広重・栄泉 木曽街道六十九次の旅〜雨・雪・月光・夜霧のシルエット〜

UFJ貨幣資料館で開催中の「広重・栄泉 木曽街道六十九次の旅〜雨・雪・月光・夜霧のシルエット〜」を鑑賞してきました。江戸時代も後期になると人々は神社仏閣への参拝を目的とした旅行がブームとなっていました。それに拍車を掛けたのが十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でしょう。享和2年(1802)から文化6年(1809)にかけて出版(初編から八編)された滑稽本です。これに便乗するような形で美人画や役者絵が中心だった浮世絵に、「保永堂版東海道五十三次」の風景画が1933-34年にかけて出版されます。これと平行して葛飾北斎の「富嶽三十六景」も初版は1823年(文政6年)頃より作成が始まり、1831年(天保2年)頃から1835年(同4年)頃にかけて刊行されています。
この北斎・広重の手になるこの二作の風景画に次いで、当時二大幹線路であった中山道(木曽街道)69次を浮世絵(錦絵)として売りだそうと、浮世絵の版元保永堂(竹内孫八)は企画し制作をもくろんだのがこのシリーズです。保永堂はその絵師として当時評判を得ていた広重を起用せず、美人画で評判の渓斎英泉に作画を依頼し天保6年(1835)から総数71点の「木曽街道六十九次」の出版をはじめます。しかしながら英泉は2年余りでこの大作の制作から手を引くこととなり、24宿を描き絵筆を置いてしまいます。
この英泉の退任の背景には、版元保永堂の意図するところと作者英泉の意図するところの確執があったと考えられていますが、英泉の風景画の世界のなかに、先に発表されていた「東海道五十三次」で広重が表現した旅情豊かで日本人の心をくすぐる様な表現が若干不足していたことと、東海道と中山道という街道の持つィメージによる庶民層の反応の違いがあったためではないかと考えられています。
このシリーズを途中で中断することもできない保永堂は、急遮時の人、広重に頼み、版元にも錦樹堂(伊勢屋利兵衛)を加え制作を再開。後に保永堂は版権を完全に錦樹堂に譲って退き、当初の予定とすっかりかわった広重・錦樹堂という組合せで、これを完成させることとなります。いずれにしても、当時を代表する浮世絵師広重・英泉によって完成された「木曽街道六十丸次」(全71枚揃物)は、北斎の「富嶽三十六景」、広重の「東海道五十三次」とあわせ三大風景画といわれるほど高い評価を得ています。
旅の最初は「日本橋」です。ここから武蔵の国内の10枚は渓斎英泉の作品が並びます。

日本橋
広重の南から北を描き富士山を入れるのに対して、栄泉は北から南を描いています。それも、雪の日本橋です。英泉が上流(西)から下流(東)の江戸橋方向を遠望するのは、題名「雪之曙」を表現するためで、『江戸名所図会』には「この橋を日本橋といふは、旭日(あさひ)東海を出づるを、親しく見るゆゑにしか号(なづ)くるといえり」とある命名由来に素直に従ったものと考えられます。なお、雪晴の景色は、新春への希望とシリーズの出発とを掛けたもので、また、朝日の紅色は、雪の白色と相まって紅白のおめでたい雰囲気を醸し出しています。ここに掲載したのは後刷りで、初版は中央の傘に「霊巌島」、「竹内」の文字が刷られています。これは保永堂(竹内孫八)を表していて、ここでは発行を引き継いだ「池仲」「伊勢利」に変えられています。

深谷之駅
こちらは9宿目の「深谷」です。繁盛していた深谷には、飯盛り女が多かったようで、ここでは栄泉の本領発揮とでもいうべき美人画になっています。ここは、秩父の入口・寄居への追分に当たり、利根川舟運の中瀬河岸を控え、また旅籠が80軒(本陣1軒、脇本陣4軒)もあって江戸を出発した旅人の2日目の宿泊地として栄えるなど、商業的に発展した現状を英泉はよく知っていたからです。その彼女たちのご出勤風景を前景にして、航法は黒でぼかしています。そして、この置屋の行灯文字は版元の「竹内」となっています。ちゃんと遊び心も取り入れています。
今回の展示では「木曽街道六十九次」が上下2段組で、全幅が一挙展示されています。これは見応えがあります。

木曾海道六拾九次之内 板鼻
この一枚は不思議な作品です。タイトルが広重風の付け方なのですが、英泉の落款がありません。版元が保永堂から錦樹堂に切り替わる過渡期の作品群なんでしょうか。暫くこういう作品が続きます。松の木に降り積もる雪の描写は北斎風の描き方です。

18木曾海道六拾九次之内 軽井沢
18番目の宿「軽井沢」です。この絵は広重が書いていますが、軽井沢の横には「竹内」印が、そして広重の書名の落款は「東海道」となっています。そして、馬の荷の横には「いせり」と書いた小田原提灯がぶら下げられています。まさに過渡期の作品という事が出来ます。保永堂は東海道五十三次で畳もう家をしましたが、次に広重を使う事はありませんでした。しかし、広重の方は自分の画力で成功したとの自負を持っていたようで、英泉からのバトンタッチに当り、東海道は俺がヒットさせたんだぞというプライドが落款に込められているような気がします。

29木曾海道 六拾九次之内 下諏訪
広重得意の旅籠の図です。奥の襖の図案は、版元・錦樹堂の山形の屋標に林の文字が描かれています。ここでの広重の斎号は「一粒斎」になっています。

33木曾海道 六拾九次之内 贄川(にえがわ)
こちらも旅籠の様子を描いています。札は、「板元いせ利」から彫師、刷り師などの名前がかかれていて、さらには「仙女香」のタイアップ広告まで描かれています。興味深いですなぁ。
いままでも、部分的にはこの木曽街道六十七次は見ていますが、さすが一気に鑑賞すると新しい発見ばかりです。
このように評価される浮世絵は、その原画を描く絵師の技量に左右されるものではありますが、絵師の絵を忠実に桜の版木に彫り上げる彫師(ほりし)と絵師の色指し(いろさし=色指定)に従い巧みに色を重ね、摺(す)り上げる摺帥(すりし)の腕前も忘れてはならないでしょう。広重はちゃんとそういう所にも気配りしてこのシリーズを引き継いでいるといえます。
この企画展、久々に見応えがありました。5月14日までの展示です。興味のある人は是非とも足を運んで下さい。そうそう、今回はこのシリーズで唯一2枚描かれている中津川のうち、雨の中津川の絵はがきを頂いてきました。
