ロジカル現代文

ロジカル現代文

このブログは「現代文」をロジカルに教えるため、または学ぶための画期的な方法を提案しています。その鍵は「三要素」にあります。
このロジカルな三要素によって、現代文の学習や授業が論理的になり、確かな自信をもつことができます。ぜひマスターしてください。

   □小説

     「羅生門」に入門  1~6           

    「俘虜記」の読解  1~9            

    「こころ」の読解   1~24              

    「蜘蛛の糸」の読解  1~4            

    「どもり」の読解  1~7             

    「セメント樽の中の手紙」の読解  1~4   
  
□評論

    「経済の論理/環境の倫理」の読解  1~7  

    「市民社会化する家族」の読解  1~12    

    「ゴーシュと音楽の教え」の読解  1~7     

    「身体の個別性」の読解  1~8        

    「技術の正体」の読解  1~8          

   □詩歌

    俳句の読解  1~15                 

    短歌の読解  1~8                

    詩の読解  1~24

   □随筆

    「謎の空白時代」の読解  1~3

   □問題

    三要素で解く国語の問題  1~10     

   □言語

    言葉の意味   1~20          

    論理的思考とは   1~54         

    学校文法の謎   1~6             

    PISA型読解力とは   1~6     

    日本人のコミュニケション  1~6

    修辞法・比喩法  1~5                                                                  

   □俳句

    俳句の入口  1~15                 

    俳句の定石  1~6                 

    俳句の文法  1~12                 

    俳句の文語文法  1~4                 

    俳句の美とは  1~12                 

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■推敲 三(語順はこれでよいか)

 

十七音という短い表現のなかで、語順がよくないと意味が分かりにくかったり、自分の言いたいことが伝わりにくい表現になっていることがあります。いろいろ語順を変えてみると何を表現したかったのか自分にもはっきり見えてくることがあります。とくに季語の位置を変えてみるとよい場合があります。初心のうちはとくに上五に季語を置いて作ってしまいがちですが、上五と下五を入れ替える「天地返し」などをしてみるとよくなる場合があります。

 

   昼月に青の滲み入り五月晴         一村葵生

 

このわたしの句の場合、季語「五月晴」を下五に置いていますが、この語順だと「青の滲み入り」の「青」がどういう青なのか、なんの青なのか分かりにくいものとなっています。これは青空の青い色のことなので、上五に五月晴をもってきた方がそのことがはっきりすると思われます。

 

   五月晴青の滲み入る昼の月

 

 

ちょうど一年前、二○二三年五月二五日放送の「プレバト」で、名人森口瑤子さんがこんな句を作っていました。

 

   (さかな)手土産に来る父の日の父         森口瑤子

 

この句はかなりごたごたした印象を受けます。全部で十七音にはなっていますが、まず五七五という音数律に合っていない点でリズム感がよくありません。夏井いつきさんは、上下をひっくり返してつぎのように添削されていました。これだと意味も分かりやすくなっていますし、リズム感もよくなりました。

 

   父の日の父()肴手土産に

 

 

 

■推敲 二(不足の言葉はないか)

 

推敲にあたっての二つ目の注意点「不足の言葉」というのは、言い足りていない言葉ということです。俳句では言葉をぎりぎりまで省略しますが、しかしその言葉を省略してしまっては読者に理解できないという言葉まで省略してしまっている場合があります。つまり「言葉足らず」な表現になってしまっている場合です。

 

  どんでんに祭心の揺るがるる      一村葵生

 

作者としては「どんでん」というのは祭太鼓の音を指すつもりでいたのですが、句会のメンバーに聞いてみると「なんのことか分からない」という答が返ってきて、とても驚いたのでした。作者が自明のことと思っていてもそうではないということがあるのでした。そこでつぎのように祭太鼓とはっきり言う形に推敲しました。

 

  どんでんと祭太鼓や(たま)ふるふ

 

 

先日、二○二四年五月二三日放送の「プレバト」の俳句で、名人梅沢富美男さんがつぎの句を出されていました。

 

