俳句の入口 12 俳句の奥座敷 | ロジカル現代文

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■俳句の奥座敷

 

 俳句の入口について書いているわけですが、初心者の人には入口のもっと手前の「門口」について書かないといけないのかも知れません。俳句を成り立たせている三つの要素があります。

 

一、  定型

二、  切れ字

三、  季語

 

 この三つです。これについての知識が基本的に必要なので、少し戻ってこれについて書こうかとも思いましたが、せっかく「一物仕立て」とか「取り合わせ」の句について「作句の現場」で触れましたので、ここでいきなり俳句の「奥座敷」まで案内してしまおうと思います。

 

 俳句はとにかく短いので、「入口」を入ったらすぐにもう「奥座敷」まで見えてしまいます。「佐藤のごはん」ではありませんが、「入口入ったら二歩で奥座敷」という感じです。奥座敷というのは奥義=極意です。わたしが考えている俳句の奥義をここで解説してしまおうと思います。

 

 二つの場合に分けて考えます。一つは一物仕立ての句の場合。もう一つは取り合わせの句の場合です。

まず一物仕立ての句を上手に作る奥義=極意について。一物仕立ての場合は、その名前の通り「一つの事物」について詠んだ俳句ということで、俳句の対象が自然の景物である場合と、人間にかかわる人事である場合があります。前者が「叙景句」で後者が「叙事句」になります。いずれの場合もその対象についての何らかの「発見」「気づき」というものが俳句のネタになるわけですが、この発見・気づきというものがより意外でユニークであるほど面白い俳句になるのは当然です。わたしの例句でいえば、夏の太陽の下では燃える炎の色が見えにくいとか、祭太鼓の音を聞くとなぜかしら心が騒ぐとかの発見、あるいは気づきということです。

 

 自分の句を例に俳句の奥義を説くというのも気が引ける話なのですが、新しい例をあげるよりも牛が反芻するように一旦理解したものをもう一度引っ張り出してきた方が分かりやすいのではと考えています。そしてそこで発見し気づいた物事を「より的確な言葉」で表現すること。これが一物仕立ての句の奥義であるとわたしは理解しています。よく「俳句をひねる」といいますが、この「ひねる」というのが大事なことで、表現を在り来たりなものではなく、より印象的で的確なものにすることを指しています。わたしの例句でいえば、「色失へる」とか「魂ふるふ」などの言葉です。

 

 「発見」「気づき」といっても、科学上の発見のように誰も知らなかったことを「新発見」するというのではなく、俳句における発見ではたいてい誰しもうすうす知っていた、気づいていたということの発見です。誰しも気づいていたけれども誰もそれを言葉にしていなかったことを初めて言葉に表現したということが大事な点です。言われてみて初めて「そうそうそうですよね」と思われるようなことで、それがより印象的に表現されていれば、すばらしい句になるわけです。たとえばつぎのようなよく知られた句があります。

 

  白牡丹といふといへども紅ほのか      高浜虚子

  雉の眸のかうかうとして売られけり     加藤楸邨

 

 白牡丹の花にほのかに紅がさしているのは誰しも気づいていただろうし、雉は鶏などと違って死んでいても生きているかのような目の輝きをしているということは、知っている人には周知の事実でしょう。しかし、それを俳句にしたということが非凡な点だと言えるのではないでしょうか。  

 

 

 つぎに取り合わせの句の奥義について。取り合わせの句もその名の通り二つの物事を取り合わせて作った俳句のことです。取り合わせの句ではまずなんらかの「印象的なフレーズ」が俳句のネタとなることが多いと思います。例句でいえば「イヤホンに音溢れしめ」とか「さびしさは込み上ぐるもの」とか「人悲します恋をして」とかです。

 

 これらの印象的な俳句ネタに何らかの季語を取り合わせるわけですが、ここであまり状況説明的な季語であるとか、連想が付き過ぎる季語とかをもってこないのが、取り合わせの句作の奥義である、というのがわたしの理解です。彦根藩士で蕉門十哲の一人であった森川許六(きょりく)が書き残している芭蕉の言葉があります。

 

 「師の云く、『発句は畢竟取合物とおもひ侍るべし。二つ取合て、よくとりはやすを上手と云也。』といへり。」(『俳諧問答』)

 

 ここで芭蕉が取り合わせの句作の大事な奥義を伝えています。「よくとりはやすを上手と言う」と。取り合わせた二つの物事の関係性に注意しています。二つが全くの無関係では問題外ですし、説明的で付き過ぎていても面白くない。一見関係がないようでいて何かしらの繋がりが感じられる。こういう取り合わせが「よくとりはやせ」ている関係性ということです。

 

 「人悲します恋」と「羅」はよくとりはやせている関係性であると言って間違いないでしょう。「羅」というものに隠しきれない女の性のようなものがほの見えているところに、「人悲します恋」との幽かな繋がりがあるのではないでしょうか。

 

 ところで取り合わせの場合のわたしの例句ですが、「イヤホン」と「万緑」はまあまあの取り合わせではないかと思ってはいますが、もしかしたら「状況説明」的な感じになっているかもしれません。また「さびしさ」と「逃げ水」では「連想」が付き過ぎていると言えそうです。いい方の例を示せればいいのですが、自慢できる句ばかりではないので仕方がありません。

 

 次回は、俳句の「門口」である三つの要素について書きます。