ノイマンのスラヴ舞曲集 | geezenstacの森

geezenstacの森

音楽に映画たまに美術、そして読書三昧のブログです

ノイマンのスラヴ舞曲集

 

曲目/

A面

1.スラヴ舞曲集 作品46 第1番 ハ長調 (フリアント)

2.スラヴ舞曲集 作品46 第2番 ホ短調 (ドゥムカ)

3.スラヴ舞曲集 作品46 第3番 変イ長調 (ポルカ)

4.スラヴ舞曲集 作品46 第4番 ヘ長調 (ソウセツカー)

5.スラヴ舞曲集 作品46 第5番 イ長調 (スコチナー)

6.スラヴ舞曲集 作品46 第6番 ニ長調 (ソウセツカー)

7.スラヴ舞曲集 作品46 第7番 ハ短調 (スコチナー)

8.スラヴ舞曲集 作品46 第8番 ト短調 (フリアント)

B面

1.スラヴ舞曲集 作品72 第9番 ロ長調 (オズメック)

2.スラヴ舞曲集 作品72 第10番 ホ短調 (ドゥムカ)

3.スラヴ舞曲集 作品72 第11番 ヘ長調 (スコチナー)

4.スラヴ舞曲集 作品72 第12番 変ニ長調 (ドゥムカ)

5.スラヴ舞曲集 作品72 第13番 変ロ短調 (シュパツィールカ)

6.スラヴ舞曲集 作品72 第14番 変ロ長調 (ポロネーズ)

7.スラヴ舞曲集 作品72 第15番 ハ長調 (コロ)

8.スラヴ舞曲集 作品72 第16番 変イ長調 (ソウセツカー)

 

指揮/ヴァーツラフ・ノイマン

演奏/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

 

録音/1972

キングレコード SLC8096(テレフンケン)

 

 

 TELEFUNKENというレコード会社を知っている人は余程の年代の人でしょう。今でもあるのですが、レーベル名が変わっています。もともとテレフンケンはテレフンケンはレーベル名で会社名は1950年にテレフンケン社と英デッカ・レコード社の共同出資により設立されています。この際の会社名はテルデックでした。1983年、今はレーベル名もテルデックになっていますが、これはデッカはポリグラムグループへ、テレフンケンが撤退するまでは活動し、テルデックのまま1987年にワーナーに売却されそのまま休眠状態になります。これは、ドイツの雄DGGに真っ向から勝負を挑んでいた頃の録音です。

 

この当時はブルーラベルのテレフンケン

 

 ノイマンはゲヴァントハウス管弦楽団とも数曲、また1985年には日本コロムビアにデジタル録音を、さらには1993年にはエクストンにも録音しています。曲の解釈はどれもほとんどテンポの違いはありません。新しい録音ほど老練になっているような気がしますが、その違いはほとんどありません。3つのレーベルにそれぞれ録音を残すなんて、よほどこの曲集を愛していたんでしょうなぁ。その中で、この最初の録音ほどチェコフィルのアンサンブルは整っていますし、そのチェコフィルの体臭を感じ取ることができます。手元にはセルやクーベリック盤もあるのですが、今回このノイマンの演奏を聴いてこの演奏が一番しっくりとしました。

 

 ドヴォルザークのスラヴ舞曲集は、それぞれ8曲からなる作品46と作品72の2つの曲集をまとめたものです。1878年出版の第1集は、ブラームスのハンガリー舞曲の大ヒットで気を良くしたベルリンの出版社ジムロックの依頼で書かれ、その8年後に続編となる第2集が作曲されました。もともとはピアノ連弾用の作品ですが、後に作曲家自身がオーケストラ用に編曲しました。