  新茶汲む所作ぎこちなき左利き     梅沢富美男

 

この句は「ガッカリ」で没となっていましたが、たしかにこの表現ではなぜ「所作がぎこちない」のかが分かりません。作者の解説では「急須」には右利き用しかなく、左利きの人が使おうとするとどうしてもぎこちない扱い方になってしまうということでした。作者としては「急須」は当然のものとして頭に浮かんでいるのでしょうが、読者にはやはりそれは明言してもらわないと分からないことです。そこで夏川いつきさんはつぎのように添削していました。「生憎」がにくいですね。

 

  新茶汲む急須生憎左利き

 

 

ところで、言葉足らずではなくあえて言わない、伏せる言葉という場合もあります。

 

   ふり向きし女に目鼻螢狩り       一村葵生

 

これはわたしの昔の句ですが、「のっぺらぼー」という言葉は言わずもがな、分かるはずの言葉として使っていません。それを言ってしまわないのが面白いところのはずなのですが、解説しないと理解してもらえないことがありました。また読者の反応として、のっぺらぼーでなくてがっかりというのと、のっぺらぼーでなくてほっとしたという両様の鑑賞があったのは、作者としては興味深いことでした。

 

 

■推敲 一(無駄な言葉はないか)

 

俳句を推敲するにあたって、つぎの五つの点をとくに注意したほうがよいと思います。

 

①  無駄な言葉はないか。

②  不足の言葉はないか。

③  語順はこれでよいか。

④  「切れ」はあるか。

⑤  「サビ」はあるか。

 

まず、推敲上一番目の点についてですが、「無駄な言葉」というのは表現上意味が重複している言葉であるとか、言い過ぎていて余計な言葉などになります。

 

(*例句を挙げますが、悪い見本としての例句になるので、人の句を引用するのはなるべく避け、できるだけ自作の句とします。)

 

 木から木へついんついんと小鳥飛び   一村葵生

 

この句の場合、小鳥が「木から木へ」と言い、「ついんついん」というのは飛んでいる様子の擬態語であり、すでに飛んでいることは言われていると言えるので、句末の「飛び」は言わなくても分かる無駄な言葉となっています。そこで「飛び」に替え「かな」という切れ字を用いて余情を強調しています。

 

 木から木へついんついんと小鳥かな

 

 

 それぞれに座せる野猿春の風     一村葵生

 

この句の場合でも、すでに「それぞれ」と言っているので、野猿が複数であることは分かることであり、「ら」という複数を表す接尾語は余計な言葉となっています。この「ら」を削除して「や」という切れ字で感情を込めた方がよいのではないかと思います。

 

 それぞれに座せる野猿や春の風    

■俳句作りの初歩

 

 今回から、俳句の作り方としてより実際的な注意点について書いていきたいと思います。句会に参加して学んだことをわたしなりに理解してまとめましたので、参考にしていただければ幸いです。

 

 わたしの俳句歴はけっこう長いのですが、なかなか上達したという実感をもてないでいました。振り返るとここにまとめたような初歩的な俳句の作り方を軽視していたからだったと思います。初心者にはこの定石を理解しておくことがとても大事です。

 

 俳句も結局「文」あるいは「文章」なので、基本的には文章の書き方と同じです。つまり「何を、どう書くか」ということに尽きます。 レポートにはレポートの、案内文には案内文の、表現としての定石があるのと同じように、俳句には俳句特有の表現の対象、表現の仕方がありますので、それらを定石としてまとめたのが本稿です。

 

 つぎの四つの項目にまとめました。

 

一、  推敲

二、  句材

三、  用語

四、  措辞

 

 定石としてもっとも身につけるべきは「推敲」です。表現は適切であるか、表現に過不足はないかを自身で判断する力を習得することが肝心です。これが俳句の上達において一番重要です。後の三つは推敲するにあたっての具体的な注意点です。

◆季題的な喩

 

 アニミズム的な感性においては、季語は俳人が自らの内面の思いを託すものとなっている場合があります。ここに俳句の象徴性があると言ってよいのではないかと考えられます。

 

