迷えるギター弾き

迷えるギター弾き

ゆる~いアマチュアギター弾きの ゆる~いブログ。

惑わないはずの年齢を過ぎて なお
迷いは より深く 大きく広がってゆく…。

かたわらには たたずむ「ホヤぼーや」。

Amebaでブログを始めよう!

最近はだいぶ無くなったが、
知人からプロミュージシャンのライヴやコンサートのチケット販売を頼まれることがある。

誰もが知る超有名プロならば、頼まれたチケットをさばくのにそんなに苦労はないが、
「その筋では有名」なアーチストや「知る人ぞ知る名手」とかのチケットは販売に苦労する。

自分でもよく知らず、一般的にもあまり知られていないプロの興行の場合、
セールストークはフライヤー(チラシ)に書いてある「見出し」や「プロフィール」から引用するしかない。
有名音楽校や組織への加入歴、何かの受賞歴、活動実績、楽器の値段、他の有名人との関わりを並べ
「お金を払って見に行くに足る」すごいミュージシャンなんです

「見ないと損をしますよ」

と説得することになる。

音楽表現の妙や多彩さ深さ高さなどは説明されても解りにくいが、

「賞」や「楽器の値段」など形があるものは伝えやすいのだ。

 

だから
プロの演奏会場には受賞歴やなんらかのステータスを見に来た人が必ず存在する。

そういう人は
現場で生のパフォーマンスに触れ、感激できることがあると

「さすが○○賞の受賞者だ」と「賞」を誉め、
権威に恐れ入りながら帰っていく。

またある人は

「さすが○○○万円の楽器だ」と「金額」を誉め、
金の持つ偉大な力を讃えながら帰っていく。

人は弱い。

 



これは音楽に限ったことではないけれど
アマチュアのパフォーマンスを楽しむにはプロとは違ったアプローチが必要になる。

プロに求めているものを、アマチュアに求めれば当然不満ばかりになる。

 

プロは基本の遥かその先を求められるが、大半のアマチュアは基本を満たすことすら稀だ。

 


アマチュアを楽しむコツのひとつは、

「小学校低学年の野球を観戦する気持ち」になることだろう。
 

 

たとえば、内野にフライが上がる。

プロ野球でなくても、ここは簡単に捕球してアウトというところだが、低学年の野球は違う。

ボール落下点の子がオロオロして落球するのは当たり前の光景だ。

なので たまにちゃんと捕球できるとギャラリーから大きな歓声が上がる。

未熟な者たちが起こすドラマへの感動があるからだ。

    *

また たとえば

ぼてぼての内野ゴロを取ってファーストへ送球、

ここは普通アウトだが、低学年の野球は違う。

心配したとおり送球は大きくそれて、楽々セーフ。

ランナーは周囲の「走れー!」の声に押され、2塁へトテトテ走り出す。

ファーストの子は偶然戻ってきたラッキーなクッションボールをつかんで2塁へ送球。

アウトのタイミングなのに、ボールはやはりそれて外野へ転がっていく。

ランナーは またまた「走れー!」の声に押されて3塁も回る。

楽々ランニングホームランかと思えば、いかんせんランナーの足も遅い。

なんとボールが間に合い奇跡的なクロスプレーに。

大きな歓声が上がる。


どうだろう、ワクワクしないだろうか。

確かにそこには未熟な者たちが起こすドラマへの感動があるのだ。

    *

アマチュア音楽の現場でも ドラマは起こる。
楽器を始めたばかりの子が 

発表会で泣きべそをかきながら 曲の最後にたどり着く場面などもそれだ。

その感動は音楽そのものからくる感動ではないが、
人が起こす「音」にまつわる舞台表現の成果に結果的にはなっている。

    *

未熟なアマチュアのパフォーマンスを楽しむ極意は、アラさがしをする減点法ではなく、
小さなドラマや得点を0点から積み上げる加点評価の視点を持つことだろう。

誠意を少しでも持ち続けている表現ならば合格点でなくても、0点ということはまずありえない。


ただし、

このような視点を持ち続けてアマチュア音楽に向き合うのはそんなに楽なことではない。

受け手にとって 未熟な音楽は大なり小なり音の暴力なのだ。

演奏者の関係者か身内でもなければ、そのストレスに長時間耐えることは難しい。

他人の耳を踏みつけにしながら育つしかない原罪を背負い アマチュア音楽は存在する。

   

 

なんであれ

練習不足で ちゃんと弾けてないんだけど

ランニングホームランにならんかなぁと 都合よく思う

今日この頃

 

 

 

 

