◆季題的な喩
アニミズム的な感性においては、季語は俳人が自らの内面の思いを託すものとなっている場合があります。ここに俳句の象徴性があると言ってよいのではないかと考えられます。
この象徴性は季語と作者・読者の間に成り立つものですが、この場合の作者・読者とは俳句を享受する「座」のメンバーを指します。そして俳句における象徴性をいう場合には、一般的な象徴の定義より少し広く「心情」を含めて考えなければならないでしょう。つまり象徴とは、具体的な物によって抽象的な観念のみならず「情念」をも含めて暗示するものであり、またその象徴性がある程度一般に周知されているものでなければならない、と。
秋元不死男は『俳句入門』(角川選書 一九七一)の「象徴的表現」という節で、自身の句をあげてこう解説しています。
子を殴ちしながき一瞬天の蝉 不死男
「子を殴った一瞬がはなはだ長かったという実感、そしてその実感が折からふりそそぐ蝉の声によって胸に沁みわたったこと、それだけが頼りになる表現の場であるとおもえてくるのである。(中略)もしも読者のうちでこの句から悔いたとか淋しくおもったというわたしの気持を多少でも酌みとっていただくことができたとしたら、それは見えない内側で共鳴してくれたからである。それはこの句の象徴的表現をみてくれたことになるのである。」
秋元不死男の書き方では一句が全体として象徴的であるかのように言われていますが、そのように解してしまうと象徴というのはとらえどころのないものとなってしまいます。事実秋元はこれに続いて芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を例として象徴的表現を論じ、こう述べています。
「それは、いえば生命の流れともいうべき、何か根源的な見えない、聞えないあるものといえる。そういうものがこの句に象徴されているので、(後略)」と。秋元は自句や芭蕉の句の季語である「蟬の鳴き声」に象徴性を感じ取り、芭蕉の句においてはそこに神秘的な何かが象徴されていると解しているのですが、こうなると俳句はわたしたち凡人の理解を絶したものとなってしまいます。
そうではなく、「象徴」といえどもそれはただの比喩の一種にすぎないのであって、たとえば暗喩の意味を別の言葉に置き換えて理解できるのと同じように理解できるものと考えなければなりません。先の秋元不死男の句についていえば、季語である「天の蝉」には空から降ってくる疼くような蟬の鳴き声に作者の悔いや淋しさが暗示されていてそこに象徴性がある、というように解せば象徴というのは神秘的でも曖昧でもありません。
「季語の本意」という言葉があります。歴史的に和歌により蓄積されてきた「季の題」の伝統的な情趣をいうものです。たとえば「春雨」の本意はしずかに艶なるもの。「秋風」はもの寂しいものというように。また「冬の月は冴ゆるを本意と見るべし。」「鵙の声はおどろきやすきを本意とすべし。」などとも森川許六は記しています。このように季題の情趣が人々(座)に共通に理解されているということは、その象徴性がある程度一般に周知されていなければならないという象徴の定義とも合致しています。したがってこのような季語の象徴性を「季題的な喩」と呼ぶことができるでしょう。
TV番組「プレバト」で反響があったというつぎのような句があります。
恋を終わらせ平日の海月見る 犬山紙子
この「海月」に、揺れ動く女心の象徴を読んだ人が多かったということでしょう。
配合的な喩、境涯的な喩、季題的な喩においては季語はとくに重要な働きをしていて、これらの季語には作者の思いが託されているという点に注意するべきであると思います。