松尾敏男展 | geezenstacの森

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松 尾 敏 男 展

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 先の「院展」に続いて松坂屋美術館で開催されている「松尾敏男展」に出かけてきました。上の写真は衆議院に収蔵されている「翠苑」というカキツバタを描いた作品です。

  長崎県出身で文化勲章を受章、2016年8月に90歳で逝去した松尾氏。この展示会では松尾敏男氏の生涯を4期に分けて紹介していました。

第1章 新しい日本画を志して
 17歳のときに堅山南風に弟子入りした松尾氏は、本格的な日本画の手ほどきを受けたのち、従来の日本画を否定することを念頭に、挑戦的ともいえる作品を数多く生み出しました。
 その取り組みの一つが、魚の骨や廃船といったおよそ日本画のモチーフにはなりえないものを取り上げたことです。さらに、洋画のような力強い絵肌を求めて、壁のような厚塗り表現を追求しました。しかし、堅山南風が委嘱された日光東照宮内本地堂の天井画「鳴龍」復元に助手として加わった際、改めて師の運筆にふれたのをきっかけに、絵は「塗る」のではなく「描く」ことだと認識をあらたにします。その成果として、《廃船》で日本美術院賞・大観賞を初受賞、その後も《鳥碑》、《樹海》と三度大観賞を獲得しました。

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《鳥碑》

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<<火口湖>>

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<<樹海>>

第2章 内省的な絵画から写実重視の絵画へ
 日本美術院同人となった松尾は、新しいモチーフを求めて海外での取材を開始します。また肖像画にも取り組むようになり、一定の手ごたえを感じたことでこれ以降自身が興味をもった人物を次々と描いていきました。松尾の代名詞ともいえる「牡丹」が繰り返し描かれるようになるのもこの時期です。そしてそれらの作品からは、写生重視への転換が見て取れます。

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<<堅山南風>>

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<<雨余>>

第3章 現代における日本画の可能性を信じて
 数々の作品が高く評価された松尾は、最も期待される中堅画家として日本美術院を牽引する存在となり、後進の画家たちの育成にも努めるようになります。60代を迎えてもその制作意欲が衰えることはなく、毎年のように海外へと向かい新たなテーマを模索しました。
 そんななか1990年代には、伝統的な日本画を思わせる屏風作品を手がけるなど、伝統への回帰ともいえる動きをみせます。当時のインタビューには、「日本人の美意識」「日本人の宗教観」といった言葉が散見され、日本文化の独自性を強く意識していたことがうかがえます。

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<<夜思譜>>

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<<朝つゆ>>

第4章 画業の終着点
 晩年には長年の画業を称え、2000年に文化功労者、2012年には文化勲章を受賞しました。また2009年からは亡き平山郁夫の跡を継いで日本美術院理事長に就任し、名実ともに日本画壇の頂点に立ちます。しかし、そのような地位にあっても、花や動物などのモチーフに対してはあくまでも謙虚な態度で向き合うという制作理念はまったく変わることがありませんでした。そして、日本美術院にとって大きな区切りとなった再興第100回院展を見届けるかのように、松尾の長きにわたる画家人生は静かに幕を閉じました。

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<<長崎旅情>>

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<<朝光のトレド>>

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 自身最後の院展出品となった実質上の絶筆である《玄皎想》は、水墨の濃淡と余白の美を追求した傑作です。水墨画への志向を強めていた最晩年に、松尾は日本画の源流に立ち戻るように本作を生み出しました。

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 さて、展示の最後に化粧回しが陳列されていました。何かと確認すると2013年10月の東京足立区の西新井大師で行われた土俵入りの際、白鵬の露払いを務めた元関脇豊ノ島や太刀持ちの元小結時天空がそれぞれ化粧まわしを付けて記念撮影したバナーが飾られ、それとともに、その実物の「白牡丹」と「赤牡丹」と「日に霞」の化粧回しが披露されていました。小学生の時から相撲が好きだった松尾氏は、元横綱栃錦(春日野親方)と親交があった縁で、栃東や白鵬の化粧まわしの原画を制作したんですね。

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 また、歌舞伎座の緞帳の原画も手がけていて、歌舞伎座の一番目の緞帳、「朝光富士(ちょうこうふじ)」が松尾氏の手によるものだそうです。

 この展覧会、点数的には60点ほどですが、作者の作風の変遷を知ることができてなかなか興味深いものがありました。