まだ若いころの話だが、
参加したばかりのアマチュア音楽サークルから演奏会チケット20枚をノルマとして渡された。
身内、友人知人に声をかけ、なんとか半分ぐらいまで減らすことが出来たのだが、

ある日、
隣の喫茶店で出会った女性の常連客に演奏会チケットの件を切り出してみると
こう言われた。

「私は一時も時間を無駄にしたくない。
 なので音楽を聴くにしても一流のものだけにしている。
 アマチュアの未熟な音楽で貴重な時間をつぶすつもりはない。」

真っ向から全否定されて唖然としたが、真正直な話ではある。

たしかにアマチュアの創る音楽は概して至らないし、
受け入れるためにはそれなりの器量と忍耐力を必要とする。
人生の選択として、未熟な表現物を拒否することはそれなりに理にかなっているようにも思える。
ので、ごもっともと引き下がるしかなかった。


ちょっと悔しかったので、一流の音楽とはどんなものか訊ねてみた。

すると口にしたミュージシャンやアーチストの名は 有名人や有名作品ばかり。

なんというか迷いがない。

というか この人は迷うことをやめた人だった。

いちばん引っかかったのは
その人の言う「一流のもの」が、
専門誌やマスコミなど世の中で高い評価を受けているもののことで、
自分で広く体験して判断したものではないということ。

その人曰く

「素人が一流の音楽を聴いても、その価値を理解できないから
 素人は専門家に良い音楽がどれかを教えてもらう必要がある。」

「素人は専門家の薦める一流の音楽をたくさん聴き、
 良いと思える人間になるよう努めなければならない」

とのこと。

自分としては、
ものの良し悪しを専門家と呼ばれる人たちに丸投げして良いわけがないと思ったのだが
反論する気になれなかった。

なぜって

「一時も時間を無駄にしたくない」 ので

 

(ギターのピックアップ)

 
 

自分がそうであるように アマチュアミュージシャンには言い訳が多い。

ちゃんと演奏出来ない理由を山のように並べることが出来る。


往々にしてアマチュアミュージシャンは

「面倒くさくて練習する気になれなかった」という台詞を立派な理由だと思っている。

自分が上達への努力をしないことを自分以外の何かのせいだと思っている。

上達への奇跡的な近道が目の前に現れる日を何もしないで待つことが出来る。

地道な練習より高額な楽器に買い替える方が上達すると思っている。

音楽や楽器についての知識を膨大に積み重ねれば練習しなくても上手くなれると思っている。

不釣り合いなプライドを持ち、

「目くそ鼻くそを笑う」的な仲間内の上げ下げで簡単に増長し簡単に傷つく。


だとしても アマチュアミュージシャンは

どんなに稚拙なレベルであれ

精一杯の努力を見せる限り

生きる表現者であることに違いない。
 

 

そう これも

言い訳だけどね

 

 

(エレキギターのペグ)

 

太古から人は 楽しむことに努力を惜しまなかった  

楽しむことの中に 神を見 感じ 讃えた。

生きていればこそ 

楽しめる  


ならば  

面白くなき世も  

上手に  

楽しもうか  

イメージ 1

ホヤぼーやのゲームCD が発売されました。
「サンマ剣うきわハント」 と 「ホヤぼーやサメサーフィン」というミニゲーム2本入り。
気仙沼市のおみやげ屋さんで売ってます。

カワイイ見た目の割には ゲーム 甘くないです。
プロが作ったものでないので 普通のゲームにくらべると
操作性と ゲームバランスが微妙で 
正直 ちょっと 楽しみにくい。

楽しむための 努力がいる。

上手くいかない
不格好な

人生のようだ…。



音楽トラック付のCDなので 運転中に再生してみる。
一曲目の「ホヤぼーや ウォーク」、
シンプルで ありがちなメロディーだけど
ホヤぼーやの歩く姿が見えるようで
可愛い。


本体価格 800円は 
安いのか 高いのか。

上手に 楽しめれば
元が取れる。

まるで 
ちっぽけで

侮りがたい

人生のようだ




「 ホヤぼーや ミニゲームコレクションVol.1 」
Windows 7-10 PC専用
MKSZ-1801

なんか 「郷土の民芸ゲームソフト」だそうです。


あ… ギターの話 しないでしまった…。



 
アマチュアギター弾きとしてのギター暦は けっこう長くなってしまったが、
万年初級練習曲レベルの曲ばかり弾いているので、
知り合いのクラシックギター仲間からは
「向上心がない半端者」と思われている。
 
 
もちろん中級以上の曲に挑戦しようとしたことは 何度もある。
が、「テクニック的に難しくて挫折した」というシンプルな理由のほかに、
「弾いていて 獲得し表現する必然性を感じない」という、
100年早いぞと言われてもしょうがない 
生意気な弁明をもって いまだ逃げまくっている。
 
