長久手の戦い <173日目 徳川家と豊田家のターニングポイント(3)> | ゲイムマンの日本縦断紀行

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を公開中。

ゲイムマンの日本縦断紀行-古戦場公園(173-07)
引き続き、古戦場公園。

ゲイムマンの日本縦断紀行-長久手市郷土資料室(173-09)
長久手市郷土資料室で、小牧・長久手の戦いについて調べてみよう。

1階に喫茶店が併設され、年配の方々が歓談されている。
テレビで時代劇をやっているようだ。暴れん坊将軍だった。
私は展示室の方で、暴れん坊将軍の先祖・徳川家康が活躍した、長久手の戦いをまとめた解説展示を見る。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を、さらに織田信孝を破った羽柴秀吉に対し、危機感を抱いた織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に対抗。
1584年(天正12年)、家康が出陣した頃に、秀吉と組んだ池田恒興が犬山城を占拠した。
家康は小牧山城に入り、秀吉は楽田に布陣し、こう着状態になる。

事態打開のため、秀吉軍の別働隊が、家康の本拠・岡崎を奇襲しようとする。(従来は池田恒興の策とされたが、近年では秀吉自身の発案とする説も有力)
先陣を切った恒興と森長可は、長久手の先、今の日進市にある岩崎城を攻める。(城代の丹羽氏重の挑発に乗ったと伝えられるが、異説もある)

恒興は丹羽氏重と加藤忠景を討ち取り、岩崎城を落とすが、別働隊の動きをいち早く察知していた徳川家康が、既に自ら小牧山城から出陣しており、恒興・長可らの岩崎城攻略の間に、家康隊が追いつくこととなった。

別働隊の大将は、三好信吉(羽柴秀次)が務めており、今の尾張旭市にある白山林(はくさんりん)にいたが、家康配下の部隊に奇襲されて三好隊は壊滅。
信吉は木下勘解由利匡や木下祐久に救われて脱出するが、その木下兄弟は討ち死にした。

別働隊の一隊を率いていた堀秀政は、桧ヶ根に陣取り、信吉隊を破って勢いに乗る、家康軍の部隊を食い止めた。
しかし、色金山から戦況を見ていた家康自身が、香流(かなれ)川を渡って、現在では御旗山とよばれる場所に布陣。
家康の本隊が来たことに気づいた秀政は、勝ち目がないと見て撤退した。

御旗山よりもはるかに先の岩崎城にいた池田恒興・森長可は、ここでようやく家康の出陣と、信吉隊の敗戦を知らされる。
あわてて引き返し、御旗山の南の仏ヶ根で、家康隊との戦いになる。

初めは両軍ほぼ互角だったが、井伊直政隊の銃弾に当たって森長可が戦死。
これで家康優勢となり、恒興の嫡男・之助(元助)が安藤直次に討たれ、そして恒興自身も長田伝八郎(永井直勝)に討たれた。

長久手の戦いの半年後、領地の伊勢が攻撃を受けていた織田信雄が、秀吉の提案した和睦に応じ、一連の戦いは終結した。
家康は秀吉に臣従したものの、実質的に戦いに勝利したことで影響力を強め、後の幕府樹立につながっていく。

長久手市郷土資料室のサイトはこちら


※これ以前の「日本縦断ゲーセン紀行」はこちらへ。
第173回 徳川家と豊田家のターニングポイント(長久手古戦場→芸大通→藤が丘→一社)
第172回 3度目の東山、そしてさらに東へ(東山公園→藤が丘→杁ヶ池公園)
第171回以前