 この象徴性は季語と作者・読者の間に成り立つものですが、この場合の作者・読者とは俳句を享受する「座」のメンバーを指します。そして俳句における象徴性をいう場合には、一般的な象徴の定義より少し広く「心情」を含めて考えなければならないでしょう。つまり象徴とは、具体的な物によって抽象的な観念のみならず「情念」をも含めて暗示するものであり、またその象徴性がある程度一般に周知されているものでなければならない、と。

 

 秋元不死男は『俳句入門』(角川選書 一九七一)の「象徴的表現」という節で、自身の句をあげてこう解説しています。

 

  子を殴ちしながき一瞬天の蝉      不死男

 

 「子を殴った一瞬がはなはだ長かったという実感、そしてその実感が折からふりそそぐ蝉の声によって胸に沁みわたったこと、それだけが頼りになる表現の場であるとおもえてくるのである。(中略)もしも読者のうちでこの句から悔いたとか淋しくおもったというわたしの気持を多少でも酌みとっていただくことができたとしたら、それは見えない内側で共鳴してくれたからである。それはこの句の象徴的表現をみてくれたことになるのである。」

 

 秋元不死男の書き方では一句が全体として象徴的であるかのように言われていますが、そのように解してしまうと象徴というのはとらえどころのないものとなってしまいます。事実秋元はこれに続いて芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を例として象徴的表現を論じ、こう述べています。

 

 「それは、いえば生命の流れともいうべき、何か根源的な見えない、聞えないあるものといえる。そういうものがこの句に象徴されているので、(後略)」と。秋元は自句や芭蕉の句の季語である「蟬の鳴き声」に象徴性を感じ取り、芭蕉の句においてはそこに神秘的な何かが象徴されていると解しているのですが、こうなると俳句はわたしたち凡人の理解を絶したものとなってしまいます。

 

 そうではなく、「象徴」といえどもそれはただの比喩の一種にすぎないのであって、たとえば暗喩の意味を別の言葉に置き換えて理解できるのと同じように理解できるものと考えなければなりません。先の秋元不死男の句についていえば、季語である「天の蝉」には空から降ってくる疼くような蟬の鳴き声に作者の悔いや淋しさが暗示されていてそこに象徴性がある、というように解せば象徴というのは神秘的でも曖昧でもありません。

 

 「季語の本意」という言葉があります。歴史的に和歌により蓄積されてきた「季の題」の伝統的な情趣をいうものです。たとえば「春雨」の本意はしずかに艶なるもの。「秋風」はもの寂しいものというように。また「冬の月は冴ゆるを本意と見るべし。」「鵙の声はおどろきやすきを本意とすべし。」などとも森川許六は記しています。このように季題の情趣が人々(座)に共通に理解されているということは、その象徴性がある程度一般に周知されていなければならないという象徴の定義とも合致しています。したがってこのような季語の象徴性を「季題的な喩」と呼ぶことができるでしょう。

 

 TV番組「プレバト」で反響があったというつぎのような句があります。

 

  恋を終わらせ平日の海月見る      犬山紙子

 

 この「海月」に、揺れ動く女心の象徴を読んだ人が多かったということでしょう。

 

 配合的な喩、境涯的な喩、季題的な喩においては季語はとくに重要な働きをしていて、これらの季語には作者の思いが託されているという点に注意するべきであると思います。

 

 

◆境涯的な喩

 

 俳句に見られる様々な比喩表現について考えていますが、今回は第三の「境涯的な喩」の位相について。これは俳句の作者や読者を含め特定の誰かの置かれている境涯というコンテクスト(文脈)と、一句全体との間で成り立つ比喩関係です。これが俳句の寓意性です。

 

 第四の「季題的な喩」も同じく俳句の作者あるいは読者というコンテクストにおいて成り立つものですが、こちらは一般的な作者あるいは読者のコンテクストと、一句の中の季語との間で成り立つという違いがあります。

 

