、主イエスのおられるあたりの屋根をはがし、中風の人を寝かせたまま屋根からその担架をつり下ろしました。
(ここで私見ですが、私は4人の人を注目して考えてみたのです。つまり、この四人が屋根をはがすときの騒音やほこりなどで主イエスの福音伝道に邪魔をしたのではないか?また、彼らは、家主にちゃんと許可をとって、屋根を破ったのだろうか? 一見、何もなさそうな出来事ですが、よくよく考えてみるとすごい事が起きていることに私は気づいたのです。)
さて、主イエスは、その屋根を破る騒音や群衆の騒ぎに動揺せず、そんな彼らの信仰を見て、中風の人に、「あなたの罪は赦されました」と言われるのです。
なんと主イエスの言葉には、中風の人に、私たちが期待できる「あなたの病は癒されました」という気持ち良くてダイレクトな言葉は聖書には記述していません。
罪を赦す権威を持っている、人の子である主イエスは、中風の人の罪を赦し、寝床をたたんで起きて家に帰りなさいと言われたのです。もちろん、彼は癒されました。
ここで、二つのことを考えてみたいと思います。
病人を担架で運んできた信仰のある4人の人たちは、家の屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままつり下ろしました。
ある注解書には、屋根を障害物として考えています。つまり、私たちの信仰生活が何かによって邪魔されるなら、4人の人たちのようにその障害物をとりのぞく必要があると言うことです。
私たちの人生において、時には障害物を取り除いて、通過しなければならないことも起こり得るということです。
皆さんは、いかがでしょうか? 私たちに現在置かれている障害物は一体なんでしょうか?
もしかしたら、その障害物を取り除く勇気はなく、未だにどうしょう、どうしょうと周りを気にしながら、いや、むしろ逆に空気を読み過ぎて、結果的に実行に移せなかったりしてはいないでしょうか?
もし、あなた或いは皆さんにとってのその障害物が主イエスへの信仰生活に邪魔になるのであれば、大胆に4人の信仰者が屋根を破って病人をつり下したように、皆さんもその障害物を取り除かなければ、「あなたの罪は赦された」という良い結果には及ばなくなるかもしれません。
また、二つ目は、信仰による祈りは、病む人を回復する力があるということです。回復とは、元の正常な状態に戻されるという意味です。
ヤコブ書5章15節にはこう書いてあります。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、その人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」とあります。
ですから、先ほどお読みしましたマルコの福音書2章11節に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と、人の罪を赦す権威を持っておられる主イエスはそう言われたのです。この「起きなさい」とは、すなわち、「立つ」と「起きる」という2つの意味を持っていまして、ギリシア語原文の動詞の原型はεγειρωと言います。
また、先ほど触れましたヤコブ書5章15節にも、「主はその人を立たせてくださいます」という言葉にも同じ単語が使われ、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦され、またその人が持っている病さえも潔められる」と言われているのです。
繰りかえりますが、主イエスは、マルコの福音書において、中風の人に「あなたの病は癒されました」とダイレクトに言ってはおられません。 むしろそれよりも、「あなたの罪は、あなたを運んできた4人の信仰によって、赦されたのであるから、起きなさい。立って家に帰りなさい」と言われたのです。
もう一度、纏めたいと思います。
一つは、私たちが主イエスに出会って問題を解決してもらいたいと思う時に、障害物が現れます。しかし、私たちはその障害物を大胆に取り除く必要があるということです。
そして、二つ目に、人の罪を赦す権威を持っておられる主イエスに、私の病も、心配事も、不安な未来も信仰によって委ねてみることです。
その時、主はこう言われるかもしれません。「あなたの罪は赦されました。起きなさい。立ち上がりなさい。そして、自分の足で家に帰りなさい」と。
Εγειρω,Raise me upしてくださる、主イエスにこの福音書を思い浮かべながら、今晩も一緒に祈ってみようではありませんか。
では、お祈りいたします。
JAS Mark 2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。 (Mar 2:1-5 JAS)
もう一度、1節を読ませていただきます。
カペナウムという町に主イエスは二度目に来られました。 そしてシモンペテロの姑(しゅうとめ)の家におられました。そのことが村の皆に知れ渡ったのです。
