■助動詞「し」の意味
今回は過去の助動詞「き」の連体形「し」についてです。以前ある句会で「し」の用いられているつぎの句が問題になりました。
雨の粒風に走りし蕗の原 陽子
この句の「走りし」の「し」は過去の助動詞だから、一句全体が過去の話ということになってしまうけれども、しかしそういう解釈ではこの句の理解を曲げてしまうようにも感じられる、という疑問が出されました。
たしかにその通りでわたしも前々から感じていたことでした。一体これはどういうことなのか、その後すこし調べてみたところ答えはすぐ辞書の中に見つかりました。
三省堂『詳説古語辞典』で一頁分にも及ぶ「き」の項の解説を注意深く読んでいくと、最後の最後につぎの説明に行き当たります。
〈平安末期以降「き」と「けり」「たり」の区別が曖昧になり、「き」を完了・存続の意味に用いた例がみられるようになる。〉
ここに至って疑念が解けました。
つまり、「き」には常識的に理解しているように「過去」の意があるのはもちろんであるが、じつはそれ以外にも「完了」と「存続」の意の場合がある、ということ。
古典文法は基本的に平安時代の言葉遣いを基準としていて、その限りでは「き」は「過去」を意味しています。しかし現代の俳句などではそれだけでは理解しがたい例があります。というより俳句では過去を過去として詠むことは少ないので、むしろ完了や存続の意の用例が多いのではないかと思われます。
したがって、例句の場合も「雨粒が風で(今しがた)蕗の葉の上を走った」という完了の意として理解できます。
ところで『俳句における日本語』の著者吉岡桂六氏は、〈「き」は過去に起こったこと、その回想を表す。〉と古典的な理解をされていてこれ以外の意味を認めていないのですが、例として挙げられている句には完了、存続の意の句もあって、当然のことながらその解説は釈然としないものとなっていました。
春の蚊のひとたび過ぎし眉の上 草城
この句の解説では「〈春の蚊が過ぎた〉ということは確かに過去のことでその結果は現在に及んでいないことは明らかである。」とされていますが、これなどはそのまま「完了」の意として理解できる説明となっています。蚊が眉の上を通り過ぎたが、それは今しがたのことでそれっきり完了したことだと。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 子規
この句についても「仏には痰がつまっているのであり、〈つまった〉のは過去の出来事であるが、その結果は現在に及んでいるのである。」とあくまでも過去にこだわった説明ですが、これも存続の意と解せばすっきりと理解できます。仏の喉には痰がつまったのだが、それは今もそのまま存続していると。
あはや勝つすもふ千切れし褌哉 蕪村
蕪村の時代にも、完了の意の「し」が使われていたことが分かります。