 すでに、拙稿「俳句の文語文法」の第五回「俳句の寓意性」で、作者の境涯によって一句が寓意を帯びる場合について、芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句などを例にしました。ここでは他の例をみてみましょう。

 

  海に出て木枯帰るところなし      誓子

 

 この句が作られたのは戦争末期の昭和十九年十一月十九日。この一月足らず前の十月二十五日には最初の神風特別攻撃隊が出撃し、その戦果が報じられていたはずで、作者の耳にも届いていたのではないでしょうか。この句で作者は神風特攻隊を意識していたかどうかは分かりませんが、読者の中には「木枯」を神風としてその寓意を読む人もいたことでしょう。

 

 「俳句文学館」の二○二二年七月五日号の「試練に磨かれた詩魂」で井上弘美氏がつぎのように書かれていました。「桂信子が晩年に詠んだ〈青空や花は咲くことのみ思ひ〉は、花が一途に命を全うする姿を詠んでいるが、それは桂信子の俳句人生そのものである。」たしかに読者としてはそのような寓意の読みを誘われる句です。

 

  風車風が吹くまで一休み

 

 これは名前は忘れましたが、ある政治家の作でした。この場合は明らかに作者自身が己の政治姿勢を風車に寓意しています。

 

  秋風に吹つくさせて帰花       蕪村

 

 この句について高橋治氏はつぎのような鑑賞をしています。「蕪村の客観描写と思える句に、ともすれば私は人の姿を感じとる。この句も冷たさのいや増す風が、ひと息ついた後にと受けとるべきだろうから、逆風、悲運にさらされる人を連想してしまう。帰り花とは、わが胸に宿るささやかな理か秘めた願望か。いずれにせよ単なる叙景の句ではない。」(『蕪村春秋』朝日文庫 二○○一)

 

 ところで、山本健吉著『俳句私見』(文藝春秋 一九八三)に所収の「純粋俳句」の末尾にはつぎのように書かれています。「俳句の本質は象徴詩でなく寓意詩であるというのが、私の結論であります。(中略)私はもっと多くの例証を挙げて説明すべきだったと思われますが、その暇がありません。」

 

 ここに「もっと多くの例証を挙げて」とありましたのでどういう句があるのかと読み返してみたところ、十四の例句のうち寓意性に関わる句としては芭蕉の例の「行く春」の句であるとか「古池」の句が見受けられましたが、しかしこれとてもどこがどう寓意的なのかの説明はありません。つまり根拠が何一つ具体的に明示されないまま「俳句の本質」が結論づけられているわけで、お粗末というしかない議論でした。

 

 俳句は寓意詩であると主張するなら、すべての俳句を寓意的に解釈してみせる必要がありますが、それはそもそも不可能であって、これは部分を全体であると言い張る暴論にすぎないことがすぐに分かります。挙げ句の果て「(今は)その暇がありません」と逃げているのですから、開いた口が塞がらないとはこのことです。

◆配合的な喩

 

 今回は比喩表現の第二の相である配合的な喩について考えます。これは一文中ではなく二文に渡って成立する比喩であり、二句一章における二句の間で成り立つものです。定型というコンテクストの中で初めて成立する俳句に特有な暗喩ですが、ただしこれは新しい概念なので分かりにくいかも知れません。

 

 じつは歌人岡井隆氏が著書『現代短歌入門』(大和選書 一九七四)の中で、「俳句的喩」と名づけた比喩があります。この比喩のことをここでは「配合的な喩」と呼びたいと思います。理由は後で触れます。

 

 そもそも岡井氏のこの命名は吉本隆明さんの「短歌的喩」という用語に倣ったものでした。吉本さんは俳句には言及していませんでしたが、俳句にも同様の比喩が認められると考えて、岡井氏が名づけたものです。

 

 「短歌的喩」とは吉本さんが「短歌的喩について」において、暗喩の一種ではあるが西欧的な比喩の概念にはない短歌独特の喩として提唱した新しい概念でした。

 

