桑名 七里の渡し | geezenstacの森

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 桑名へ行く機会があったので七里の渡しへ行ってみました。東海道、熱田を出た渡し船は桑名に到着しました。佐屋からもこの桑名に着きます。慶長6年(1601)には城主本多忠勝 が就封すると、城下町の町割りを始め、城普請のため堀を設けたりして、都市計画を決行しているから、この時この渡しも従前どおり、船場として定められ、東海道五十三次の宿場として、桑名宿御朱印が下げ渡されています。

 後年、木曽川上流の「佐屋の渡し」が脇街道として許され、熱田から陸路佐屋(6里)に出て、これより川船3里で桑名へ上れるようにもなりました。
船は乗合船で34人乗、40人乗、47人乗、53人乗などがあり、船賃は各年によって高下があったようです。

 一例を挙げると延享年間では、乗合1人前45文、筵1枚278文、荷物1荷45文、挾箱1荷46文、具足1荷45文、駕籠1挺139文、馬1匹278文といいます。また、佐屋への舟賃は乗合1人前19文であったと記録されています。

 船場の様子は、川に面して左に築き出た石垣があり、そこに川口御番所があり、前には制札を掲げた高札場、正面は船着場、その右方に船役所、この役所前には皇太神宮の一の鳥居が建って(天明年間創建)、番所には東に向かって出窓があり、軒先に頑丈な”常 灯”という灯台代りの照明が設けられていました。2枚目の写真の鳥居の脇に写っています。

 番所には定番、御水主(かこ)、警固の者が詰め、怪しき者、不届きな者は上陸させずに熱田または佐屋へ戻したといいます。この船場は一般用で、他に本陣用、廻米その他問屋場用のものなど4か所があったということで、かなり大きな規模を誇っていました。

 それは。旅籠屋数の最も多いのは宮(熱田)で、幕末頃には248軒あり、次いで多いのは桑名宿の120軒であったという事からも分ります。

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 「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」です。かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。

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 渡し場から続く東海道の道筋です。宿場には問屋場(人足と馬の手配をする事務所)と本陣(大名などが休泊する施設)と高札場(人足銭や禁令を書いた大きな立て札)の三つが必ず設けられていました。また本陣に準じる脇本陣や、一般の人達が利用する旅籠屋や茶店も多く軒を連ねていました。

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 渡し場の奥には、今もたくさんの船が係留されています。

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 渡しの直ぐ北には「住吉神社」があります。桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する自由活発な商業都市として発達してきました。住吉浦は、廻船の舟溜りで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。この人たちによって航海の安全を祈り、住吉神社(現大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立されました。

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 渡し場の南関東には公園が整備されています。