主イエスの噂はあっという間に広まり、主イエスが泊まっていた家には集まった群衆たちでいっぱいでした。
さて、主イエスが神の国の福音を伝えていた時の事です。
その時、中風の人が4人の人によって担架でかつがれてきました。ところが、あまりにもたくさんの群衆のために、4人の人は主イエスに近づくことができませんでした。
そこで、彼らは、主イエスのおられるあたりの屋根をはがし、中風の人を寝かせたまま屋根からその担架をつり下ろしました。
(ここで私見ですが、私は4人の人を注目して考えてみたのです。つまり、この四人が屋根をはがすときの騒音やほこりなどで主イエスの福音伝道に邪魔をしたのではないか?また、彼らは、家主にちゃんと許可をとって、屋根を破ったのだろうか? 一見、何もなさそうな出来事ですが、よくよく考えてみるとすごい事が起きていることに私は気づいたのです。)
さて、主イエスは、その屋根を破る騒音や群衆の騒ぎに動揺せず、そんな彼らの信仰を見て、中風の人に、「あなたの罪は赦されました」と言われるのです。
なんと主イエスの言葉には、中風の人に、私たちが期待できる「あなたの病は癒されました」という気持ち良くてダイレクトな言葉は聖書には記述していません。
罪を赦す権威を持っている、人の子である主イエスは、中風の人の罪を赦し、寝床をたたんで起きて家に帰りなさいと言われたのです。もちろん、彼は癒されました。
ここで、二つのことを考えてみたいと思います。
病人を担架で運んできた信仰のある4人の人たちは、家の屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままつり下ろしました。
ある注解書には、屋根を障害物として考えています。つまり、私たちの信仰生活が何かによって邪魔されるなら、4人の人たちのようにその障害物をとりのぞく必要があると言うことです。
私たちの人生において、時には障害物を取り除いて、通過しなければならないことも起こり得るということです。
皆さんは、いかがでしょうか? 私たちに現在置かれている障害物は一体なんでしょうか?
もしかしたら、その障害物を取り除く勇気はなく、未だにどうしょう、どうしょうと周りを気にしながら、いや、むしろ逆に空気を読み過ぎて、結果的に実行に移せなかったりしてはいないでしょうか?
もし、あなた或いは皆さんにとってのその障害物が主イエスへの信仰生活に邪魔になるのであれば、大胆に4人の信仰者が屋根を破って病人をつり下したように、皆さんもその障害物を取り除かなければ、「あなたの罪は赦された」という良い結果には及ばなくなるかもしれません。
また、二つ目は、信仰による祈りは、病む人を回復する力があるということです。回復とは、元の正常な状態に戻されるという意味です。
ヤコブ書5章15節にはこう書いてあります。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、その人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」とあります。
ですから、先ほどお読みしましたマルコの福音書2章11節に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と、人の罪を赦す権威を持っておられる主イエスはそう言われたのです。この「起きなさい」とは、すなわち、「立つ」と「起きる」という2つの意味を持っていまして、ギリシア語原文の動詞の原型はεγειρωと言います。
また、先ほど触れましたヤコブ書5章15節にも、「主はその人を立たせてくださいます」という言葉にも同じ単語が使われ、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦され、またその人が持っている病さえも潔められる」と言われているのです。
繰りかえりますが、主イエスは、マルコの福音書において、中風の人に「あなたの病は癒されました」とダイレクトに言ってはおられません。 むしろそれよりも、「あなたの罪は、あなたを運んできた4人の信仰によって、赦されたのであるから、起きなさい。立って家に帰りなさい」と言われたのです。
もう一度、纏めたいと思います。
一つは、私たちが主イエスに出会って問題を解決してもらいたいと思う時に、障害物が現れます。しかし、私たちはその障害物を大胆に取り除く必要があるということです。
そして、二つ目に、人の罪を赦す権威を持っておられる主イエスに、私の病も、心配事も、不安な未来も信仰によって委ねてみることです。
その時、主はこう言われるかもしれません。「あなたの罪は赦されました。起きなさい。立ち上がりなさい。そして、自分の足で家に帰りなさい」と。
Εγειρω,Raise me upしてくださる、主イエスにこの福音書を思い浮かべながら、今晩も一緒に祈ってみようではありませんか。
では、お祈りいたします。