「広重 六十余州名所図会〔後期〕~日本の風土が作り出す季節の装い~ | geezenstacの森

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 「広重 六十余州名所図会〔後期〕~日本の風土が作り出す季節の装い~

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 今月末で終了してしまう企画だったので慌てて行って来ました。UFJ貨幣資料館で開催の「「六十余州名所図会」の後期編です。前期分はこの春に開催されていましたが、場所が狭いので前記と後期に分けての公開となっていました。今回は後期の「山陰道」「山陽道」「南海道」「西海道」の諸国を描いた33点が展示されています。もっとも、この「六十余州名所図会」は復刻版画によるものです。作品としては、晩年の代表作「名所江戸百景」の発行と重複しています。このシリーズにおける近景の事物を極端に拡大し背景に小さく描く風景との対比を狙う構図の試みや、高度な摺りの技術などは、「名所江戸百景」の中で大成されていったと考えられます。

 広重は記録ではそんなに全国を歩いている訳ではないので、ほとんどの図を「山水奇観(さんすいきかん)」などの別の本から借用していることが、これまでの研究により分かっています。しかし広重は、原図をそのまま或いは切り取って自身の作品とするのではなく、原図とは異なる地点からの視点をもとに景観をとらえ直す手法などにより、縦長の画面に適合するように図柄の改変を行っています。絵師の目を持っていたんですなあ。そうはいっても、天橋立辺りを見ると実物はもっと変化に飛んでいるのにやや単調なイメージです。天橋立の図で有名なのが雪舟の作品ですが、この図と較べると広重の時代にはもう、現在のように橋立てがほぼ繋がっているのが分ります。雪舟は天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされていますが、この時代の橋立てはまだ砂州はあまり発達していない事が分ります。今回はこの「天橋立」の絵はがきを頂いてきました。

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      天橋立
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       雪舟の「天橋立」

 この作品の中でも屈指の一枚は、伯耆の国は大野の大山遠望でしょう。伯耆(ほうき)の国は現在の鳥取県の西部にあたり、その中央に座す大山(だいせん)は、古来から信仰の霊場としてとして崇められ、出雲富士または伯耆富士とも呼ばれていました。広重お得意の雨の図ですが、前景の農民たちの田植えの様子が生き生きと描かれています。

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     伯耆
  
 広重の表現力をまざまざと見せつけてくれるのは岡山の美作を描いた一枚です。美作(みまさか)国は現在の岡山県北東部にあたり、宮本武蔵が美作国宮本村の出身ということでご存じの方もいるでしょう。「山伏谷」と題されたこの一枚は所在は不明だということです。美作国久米郡大戸(現・美咲町)は弓削の東にあって、津山川の西に位置する山村です。さてこの近くの栗子に「ボウズ谷」という所があり、そこには一望を見渡すことが出来る断崖絶壁の切り立った岩があるようです。その下は吉井川(津山川)が激奔して景色が絶景で、かつては修験山伏の行場もあり、土地の古老の心証では「山伏谷」はこの辺ではなかろうか、ということです。それにしても、この強風の表現。広重は強い風を伴った横なぐりの雨を描き、笠は飛び、天地鳴動の瞬間をとらえています。きつい雨脚を太い条帛のような描写で行い今の漫画の世界と変わらない表現です。原点を見る思いがします。

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       美作

 続いて目を惹いたのは50番目の安芸です。ここでは厳島神社の祭礼の図が描かれています。多分「管絃祭」のことでしょう。このお祭りは旧暦6月17日に行なわれる海のまつりです。今年は7月24日ですね。広重の図柄では日中の行事のように見えますが、実際には夕方から夜にかけて行われる行事のようです。これも、前掲の「山水奇観」からとった描写ですが元の本には色が無いので着色は広重のアイデアでしょう。しかし、ここでも、現物を見ていないため真っ赤な鳥居が不思議な色で表現されています。