まぁ もっともらしく言い訳すれば
 
分量がある小説よりも、
文字数の少ない俳句や短歌の 切羽詰った表現に魅力を感じるのだ。
 
小品の表現は 俳句や短歌、短い詩句の朗読表現に通ずる
 
と、思っている。
 
静から動へ 動から静へと
一期一会の瞬間瞬間を紡ぐ居合い切りのように
凝縮した世界を表現する。
 
それが自分の理想だ。
 
 
うーん
 
ほんと  生意気だ。
 
イメージ 1
 
が…
 
それを果たして、出来るのか、出来ているのかと問われれば
 
まあ 笑ってごまかすしかない
 
 
逃げ込んだ先にあった 思わぬ深みに
尻込みもし
面白くも思う
 
今日この頃
 
 
 
 
 
※写真は「ホヤぼーや」の後姿
ギターを手に取り 初めにすることと言えば
調律  チューニングだ
 
チューナーという電子機器が登場してからというもの
アマチュア音楽は 飛躍的に聴きやすくなり
練習や 演奏そのものに費やせる時間も 飛躍的に長くなった
 
チューナーが出始めの頃、ギター弾きの先輩から
 
「器械に頼らず 自分の耳を鍛えろ」
 
と言われ、
音叉の440ヘルツや 各弦の音を当てるような 無茶なトレーニングに 挑戦した。
 
むろん 絶対音感とは無縁な素人のこと、偶然を除けば 当たったためしはない。
 

今は チューナーを遠慮なく使っている。

なぜかといえば
ギターという楽器は 厳密に調律にこだわったとしても 簡単にピッチが変化する楽器だからだ。
 
開放弦やオクターブハーモニクスで厳密に合わせても、
どのフレットを押さえるか どのくらいの力で押さえるかで 微妙に音程が変化する。
 
どんなに苦労しても 厳密な意味で調律が合わないのならば
とりあえずの落としどころに 速やかに導いてくれるチューナーに頼らない手はない。
 
もちろん 丁寧に調整された高級ギターの狂いは少ない らしい。

高額なギターには縁のない私には 確かめようもないが…
 
( ̄Д ̄;
 
イメージ 1
 
 
ネックの捻じ曲がってしまったギターは フレット音痴になり
永遠にチューニングが合わず
まともな音楽を奏でることが出来なくなる。
 
ネックが捻じ曲がってしまったギターと
心根が捻じ曲がってしまった心が 鳴らす音は
おそらく 不快な雑音でしかないが、
残念なことに 一般生活者のギターと心根は
少なからず 曲がっている
 
ゆえに そこに
澄み切った天上のハーモニーは存在しない
 
その不調和な揺らぎこそ 生身の人間の温かみ
と とらえることも出来ないわけではないが

せめて もう少しだけ
 
人生のピッチを 合わせたいものだ
 
A(´∀`;
 
 
 
※写真は 「ホヤぼーや」と お借りしているギター
 
 
イメージ 1
ひさしぶりに
  
 
クラシック系の楽譜を引っ張り出し
  
  
以前弾いたバッハの曲を弾いてみた
 
  
 
指が硬くなっていて  四苦八苦
 
 
早いパッセージは やはり鳴らしきれずに
 
 
止まる 
 
 
 
  
 
それでも
 
 
 
 
バッハ独特の 和声の流れに
 
 
 
ちょっと  
 
 
 
ワクワク  (^ ^)
 
 
 
 
イメージ 2あぁ やっぱ クラシック系のギターも
 
 
 
止められないなぁ
 
 
  
 
 
と 思う 今日この頃
 
 
(´∀`)
 
 
イメージ 1 
先日 小さな演奏会があった。
 
会場へ向かう途中 近くの仮設商店街で
 
被災地観光のお客さんと 記念写真を撮る「ホヤぼーや」の
 
後ろ姿を 見かけた。
 
 
ご苦労さま (^ ^)
 
 
イメージ 2
 
遠くて 小さい…( ̄o ̄;
 
 
歳をとったせいか
ギターの練習も 長時間できなくなってきた
疲れが すぐに
目に来る
指に来る
腰に来る
 
長めの曲を 一息で弾けない
集中力が切れる
そんなことも しばしばだ
 
楽器演奏も 基礎体力が大切らしい
 
ウオーキングで血行をよくしておかねば…
というか
日々の日常の中
ギターを触るということすら
間遠くなりつつある
 
 
問題外と 切って捨てられそうな
 
今日この頃
(u_u;