  マッチ擦るつかの間海に霧深し

     身捨つるほどの祖国はありや 

 

 たとえばこの寺山修司の短歌において、上の句は叙事叙景、下の句は叙情を内容としています。しかし上の句は下の句で表されているような思いを抱いた情況の叙述や場所の描写というものに留まらず、下の句の「問い」に対する「答え」ともなっています。作者は港のような所にいて船が出るのを待ちながら煙草に火を点けた。が辺りは濃霧で何も見えず、船が出るかどうかも分からない。この情況は作者の祖国に対する疑問の答として、「身捨つる(に足る)ほどの祖国」はないのではないかということを暗示していると。「ありや」は疑問であるよりは反語「いや、ない」であることを示しています。

 

 ここでは「配合的な喩」という名称に替えたのですが、それはこの比喩はいずれも取合せの句において表現されているものだからです。つまり配合によって生ずる暗喩なので「配合的な喩」あるいは「配合喩」と言った方が分かりやすいと思われるからでした。

 

  少年の見遣るは少女鳥雲に      中村草田男

 

 この句では「少年の見遣るは少女」という叙事に「鳥雲に」という春の叙景的な季語が配合されています。少年は好意を抱いている少女の方を少し離れたところから見ているのでしょう。そして「鳥雲に」は少年の視線のさらにその遙か先にある情景であるけれども、少年の視界にあるかどうかは分かりません。しかしわたしたちには「鳥雲に入る」が少年にとっての少女の遙かさを喩えるものとなっていることに気づくのではないでしょうか。少女は雲に入る鳥のように遠い存在だと。

 

 しかしこの比喩関係はたとえば「少女は鳥のように遠い存在だ。」というような一文中で表現される比喩ではなく、「少年の見遣るは少女。鳥雲に。」と二つの文にまたがって表現されています。つまり二句一章の「定型」の中において初めて生ずる喩となっています。そこで今まで名前のなかったこのような修辞法をはっきり比喩表現として認めようということです。

 

  初恋の話の続きさくらんぼ      田子正流

 

 この句の「さくらんぼ」は、会話が交わされている場面に置かれた果物を示していると同時に、「初恋の話の続き」を暗示するものともなっています。つまりお定まりのような「甘酸っぱい恋の結末」を喩えるものとして、さくらんぼはうってつけの役割を果たしていることが分かると思います。

◆修辞的な喩

 

 俳句に見られる喩(比喩表現)には、異なる四つの位相があると考えられます。喩はそれが置かれている文脈(コンテクスト)の異なる場合があり、それによる違いです。

 

 第一は、喩が一つの文中というコンテクストにある一般的な場合で、これを修辞的な喩と呼んでおきます。第二は、喩が定型という枠内に置かれていることで成り立つ場合の、配合的な喩。第三は、喩が特定の作者個人・読者個人の境涯というコンテクストに置かれていて生ずる、境涯的な喩。第四は、喩が一般的な作者・読者というコンテクスト、つまりは「座」の文脈で成り立つ季題的な喩。

 

 それぞれについて詳しくみていきますが、今回はまず第一の修辞的な喩について。この比喩は一文中の語と語の間で成り立つもので、修辞法としてごく普通の比喩であり、直喩や暗喩、寓喩、擬人法などのことです。

 

 直喩には喩えの指標となる言葉が種々ありますので、気づいた限りを列挙します。

 

  泰山木咲くや白磁のごとく割れ       田島和生

  春闌けて火を吐くばかり鵯のこゑ      田島和生

  考ふる形に蟷螂枯れゐたる         田島和生

  春の虹湖に咲くてふ然も思ふ        田島和生

  かな釘のやうな手足を秋の風        小林一茶

 (「やうなる」が文語としては正しいと思っていましたが、口語と同じ「やうな」がすでに江戸時代に使われていました。)