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        安芸

 続くは周防の錦帯橋です。岩国城と城下町のあいだを流れる錦川は、洪水のたびに橋が流されて渡れなくなり、1673年、三代目領主吉川広嘉が、中国の西湖に架かるアーチ橋を参考にして、橋脚のない橋を完成させましたが、翌年流されて、石垣を強固にすることにより昭和25年の台風で流されるまでの250年間、定期的に建て替え工事を行いながら守られてきたそうです。3つのアーチ橋と両岸の桁橋から構築されています。描かれた人の大きさから橋の規模が想像されます。山口方面はまだ一度も旅行したことが無いので是非一度訪れてみたいものです。

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       錦帯橋

 広重らしい構図が登場するのは53「紀伊 和哥之浦」でしょう。この構図で広重が登場させたのは鶴です。
「和歌の浦や入江のあしのしもの鶴かかる光にあわんとや見し」(新千載集・家隆)など鶴の歌が他にも多いこともあり、俯瞰の構図の中に鶴を描き込んでいます。さすが武士のでである広重です。学才があります。この図案には中央の霞が紫色をしたものと白色のものとがあるようです。前者はその背景の山が薄墨になり、後者は青色になっているということですが、今回展示されていたのは復刻版ということで青色でした。

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       紀伊

 「55. 阿波 鳴門の風波」、「58. 土佐 海上松魚釣」なども、北斎の筆遣いを参考に波をダイナミックに描いています。後者では舟を交互に並べて構図的な面白さも充分ですし、当時の鰹の一本刷りの様子まで細かく書き込んでいます。

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         阿波
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        土佐

 しかし、小生の注目は「59. 筑前 筥崎 海中の道」です。ここでは前掲書をたぐると同じ俯瞰の景色でも鹿島を逆の方向から描いていることが分ります。過去の資料は参考にはしても、広重の頭の中では立体的に逆のアングルから風景を捉えているのです。この鹿島は現在では志賀島と呼ばれているところです。そう、金印が発見されたところです。しかし、江戸時代では古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていたところとして、また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮があるところとして知られていたにすぎません。それにしてもこの構図、現在の天橋立にそっくりだとかんじるのは小生だけでしょうかね?

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      筑前

 九州で気に留めた構図は「64. 肥後 五ヶの庄」と「67. 薩摩 坊ノ浦 雙剣石」です。前者の五かの庄は、球磨川の上流の地の山谷深き九州第一の僻境といわれる所で、椎原・久連子・樅木・葉木・仁田尾の五村からなり、北は矢部、南は五木江代、東は椎葉、西は種山、皆険阻で名高い地に囲まれています。この図は、「北斎漫画」七編の「肥後五ケの庄」から借用した図であることは知られていますが、その北斎も九州の地は訪れていませんからさらに元ネタがあったのでしょう。復刻版では中央の木こりの黄色があまり目立ちませんが、国会図書館の原書ではこの黄色が映えています。後者は調べると、地元の南薩摩市のHPで確認してもあまり観光資産としてはPRしていないようですが、現在でも「雙剣石」は存在します。ただ、図中に「坊岬秋月洞」と書かれているのですが、秋月洞というのは現在の地名には残されていないようです。地震で崩れたのでしょうかね?

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      肥後
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      薩摩

 この「六十余州名所図会」は「対馬 海岸 夕晴」で終わります。夕立の後の虹が掛かり、大空には高く高く舞い上がった三羽の鳥が紺碧の空を自由に飛翔しており、遠くには対岸の朝鮮半島が描かれています。湊の賑わいは江戸時代は唯一、大陸との国交があったことを裏付ける姿が描かれています。元絵があるにしろ広重の役人としての博識をここでも感じさせます。

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      対馬

 この「六十余州名所図会」は、彫師と摺師の名前が刻印されているのも特徴で、それは、画の中に取り入れられていたり、枠外に記載されていたりと区々ですが、彫師「彫竹」、摺師「越平」の名が確認出来ます。絵師に較べてあまり注目されませんが、こういう所にスポットを当てての鑑賞もまた一興です。この展示会は今月26日まで開催されています。

参考 国立国会図書館デジタル化資料 「六十余州名所図会」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302389?tocOpened=1
国立国会図書館デジタル化資料 「山水奇観拾遺」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287068?tocOpened=1