京都旅 2019 その6 四条通近辺をぶらり散策



泊まったホテルが四条西洞院近くだったので2日目は四条通沿いをぶらぶら散策です。ホテルの西側に「亀屋良長」の本店がありました。ここの店舗脇には銘水の「醒ヶ井の水」が今でも湧き出しています。この水は汲んで持ち帰ることができます。

風情のある通りで、居酒屋の「豊よ」は長持が目を引きます。

綺麗な椿が咲いていました。


堀川高校のすぐ北側にある「空也堂極楽院」です。



空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する、天台宗の寺です。ちょうど住職が出かけるところで御朱印はいただけませんでした。

このご近所で見かけたフリルの入ったピンクのシクラメン。

朝食をとった「Holly's Cafe」の方に戻り、四条通の南側に渡り、「膏薬辻子(こうやくのずし)」という路地の中へ入ります。うっかりすると見過ごしてしまいますが、ここに1京都の「神田明神」があります。


間口はこんなものですが、京都「神田明神」は関東で討ち取られた平将門の首が晒されたと伝えられる場所なのですが、その後は何かと凶事が続き「市の聖」と呼ばれ市民の崇敬を集めた空也上人が、将門の首が晒された場所にお堂を設け手厚く供養をしたと伝わります。
神田明神」は注連縄が張られ、通常昼でもガラス越しに外から参拝するというスタイル。平将門の首は関東を目指し舞い戻ったという伝説から「無事帰る」ご利益があるとされ、写真では見切れていますか左端の軒先にちょこんとカエルの置物があるのがご愛嬌です。

膏薬辻子」は四条通から南に入ったあと、途中2回かぎ型に曲がり綾小路通まで続きます。幅は約2メートル、長さは150メートルほど。とても風情のあるこの路地にはホテルや喫茶店、洋服生地の着物などを扱う店舗等いくつかの商業施設が点在しますが、基本的には職住一体のエリアです。

この南に折れる角に竹中木版が運営する「竹笹堂」があります。ブックカバーや封筒、カードなど紙小物のほか、風呂敷、がま口などの布製雑貨などが販売され、京都の風情を感じることができます。この通りを南に抜けたところに重要文化財にも指定され京都市内でも最大規模の町家とされる「杉本家住宅」があります。



杉本家は祇園祭の時期には屏風祭りの会場の1つになる他、綾小路に面する南側の表の間が、山鉾の1つ伯牙山(前祭で登場)のご神体や装飾品が公開されるお飾り所となるそうです。ただ、月曜日は定休日で残念ながら中に入ることはできませんでした。

杉本家から1ブロック南の仏光寺通りに下って少し東に行くと、「与謝野蕪村邸宅跡」があります。歩いていると、ちょうど写真を撮ろうとした時に、上の軽が路駐をしてしまいました。

誠に無粋なものです。蕪村は居を転々としていますが、最終的にここで亡くなっています。与謝蕪村は江戸中期の18世紀に活躍した俳人で、江戸俳諧中興の祖とよばれる巨匠です。
与謝蕪村が27歳のとき俳諧の師匠・早野巴人が死去。これ機に与謝蕪村は江戸を離れ、松尾芭蕉への憧れから「奥の細道」の足跡をたどる旅に出ます(この旅の手記『歳旦帳』をまとめた際に初めて『与謝蕪村』の俳号を用いています)。
関東・東北を10年近く旅した与謝蕪村は、36歳のころ京都・知恩院の近くで暮らし始めますが、わずか3年ほどで丹後宮津の見性寺へと移り、画の勉強を本格的に始めます。42歳で再び京都に戻ってきた与謝蕪村は姓を「谷口」から「与謝」と改め、その3年後には結婚して娘を一人もうけます。与謝蕪村は句を教えたり、絵を描いたりして生計を立てていたそうです。その後、京都の町を何度か転居したあと“終の棲家”となるこの土地に引っ越してきたのは59歳の時です。奥さんのともさんが見つけてきたこの閑静な住宅を気に入った与謝蕪村は、1783(天明3)年12月25日未明、ここで68歳の生涯を閉じています。

烏丸通に出て南下すると左手に「因幡薬師」が見えてきます。

京の街中にある、身近なお寺さんの一つで、「因幡薬師」とか「因幡堂」と呼ばれていますが正式には福聚山平等寺といい、真言宗のお寺です。ご本尊は因幡薬師如来で、「日本三如来」の一つと呼ばれています。平安時代のお話ですが、元々は因幡(今の鳥取県)の海の中から見つかった如来様と言われます。ところがその時代に因幡の国司だった橘行平が国司の役を終えて京の都に帰った所、如来様も行平の元に飛んで来たため、行平の居宅があったこの地に安置したのがお寺の起源とのことです。烏丸高辻の路地を入った所にあるお寺で敷地は狭いのですが、敷地いっばいに巨大な本堂が建っています。


このお地蔵さんを自分の直したい部位と同じところをさすると快癒するそうです。右は江戸時代の鬼瓦だそうです。