  裘銃身に似し身をつつむ          桂信子

  金色の飛天秋のちぎれ雲         熊村あけみ

  白桃を啜るによよといふ容         伊藤通明

  砂場とふ明るき器こどもの日        可笑式

  竜宮と紛ふ唐門八重桜           四宮陽一

  遠山の猿とも羅漢春落葉          馬場千香子

  寂しさに音ありとせば鉦叩         辻田克己

  喪帰りの汗どつと出てサウナ       竹内悦子

  魚雷めきペンギン潜る花の昼        坂上元

  棒として引き上げらるる疲れ海女      石井いさお

  水琴窟月のしづくの音ならむ        庄司りつこ

  帯ほどに川も流れて汐干かな        水間沾徳

  青北風や清水に触るる心地して       一村葵生

  天上のかくは匂へる真葛原         一村葵生

  とりどりの囀り子等の声もまた       一村葵生

  小娘の風情にしだれ桜かな          一村葵生

 

 この他に「かに」「同じ」「張り」「さぶ」などがわたしのノートにありますが、残念ながら例句を書きとめていません。

 

 続いて暗喩(隠喩)の例を見てみましょう。名詞だけでなく、動詞、形容詞、形容動詞も、それぞれ暗喩に用いられます。直喩のように喩えていることを示す表現がないので、気づきにくい場合があります。一つだけ例を挙げると、つぎの句の「凩」は百年前に流行った「スペイン風邪」の暗喩です。

 

  胸中の凩咳となりにけり         芥川龍之介

 

 つぎに寓喩の例ですが、暗喩が一語にとどまらず連続していると寓喩になります。

 

  秋水に広ぐる風の翼かな         大前貴之

  音のなきひかりの怒濤白障子       中村正幸

  中年や遠く実れる夜の桃          西東三鬼

  袈裟がけに雪の刀痕葉月富士        富安風生

 

 寓喩が数語にとどまらず一句全体が寓喩の場合もあります。

 

  雀の子そこのけそこのけお馬が通る    小林一茶

  花の雲たなびく上の白鷺城        北嶋八重

◆一物仕立て・取合せ

 

 俳句を「文」としてとらえる場合、「一物仕立て」と「取合せ」という区別があります。しかしこの二つの判別はなかなか難しい問題です。こういう区別ができることは誰しも直観的に理解できていても、いざ個々の句に当たって考え始めるとはたと行き詰まることがあります。

 

 という訳で今回は一物仕立てと取合せをそれぞれどう定義すればよいのか考えます。まずこれまでどういう定義がなされているかをみてみましょう。『現代俳句辞典』(角川書店 一九七七)での矢島渚男氏の「取合せ」の解説から要点のみ引用します。

 

 〈古くは掛合ともいい、子規以後配合の語が一般化した。また二物衝撃の語も使う。本来異質的要素をもつ二物を一句中に切字をはさんで配する技法であり、季語等に述懐や事柄を配する技法をも含める。真の意味での取合せは状況説明に傾かないことと切れの意識があることが条件であろう。〉

 

 長くなるのでかなり端折りましたが、これが一般的な取合せの理解でしょう。矢島氏が取り合わせの句の代表例として示しているものの一つがつぎの句です。

 

  下京や雪つむ上の夜の雨    芭蕉

 

 しかしこの「下京」などは「状況説明」とも解せるものであり、この短い解説の中ですでに矛盾が生じています。

 

 そこで両者の句の典型例で考えます。

 

  薔薇匂ふ金環日蝕完結す    和生

  あたたかな息が近づく雪女   和生

 

 この両句の違いは明らかで、つぎのような定義を導くことができます。つまり、前者のような取合せでは、まったく異質な二つの物が切れを置いて合わせて表現されている。後者の一物仕立てでは、一つの物とその属性が描写されている、というように。

 

 ところが、つぎの句のような場合、この定義では判別しかねることになります。

 

  クレーンで据うる墓石炎天下  廣子

 

 この句ではクレーンと墓石は異質ではあるが同じ一つの状況の景物であり、両者の間に切れがある訳でもなく区別しかねます。

 

