■作句の現場 3
つぎの句は最近のある句会に出したものです。
イヤホンに音溢れしめ万緑へ
このごろユーチューブの音楽をよく聴くようになり、スマホの音をイヤホンで聴いてみたらこれがすばらしい音でした。ボリュームを一杯に上げると素晴らしい迫力の音量になります。散歩のときにはこれが欠かせなくなってしまいました。そこで「イヤホンに音溢れしめ」というフレーズが出来たのでした。これが俳句のネタです。これで五七ができたので下五に何か季語をもってくる必要があります。ちょうど季節も新緑、万緑のころでしたので、自然に「万緑へ」と付けました。
ところが句会では誰の選にも入りませんでした。どこがよくないのだろうと聞いてみましたら、「万緑へ」という季語の扱いがあまりよくないということ。なにか添え物になってしまっているということでした。下五ではなく上五にもってきたら、ということで、つぎのように推敲しました。
万緑やイヤホンに音溢れしめ
なるほど、こちらの方が万緑に張り合うばかりの音量が感じられるようです。わずかな違いですが一句全体の迫力に違いが出てきたようにも感じられました。この句の場合はまず「イヤホンに音溢れしめ」というフレーズができて、それに対してどういう季語をもってくるかという発想の仕方なので、「取り合わせ」の「叙事句」ということになります。
つぎの句も最近のある句会に出したものです。
逃げ水やさびしさは込み上ぐるもの
一人の人がこれを取ってくれて、「さびしさは込み上ぐるもの」に実感があったのでつい選んでしまいました、という感想でした。この句も、まずこの「さびしさは込み上ぐるもの」というフレーズが出来、これに対してどういう季語をもってくるかと考えました。すぐに「逃げ水」という季語が浮かびました。車を運転していてよく逃げ水を見る季節です。車であるサックス奏者の曲を聴いているとけっこうせつない気持ちになります。しかし、「逃げ水」→「さびしさ」という連想は「付き過ぎ」なのではないかと思っています。わたしの場合、よく付きすぎで面白くないと先生には言われていますので、おそらくこれも付きすぎでしょう。
鳥とか花とかの取り合わせを考えた方がよいのかも知れません。さびしい音で鳴く鳥は何か。わたしの耳には昼間でも大きな声で一声鳴く鳥の音があるのですが、それがなんという鳥か分かりません。「仏法僧」というのは響きもいいしわたしの耳にある鳥の声にも近いと思いネットで調べてみましたが、この鳥の声はよくありませんでした。時鳥の鳴き声は美しい音として知られていますが、夜に鳴く時鳥は怖ろしいほどさびしいとネット記事にありました。たしかに深夜に山中であの音を聞いたらかなりさびしげです。しかし時鳥ではイメージが違いすぎるので、青葉木菟くらいがいいのかも知れません。
さびしさは込み上ぐるもの青葉木菟
「燕子花」というこの季節の花があります。燕子花は美しい紫で悲しみの色という感じもします。
天上はさびしからんに燕子花 鈴木六林男
この句の意味はよく分からないのですが、なぜかしらわたしはとても好きな句になっています。この句から燕子花とさびしさのイメージが結びついていて、これもいいのかも知れません。
燕子花さびしさは込み上ぐるもの
というわけで、どの季語との取り合わせにするか決めかねています。こういうのを「季語が動く」といいますが、この言葉は取り合わせの句を評して、季語が動くとか動かないとかいう言い方で使われています。つぎの句の場合の季語はもはや動かないものとなっているでしょう。
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
鈴木真砂女の代表句といえるものですが、この「羅」という季語は古風でもありじつにぴったりです。こういう動かない季語をもってくることを「季語の斡旋が上手い」とも言います。「斡旋」などとあまり文学的でない表現なのでわたしは好きではないのですが。