祇園四条('21.12.14)
花見小路の突き当たりが、建仁寺の入口。
昔は、花見小路の四条通以南が、全部建仁寺の土地だったらしい。『ブラタモリ』で知った。
看板が出ている。昨日・今日の2日間、法要のため拝観休止とのこと。
ここが今日の目的地じゃなくて良かった。
そう、今日最初の目的地はまだまだ先。
道なりに左へ折れてさらに歩く。
右手に石の鳥居が現れた。
「悪縁を切り良縁を結ぶ」と書いてある。
この鳥居をくぐったら、ほどなくして、安井金比羅宮の境内に入った。
- まる2年ぶりのゲーセン紀行
- 四条大橋から花見小路通へ
- “縁切り神社”安井金比羅宮(前編)
- “縁切り神社”安井金比羅宮(後編)
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なんかけっこう混んでるぞ。
拝殿の前にも社務所にも、その間にある碑の前にも行列ができてる。
若い女性が比較的多い。
「縁切り神社」として知られる安井金比羅宮。
もともとは藤原鎌足が藤を植えて藤寺を造った所で、後に崇徳上皇がこの藤を好み、寵妃の阿波内侍(あわのないし)を住まわせた。
崇徳上皇は保元の乱に敗れ、讃岐に流されそこで崩御した。
それから13年後の1177年(治承元年)、大円法師という人物がここの御堂に参籠したとき、崇徳上皇が姿を現した。
ちょうど政情が不安定で、崇徳上皇が怨霊になったと言われ始めた頃。
後白河法皇の命令で、光明院観勝寺が建立された。
光明院観勝寺は応仁の乱で荒廃したが、1695年(元禄8年)に太秦安井にあった蓮華光院がここに移された。
その際に鎮守として、同じ崇徳天皇を祭神とする讃岐の金刀比羅宮から、大物主神と、源頼政公が勧請された。
明治維新の後、蓮華光院が廃されて、鎮守社が「安井神社」となり、さらに「安井金比羅宮」と改称された。
……というのが公式な由緒であるが、少し謎なのが源頼政の合祀である。
そもそも金刀比羅宮に頼政はまつられていない。
もっと言うと、頼政は保元の乱で崇徳上皇と敵対した、後白河天皇の側についていたのだが……。
(Wikipediaには、蓮華光院の開基の道尊が、頼政とともに平家と戦った、以仁王(もちひとおう)の遺児だからという説が書かれている。確かに、頼政がまつられている理由は、それくらいしか考えられない)
私が今作っているゲームは、香川県が舞台。
香川といえば、こんぴらさん。
なので今回、京都のこんぴらさんでヒット祈願をしたかったのだ。
しかも御祭神の崇徳天皇を、ゲームの中に登場させたいと考えているし。
しかしそれ以上に、真っ先にここへ来たかったのは、とにかく自分の今までの人生、特に仕事と恋愛と健康面で流れが悪かったので、この流れをいったん全て断ち切ってから、ほかの寺社を巡ろうと思ったからだ。
昨日の朝に腹痛で目を覚ましたときは、
「何か大きな力が、私を安井金比羅宮へ向かわせないようにしているのではないか?」
とすら思ったが、その後は体調を崩すこともなく、無事にたどり着いてまずは良かった。
……まあ、ここがなぜ“縁切り神社”として知られるようになったのかも、あまり明確ではないのだが。公式の説明も後付けっぽいし。
『お座敷小唄』の歌詞じゃないけど、花街の近くにあったから、縁切りを願う参拝客がかねてより多かったのだろう。
トイレを借りに、社務所の隣の金比羅会館に入ったら、玄関の上に「清明」の額が掲げられていた。
戦前の内閣総理大臣・近衛文麿の書だそうだ。外の手水鉢にこの字が刻まれている。
そしていよいよ、「縁切り縁結び碑(いし)」へ。
願い事の書かれた「形代」(かたしろ)という紙が、表面を埋め尽くしている。
モンスターズ・インクのサリーみたいだ。
行列ができていて、祈願できるまで少し時間がかかりそう。
平日だけど昼の12時台。人が多くて当然か。
しかもここでは祈願の際、碑にある穴をくぐるので、1人あたりの所要時間がやや長い。
よほど混むことがあるのか、
「碑をくぐらず、形代をお貼り頂くだけでも差し支えございません」という貼り紙が、境内の随所にあった。
京都市観光協会 京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本) 京都市交通局
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※これ以前の「日本縦断ゲーセン紀行」はこちら。
・第236回 悪縁を切り良縁を結ぶ(京都河原町、祇園四条、醍醐→椥辻)
・第235回 六地蔵で祈る(六地蔵→醍醐)
・第234回以前
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