レコード芸術1974年6月号 2 | geezenstacの森

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レコード芸術

1974年6月号

2

 特集の「ライブレコード、考古学、考現学」です。今だからいえますが、この企画以前取り上げている中川右介氏の「巨匠たちのラストコンサート」とほぼ同じ構成です。ライブレコーディングは多分に現役音楽家の最後のコンサートを捉えている物が多く、要するに中川氏の本はこの特集をもとにしてインスパイアされた物であったと言えるのではないでしょうか。最初に西村弘治氏による指揮者ごとのレコーディング気質が語られていますが、これがなかなか面白いものになっています。ただ話がバイロイと音楽祭でのワーグナーの解釈に視点がいってしまっているので話がそれ中心になり、カイルベルトやクナッパーツブッシュは褒めるけれどもヨッフムはけなす。ベームは時代に合わせた変化した職人指揮者と断んじています。唯一オペラと関係しないところで、カラヤンとチェリビダッケを表と裏と表記して対決させたり、ムラヴィンスキーとテルミカーノフを変に敵対させています。また、当時のレニングラードフィルが2つもあるという摩訶不思議な記事になっているのも時代を感じさせます。ただ、この時代にチェリビダッケを表舞台に引っ張り出しているのはさすがです。

 

 

 

 下の記事は、エポックメイキングとなった歴史的ライブ録音を取り上げています。最初は作曲家諸井誠氏の終戦に伴う覚書とその記憶の中のヒットラーの死に絡むフルトヴェングラーのベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調が取り上げられています。ただ、これが歴史的事実かどうかはこの記事では検証できていません。

 

 

 

 ワルターのマーラーはウィーンフィルとの演奏が取り上げられていますが、これとてナチスドイツの嫌がらせがまっていました。マーラーに私淑していたワルターはオーストリアに帰化までしていましたが、常任を務めていたゲヴァントハウスをを追われベルリンおも追われ、最後の砦はウィーンのみになっています。そのウィーンでの最終となるマーラーの第九にまつわるエピソードをこれ以上うってつけのひちはいないという宇野功芳氏がエピソードを綴っています。

 

 

 

 バックハウスのラスト・コンサートの顛末がここで書かれています。1969年6月26日および28日、ケルンテンの夏音楽祭の前身となる、オーストリアのケルンテン州オシアッハにある修道院教会(シュティフト)の再建記念コンサートに迎えられました。26日のコンサートは無事終了しましたが、28日のコンサートで、ベートーヴェンのピアノソナタ第18番の第3楽章を弾いている途中心臓発作を起こし、一旦控室に戻ります。医師団に「これ以上演奏を続けては良くない」と勧告されますが、彼はその忠告を退け、後半のプログラムを一部変更して何とかコンサートを終了させます。演奏を終えたバックハウスは直ちに病院に搬送されたが、弱りきった心臓はついに回復せず、7日後の7月5日にフィラッハで死去しました。彼が最後に弾いた曲はフランツ・シューベルトの即興曲 作品142-2であった。なお、この両日のコンサートの模様は、『バックハウス:最後の演奏会』(Wilhelm Backhaus: Sein Letztes Konzert) として、音源が発売されました。そうそう、このコンサートで使われたピアノはベーゼンドルファーでスタインウェイとは違うどっしりとした響きを聴くことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 クラシックを聴き始めた頃、ホロヴィッツは過去の人だと思っていたのでこんなレコーディングが出てくるとは信じられませんでした。ここではこの録音に至る顛末が書かれています。ここで書かれているのは1966年の4月17日のコンサートのことです。ホロヴィッツはこの後11月27日、12月10日にもリサイタルを開催しています。現在はそれらがまとめて音源として発売されているようですが、ここだはその最初の4月のリサイタルの模様が活写されています。一応文章は黒田恭一氏が書いていますが、実際は以前発売された時のライナーに基づく一文で、CBSのプロデューサーだったトマス・フロストが生々しい当時の様子を証言しています。

 

 

 

 

 

 1987年3月87歳で亡くなったジェラルド・ムーアが行った、1967年の引退記念コンサートです。ロイヤル・フェスティヴァル・ホールで行われたこのコンサートにはシュワルツコップ、ロス・アンヘレス、フィッシャー=ディースカウといった当代を代表する大歌手が一同に会しました。歌手を巧みにサポートするピアニストとして、リート演奏史を支え続けた名手が、この日ばかりは主役となり彼の業績が名手の歌で語られます。

 

 

 

 

 

 

 この後、当時の若手のプロデューサーによるレコード芸術論が展開されますが、それは次回!!