我が家の近所には、どこにでもあるような神社があるのですが、社殿の大きさに比べると不釣り合いに大きな丸い鏡が置いてあります。
その鏡は妙に存在感があり、その神社の前の道を通るだけで、鏡が光っているのが気になって仕方がない時があります。
が、そう思っているのは、どうやら私だけのようです。
妻も娘も、その神社の前を日頃当たり前のように通るのですが、そんな風に感じたことはないと言うのです。
私とて、今の場所には娘が生まれる前から住んでいるというのに、その鏡が気になり始めたのはここ数年の話。
その鏡が数年前に新しく取り替えられたものなのか、それとは関係なくずっと前から置かれているものなのかすら定かではありません。
その神社の前の道を通るだけで鏡の存在が気になりすぎてしまい、参拝をすることが時々あります。
賽銭を入れたり手を合わせたりする自分が鏡に映ってしまうので、まるで自分に手を合わせているような変な気分になります。
今日も朝から天気が良かったせいか、ピカピカ光る鏡がどうも気になってしまい、通勤途中で神社に参拝することになってしまいました。
そしてまたもや、自分に手を合わせているような変な気分になりました。
いつもなら、その変な気分のままで参拝は終わるのですが、今日はなぜか突然「神社は、自分自身に手を合わせさせるために、わざと鏡を置いているのではないか」と思ってしまったわけです。
それと同時に、子どもの頃に祖父に教えてもらった祝詞の下記の部分を、数十年ぶりに急に思い出しました。
他の記事でも書いたことがありますが、祖父は様々な祝詞や経文を教えてくれました。弟や妹も同じように教えてもらっていたはずなのに、全く覚えていないそうです。父も、祝詞や経文なんて全く暗誦していません。
もっとも、私とてこれを全部覚えていたわけではなく、思い出したのは、「六根清浄とは其の身其の体の穢を祓い給え清め給え」の部分のみ。
突然、「要はこれって、『まずは自分自身を清めましょう』ってことなんじゃないの?」 と思ったわけです。
だから、神社に鏡が置いてあるのは、まずは自分自身と向き合うためのプロセスなのかな、と。
もちろん、これには反対意見もたくさんあると思います。
鏡は三種の神器の一つだから神社に置いてあるのだと言う人もいるでしょうし、天照大神の象徴だからという人もいるかもしれません。
これもあくまでも自己流の解釈ですが、神社でお参りをするということは、
- まずは自分自身を清め、パワーアップする (六根清浄)
- それから周りとの人間関係を清め、それを自分自身に採り入れてパワーアップする(内外清浄)
- それから地上のあらゆるものを清め、それを自分自身に採り入れてパワーアップする(地清浄)
- それから天界とか宇宙とかのあらゆるものを清め、それを自分自身に採り入れてパワーアップする(天清浄)
プロセスであり、かつ逆のプロセスによっても、さらに自分自身を高めようとする行為なのかな、と。
天清浄や地清浄は、記紀の「天つ神」「国つ神」の記述にも由来するのでしょうけど、こんなことはどこにも書かれていないですよね。自己流もいいとこなのは百も承知です
また、これも私見ですが、「まずは自分自身を高め、最終的には絶対的な存在に帰依する」というのは、他のあらゆる宗教にも共通することのような気がします。その逆も然りかもしれません。
どの宗教でも、祈りを捧げる行為というのは、自分自身を高めることによって何かしら絶対的なものに帰依させる、あるいはそれによってさらに自分自身を高めようとする行為であって、自分で判断することをやめて濡れ手の粟を期待したり、指示待ち人間として生きるための方便ではないように思います。
近所の神社の鏡の話から随分脱線してしまいましたが、思いついたことを書いてみました。