内容はバラエティに富んだものです。タテノリのビートが躍動する陽気な曲もあれば、ヘミオラ(三拍子なのに二拍の音楽に聴こえる)が多用されるなど特徴的なダンス・ステップをもった曲、ゆったりと優雅な佇まいをたたえた曲など、まさに多種多様。それだけでなく、一つの曲の中でも、緩急や楽想の明暗はめまぐるしく交錯します。そして、さすがは稀代のメロディ・メーカーの作品、心の琴線に触れる旋律がここかしこに散りばめられてもいる。

 

 そららの旋律はすべてドヴォルザークの完全オリジナルですが、彼の母国であるチェコ(とボヘミア地方)を中心に、スラヴ語圏各国の伝統的な舞曲のスタイルに則って書かれています。

そのベースとなったダンスの多くは作曲当時チェコで広く愛され、ドヴォルザークも親しんでいたはずのものです。例えば、フリアント(第1, 8番)、ドゥムカ(第2, 12番)、ポルカ(第3番)、ソウセツカー(第4, 6, 16番)、スコチナー(第5, 7, 11番)、スパチールカ(第13番)などのチェコまたはボヘミアの舞曲が相当します。

これらのダンスは現代も生き残っていて、動画サイトで検索すれば実際のダンス風景を見ることができます。小編成のバンドが演奏する素朴な音楽に乗って、民族衣装を着た男女が手をとりあって独特のステップを踏みますが、女性たちがスカートの裾をフワリと翻しながらクルクル回る姿が微笑ましい。

 

録音時のセッション風景

 

 注目すべきは、第1集の大成功を受けて編まれた第2集で、スロヴァキア、ポーランド、ユーゴスラヴィア起源の舞曲が書かれていることです。チェコの舞曲を集めて書かれた第1集よりも、もっと視野の広いものを作る意図があったのかもしれません。

それらの曲のリズム・パターンや音遣いには、確かにチェコのダンスとは趣が異なるものがありますが、ドヴォルザークは行ったこともない異国の、踏んだこともないステップを持つ舞曲を書くとき、まさしく「自分で誰かの靴を履いてみた」のでしょう。

例えば、この曲集の中でも最も有名な第10番作品72 – 2。三拍子のリズムに乗って、哀愁に満ちた旋律が切々と歌われるこの曲は、チェコの民族色豊かな音楽として受け止めがちですが、実はポーランド起源のマズルカのスタイルで書かれています。

 

 マズルカというダンスは、ドヴォルザークにとって異国由来のものであるがゆえに、「誰かの靴」だったはずです。彼は想像力を働かせて異郷の「誰か」の立場に立ち、その人たちが日々をどんなふうに生き、何を感じているのかに思いを馳せたことでしょう。その上で、自身の内側から湧き上がる旋律を生み出したはずです。

 

 聴き手の感傷を刺激せずにはおかない名旋律と、それを包み込む柔らかなハーモニー、憂いを内に秘めて踊る人たちのステップを思わせるリズム、それらの要素の中に作曲家の、自らのアイデンティティとは異質な背景を持つ文化と、そこで生きる人々への優しいまなざしと限りない共感を、はっきりと見いだすことができるからです。

 

 同様のことは、第9番のオドセメック(スロヴァキア)、第14番のポロネーズ(ポーランド)、第15番のコロ(ユーゴスラヴィア)でも言えるでしょう。あるいは、もともとウクライナの舞曲だったドゥムカをそこに加えても良いのかもしれません。

これらの曲をつなぐ「共感」というキーワードを意識してみると、その他のチェコ(ボヘミア)の踊りによる舞曲のあらゆる音符にも、やはり作曲家の自国の文化と同郷人たちへの溢れんばかりの「共感」が、生き生きと脈打っていることに気づきます。

だからこそ、このスラヴ舞曲集はダンスの伴奏音楽である以上に、聴く者の心を動かさずにはおかないエモーショナルな音楽として聴くこともできるのでしょう。そう考えれば、この曲集がもはやヨーロッパの一地方の音楽ではありきれず、世界中の人たちから愛され、ダンスを目的としない場でも好んで演奏され聴かれていることの説明も容易につきます。

