■俳句の定型
俳句にとって基本的な知識について触れるのが後回しになってしまいました。俳句の「入口」のさらに手前にある「門口」について触れておきたいと思います。ちょっと話を戻して、俳句という詩を構成する三つの要素について説明をしておきます。
一、 定型
二、 切れ字
三、 季語
まず初めに「定型」について。
俳句は「五・七・五」という音数の言葉で作ります。これは大雑把に言えば短歌の上の句であったものが、俳句として独立したのでした。そもそも短歌や俳句の「五音」「七音」というのは何なのでしょうか。これらは「音数律」というリズムを作る単位ということになります。
別宮貞徳著『日本語のリズム』(講談社現代新書 1977)によると、英語の詩では強弱のアクセントでリズムを構成していて三拍子のリズムになっているが、日本語の場合ではアクセントがなく、また音の長さも一定の等時拍になっているので、結局、音数によってリズムを構成しているということです。
そして五・七・五という音数は、八・八・八の四拍子のリズムを構成しているということです。つまり八分音符八つで一小節をなす四拍子の三小節分が俳句の五・七・五であることになります。また日本語は二音ずつ読まれる性質があり、一音だけのときは一音分の休止を伴う場合もあります。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
この句を声に出して読むときにはつぎのように休止を入れながら読んでいるはずです。
シズカサヤ○○○イワニシミイル○セミノコエ○○○
あるいは、
シズカサヤ○○○イワニ○シミイルセミノ○コエ○○
人によってあるいは句によって、間をおくところが異なるかも知れませんが、各八音分の拍を打って読んでいることが分かります。この八音が四拍子のリズムであるということです。
俳句の定型は、五・七・五ですが、字余りの場合があって、五音あるいは七音より音数が超過していることがあります。しかし字余りであっても、八音以内であれば基本的には差し支えないことになります。よく言われていることは、字余りになる言葉は上五のところに置くようにするということです。上五が五音を超えていてもそれほど違和感は生じないということで、たしかに中七や下五が字余りになっているよりも、リズムの乱れはあまり感じられません。
初めに俳句は短歌の上の句が独立したものと書きましたが、このことがもつ俳句への影響にはじつは大きなものがあります。短歌の上の句、下の句というのは、基本的には上の句には叙景あるいは叙事が記され、下の句には叙情が記されるという役割分担がありました。古代から現代の歌論に至るまでこの認識が受け継がれてきています。個々の短歌では必ずしもこの通りの詠み方がされてはいませんが、基本的には「上の句=叙景、叙事」「下の句=叙情」と考えてよいと思います。
そうすると俳句は短歌の上の句が独立したものですから、俳句は下の句で表現する「叙情」を捨てているということになります。このことは俳句の内容にとって非常に大きなことで、一般に俳句では作者の感情を直接述べるということをしませんが、その理由はここにあったわけです。俳句では自然や人事を描写することで作者の感情を間接的に表現するということになります。
ところで、日本語のリズムは基本的に四拍子、あるいは二拍子となっていますが、英語のリズムはこれと違って三拍子であると考えられています。そこで例えば日本人は「東京」を「トー・キョー」と二拍子で発音しますが、英語話者の発音では「ト・キ・オ」と三拍子に読まれることになります。この違いを理解していないと、英語訛りの日本語になったり、逆に日本語訛りの英語の発音になったりするわけです。
日本語においては四拍子、四音の言葉が非常に多く、長い単語を略すときも四音にまとめます。「エアーコンディショナー」は「エアコン」になりますし、「リモートコントローラー」も「リモコン」です。外来語だけでなく、日本語でも「取扱説明書」が「トリセツ」に、「明けましておめでとう」も「アケオメ」になってしまいます。