「やりすぎ教育」と「企業の停滞」 | アラフィフ親父の戯言

アラフィフ親父の戯言

アラフィフで中高年転職しました。国立大学文系学部出身。妻と中高一貫校に在学中の娘の3人家族です。

こちらの表。
19世紀から人類の労働時間は一貫して下がり続けていることを意味しています。

しかし、「働かなくなった」我々の生活が19世紀から徐々に貧しくなっているというわけではなく、むしろ豊かになり続けています。


我々が若い頃は、月100時間残業なんて当たり前でしたが、その時の労働生産性が高かったかと言えば、決してそうではありません。

当時はリモート会議なんてありませんでしたし、会議の度に資料を人数分コピーし、それを配布するのは若手社員の仕事。
しかも、資料の体裁を異常に気にする人たちも沢山いました。

• 文章の「てにをは」直し (課長→部長→本部長→役員→社長、等と役職毎の資料レビューがあり、その度に、どうでもいい些細な文言修正の繰り返し。結局最終レビューで元に戻ることも珍しくない。)

• 字体フォントの修正(←上司によって好みが異なるので、報告する上司毎にフォントを変えなければならない)

• 資料の微妙な色合いの修正(←これも上司によって好みが異なる)

今から思えば、とてつもなく下らないことに労力を使っていたわけで、こんなことのために徹夜や休日出勤も当たり前でした。
どうでもいいことを執拗に部下に修正させて、自らの支配欲を満たそうとする上司も沢山いました。自分の嫌いな部下に半永久的に資料修正をさせ続け、休職や退職に追い込む上司もいました。
我々も、最初からちゃんとした資料を作ると重箱の隅突きをされることが分かっていたので、わざと突っ込みどころを残して上司に見せていました。


そのような職場は今でも存在するそうです。
例えば霞が関。
民間企業の残業を厳しく監視しておきながら、自分たちは平気で月100時間残業をやっているわけで。
優秀な若手官僚が次々と退職しているそうです。
主な転職先は、大手コンサル会社。給与オファーは、霞が関と比べると破格です。
しかしこちらも長時間残業が当然で、競争が厳しい業界(成果が出せない社員はすぐにクビ)ゆえの再転職を余儀なくされるケースも多いようです。

長時間労働し続けても金銭的に報われないばかりか、健康を害して働けなくなってしまったり(ひどい場合は「過労死」)、プライベートを犠牲にしてしまった人の方が圧倒的に多いというのが実情です。


なぜこうなってしまうのか?
私見ですが、日本の教育にも関係しているような気がします。
具体的には、ブラック校則、ブラック部活、そして受験制度。
要は、「やりすぎ」が美化されがちなのです。

「やりすぎ」教育を受け続けた人たちは、社会人になってからも無意識に「やりすぎ」を追い求めてしまいます。常に何かをやっていないと不安なので、無意識にブラックな環境を追い求めてしまうのです。

そこで多くのJTCで採用された施策が、「強制的な労働時間の削減」。
私もいわゆるJTC社員ですが、労働時間の点では改善されていると思います。
今や管理職ですらパソコンのログイン時間が監視されているので、長時間残業なんてできません。
若い人たちの多くも、少しくらいの残業なら構わないので、もっと「やりがいのある仕事」を任せてほしいと思っているようです。

ここで問題になるのは、我々世代と若い世代の双方が「与えられる」ことを期待しているということ。
前述のような下らない資料作成の仕事は格段に減りましたが、その代わりに部下に何をさせたらいいのか上司にも分からないのです。
部下に「気の利いた報告」を求める上司と、上司に「やりがいのある仕事」を求める部下。

いわゆるJTCで新規事業が育ちにくいのは、そういった背景もあろうかと思います。
クリエイティブなことを創造するためには、時には「何もしない時間」「ボーっとしている時間」も必要だと思いますが、「やり過ぎ教育」にどっぷり浸かってしまうと、こうした時間に罪悪感を抱くようになります。
こうした時間ができるとどうしたらいいか分からなくなるので、とにかく何かしらルーティン的な仕事をし続けていた方が精神的にラク、と思ってしまうのです。
新規事業部門で頑張るよりも、主要派閥に入ってメインストリームのルーティンな仕事を当たり障りなくこなした方がリスクが少ないですし、実際そういう部門にいる方が評価もされるし昇進も早い。
これでは会社自体の成長は全くなく、いずれ衰退するのは当然です。
「やりすぎ教育」が「企業の停滞」を招いている状態です。

自分の半生を振り返ってみて、あるいは自分の子どもの子育てを通して、
・「与えられたことをきちんとこなす」教育というか、人生を送ってきてしまったことへの反省
・子世代はそういう人生を送るべきではないのに、そういう教育を受け続けさせざるをえない矛盾
というものを常日頃感じています。

冒頭に言及した、19世紀から続く「労働時間の短縮」と「豊かさの向上」の流れは、今後も継続すると思います。
霞が関もこのまま人が抜け続ければ、さすがに職場改善施策が図られるでしょう。
高給料と引き換えにハードワークを厭わない層も一定数存在しますが、心理的安定性が保証されない職場で働きたい人なんて基本いないはずなので、やがては「豊かさ」を希求する方向性に変わっていくでしょう。

今の日本において求められているのは、何もしない状態から自発的に何かを生み出せるようにするマインドセットの醸成だと感じます。我々自身の意識改革と、子世代の教育の在り方の見直しが求められているような気がします。