 このようにあるものが二つの概念のどちらに属するか判別できないという場合、つぎのような論理的な理由が考えられます。二つの概念が対立概念として中間項が存在するものである場合です。「白・黒」「生・死」等は対立概念であり、これらの対立項の間には中間項が存在します。たとえば「白・黒」の間には「灰色」、「生・死」の間には「脳死」などの中間項が存在します。けれどもこれが矛盾概念である場合には中間項が存在しません。たとえば「生物・無生物」「運動・静止」などでは中間項は存在しません。

 

 つまり「一物仕立て・取合せ」というのは「一か・二か」という対立概念であって句の構成の両極をいうものであり、両極の間には中間的な句が存在しうるということです。したがってどちらかに截然と区別できるものではないことになります。

 

 ここまで一物仕立てと取合せを句の構成に関わる概念としてその定義を考えてきましたが、定義を明瞭にして句を分類することにはあまり意味がないことが分かりました。

 この両概念は俳句の構成概念としてよりも、作句の方法をいう概念として捉えた方が意味があるものと思われます。これは「俳句の文法」を超える問題ですので、いずれ続編のテーマとしたいと思います。

◆アニミズム 下

 

 哲学者中沢新一氏自身がそうであるように、金子兜太氏初め俳人には俳句はアニミズムであると考える人がいるということでした。そして中沢氏がいうアニミズムとは、あらゆる物に遍満し流れる目に見えない力である霊(タマ)を信じる感覚であるということです。(言葉に宿るタマを言霊という例もあります。)

 

 たしかに俳句はアニミズム的であるとわたしも考えていますが、その場合のアニミズムとはタマの存在を信じるか否かというような宗教のレベルの話ではなく、日本人が自然に対して感じる日常感覚のレベルでの話です。

 日本という国が置かれた地理的な条件によって、日本では奇跡的といってもよいほどの四季の際立った移りゆきが現象し、日本人に有意な心性をもたらしていると考えざるをえません。

 

 日本人にかぎったことではないでしょうが、とりわけわたしたち日本人は季節に敏感で、春夏秋冬という季節の廻りに人の一生とのアナロジーを感じるということがあるのではないでしょうか。春、夏、秋、冬という自然の移り行きに、生まれ、成長し、子をなし、老いて、死ぬ、という人の生涯をなぞらえて感じているばかりでなく、さらに自然のもつさまざまな表情や変化に人間の喜怒哀楽の情とのアナロジーを見出しているということもあるでしょう。

 

 このとき季語は自然と人生を媒介するものとなっています。すべての季語が媒介の働きをするとは言えませんが、俳句にとって季語というものが他の語にはない一種特別な意味をもっていると俳人が感じるのは、季語のもつこのような媒介の働きによるのではないかと考えられます。日本の俳人たちがこのような感覚をもっていること、そして俳句にそれが反映していることを指して俳句はアニミズム的だと考えている訳です。

 

 アニミズム的な感性には縁遠い外国人の作る俳句にはこういう季語の働きがなく、往々にしてエピグラムに近い三行の短詩となっています。

 

   after tsunami       津波の後

   a surplus          過剰な

   of emptiness        空虚  

            ドロタ・ピラ(ポーランド人)

 

  As each year flowers     花たちは毎年

  are on their rendezvous   季節通りに咲き誇る

  More faithful than men   人間よりきちんと

        ヘルマン・ファン・ロンパイ(前EU大統領)

 

  新緑や五十手習い俳句女子

 

 これはわたしのお弟子さんの記念すべき第一作です。詰め込み過ぎですが、それでもこの「新緑」という季語には内面の反映がうかがわれ、右の二句よりすでに俳句的と言えるのではないでしょうか。

 

 季語が俳句において内面性の表現を可能にする一つの契機であると考える理由は、四季の表情に託して自己の内面を表現する橋渡しとなるものであるからです。

 例えば今日のこの「冬晴」に「内なる思い」を託すことで俳人は句を詠むのではないでしょうか。つぎの句ではあえて言うとすれば悲しみとそして祈りの託されていることが感じられるでしょう。

 

  君逝きてあと冬晴を極むなり    綾子