 

 彼らは慣れ親しんだ音楽をアンコールピース的に軽く流すのではなく、まるで交響曲の楽章に取り組むかのごとく、生真面目に演奏しています。ゆとりあるインテンポの中で、楽譜の一点一画をも揺るがせにせず、楷書的な表現をすることに専心していて、音楽の外見は堅固で安定したものになっています。

 

 そのあたりは職人気質の名指揮者ノイマンの面目躍如たるところですが、旧録音に比べて細部の解釈も演奏時間もほとんど同じであることに驚きます。彼には音楽に対する明確なイメージがあり、それを精度高く再現する卓越した技術を持ち合わせていたということなのでしょう。

 

だからと言って、厳格一辺倒の堅苦しい演奏だという訳ではありません。録音から35年を経た今の感覚からすれば音色も表現も概して地味ですが、淡い色彩の変化の中に豊かなニュアンスが息づいているのが聴きとれるはずです。その精巧な手作りの民芸品を手にしたときのような感触は、いつまでも愛でていたいほどにしっくりと耳に馴染みます。

 

 さらに、細かいところにあまり拘泥せず、柔らかい音楽が悠然と流れるに任せる運びには巨匠の風格があって、スケール感もあります。特に第2集後半の滋味深い演奏は傾聴に値しますし、テンポの早い曲でもオーケストラから充実した響きを引き出しているのも好ましいですなぁ。

 

 もうそれだけでも十分に魅力的な名演と言えますが、小生がノイマンとチェコ・フィルの演奏で最も惹かれるのは、小生という聴き手を決して拒まないあたたかさと包容力です。

元来、遠い過去に異国で生きた他人が作曲し、他人が演奏した記録を聴くのは、隅から隅まで他者で埋め尽くされた行為です。過去のある時点で鳴り響いた音楽の生成に小生が関われる余地は、もはやまったくありません。小生の目の前で響いている音楽は、どうあがいても「他人の靴」でしかないのです。それも、どうしても履いてみたくなるほどに魅力的なものです。

 

 しかし、小生は音楽家でも音楽の専門家でもないので、その靴をうまく履きこなす技術を持ち合わせていません。とにかく履いてみたとしても、それが果たして自分の足に合っているのか、合っていないならどうすれば良いのかすら、よく分かりません。

例えば同曲異演盤を聴き漁ったり、いろいろな情報にアクセスしたり、楽譜を見たり、時には実際に音にしたりして体験を広げてみても、結局のところ、自分の知識や経験だけでは読み解けない何ものかにぶち当たって、その靴を履いているという実感を得るところまでいかないのです。結局、小生は他人の靴を、ただぼんやりと外側から眺めているだけかもしれないと思ったりもします。

 

 その点、このノイマンとチェコ・フィルの演奏するドヴォルザークのスラヴ舞曲を聴いていて、そのような疎外感や無力感にさいなまれる瞬間はまったくありません。一介の聴き手に過ぎないはずの小生が、踊りの輪に加えてもらったかのようなあたたかい感覚を味わうことができるのです。もっとも、実際にはダンスのステップも知りませんし、ダンスなど中学の頃にやったフォークダンス以来無縁なので、踊れるはずもないのですが…。

 

 なぜそんな演奏が可能なのだろうかと考えてみるに、この演奏者たちが「他人の靴を履いている」という意識を持って、音楽に向き合っているからなのだろうと思います。

 

 彼らは作曲家という「他者」の内面に創造力を働かせ、共感と敬意を捧げながらスラヴ舞曲を奏でていたのでしょう。それによって、ドヴォルザークが音楽に込めた人間への限りない「共感」が増幅されて小生に伝わってきます。「共感」のバイブレーションは小生の中でさらに共鳴し、小生を音楽の真っ只中へと巻き込んでいく。その渦の中で小生は「誰か」と繋がっているのだというあたたかな実感に包まれます。