私が独裁者?モーツァルトこそ!―チェリビダッケ音楽語録 | geezenstacの森

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私が独裁者?モーツァルトこそ!―チェリビダッケ音楽語録

編集 シュテファン ピーンドル 、トーマス オットー
翻訳 喜多尾 道冬
発行 音楽之友社

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 フルトヴェングラー亡き後、ベルリン・フィルを追われ不遇の道を辿った名匠が、みずからの信念を貫き、築き上げた独自の音楽観を語る。音楽への厳しいまなざしは自分へ、そして同僚にも容赦なく向けられる。「音楽について」「指揮について」「フルトヴェングラーについて」「同僚について」「演奏について」「ソリストと歌手について」「作曲家について」「ブルックナーについて」「オーケストラについて」「聴衆について」「批評家について」「神と宗教について」「レコードについて」「自分自身について」等、含蓄に富んだ発言が盛りだくさん。---データベース---

 チェリビダッケは好きな指揮者の一人です。そんな彼の評論集の中にあって、この本は彼の発言を切り貼りして作った戯れ言をまとめた本といってもいいでしょう。マスコミへのインタビューに答えた文言を特徴的な的な部分だけ抜き書きしているので本質を理解する事は難しいのですが、それでも言葉の端々に彼の鋭い発言が突き刺さります。ただ、この本のタイトルはいただけません。原著のタイトルは「速記的な抱擁」であって、決してモーツァルトは登場しません。これがモーツァルト関連の本と勘違いしないようにしましょう。

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   シュテファン ピーンドル

 編集に携わったシュテファン ピーンドルは、1991年にソニー・クラシカルに入社し、その後EMIクラシックでセルジュ・チェリビダッケのエディションの発売に関わっています。1998年には今度はBMGクラシックス、そこがソニーに吸収されると2007年からは独立してCD関連のコンサルティング会社「Arion Arts」を設立し、2009年からはバイエルン放送協会が運営する レーベルBR Klassikの運営に携わっています。また、トーマス・オットーは旧東ドイツで音楽ジャーナリストとして活躍した人物で、クラシック端だけでなく、ジョー・コッカー、カルロス・サンタナ、ブルース・スプリングスティーンなどのインタビューも行なっています。

 この本読むにあたって付箋を用意したのですが、ほとんどのページに付箋がつくので途中で止めてしまいました。(^▽^)この本の中でチェリビダッケが発する含蓄のある言葉は枚挙にいとまがありません。一例を挙げると、

「音楽に接して長過ぎるとか、短すぎるとかといった感じを抱けば、その人は音楽の中に入っていない。音楽はその意味で長い短いの問題ではないる」
「音楽はあなたの心のなかの一度かぎりのものを掘り出してくれるーそれ以上に美しいものはない。」

 チェリビダッケの演奏が他の指揮者に比べて遅いというのは確かにあります。しかし、彼は別の処でこういう事も言っています。

「メトロノームの指示は92、92とはなにか。ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の92とは?ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団の92とは?ウィーン楽友協会での92とは?ばかばかしい!どんなコンサート・ホールも、どんな作品も、どんな楽章も、絶対的な固有のテンポをもっている。そして、その条件がテンポのありようー逸れ以外の何者でもない状況ーを再現するのだ。
「あなたがベルリンからロンドンにもって行ける絶対的なテンポというものはない。もし、ロンドンで残響が短ければ、テンポをちょっと速めなければならない。音がバラバラにならないよう、たがいにふれ合うように。逆に残響が長過ぎれば、音は重なり合い、濁ってしまう。」

 缶詰のレコード芸術ではなく、コンサート指揮者として生きたチェリビダッケならではの言葉でしょう。

「わたしはその人にどう演奏しなければならないかは教えてやれない。しかし、自分を超えるには、つまり物理的なデータの超え方なら、どうすればよいか教えてやれる。そうすれば彼は自分を超えられる。そして、自分を超えたと知った時に彼にチヤンスが訪れる。」

 まったく含蓄のある言葉です。

「ともあれ指揮者はとても音楽家とはいえない。しかし、音楽家でもあり得る。オーケストラで秩序を作り出し、楽器を合奏させ、だれもに自己主張をやりすぎさせず、ある種の音楽的機能を生み出すーだがそれではまだ音楽とはなっていない。音楽が成立し得る前提が整ったにすぎない。」

「わたしはなにもしない。わたしはただ楽員たちが彼ら自身の音楽性を表現出来るような条件を整えるだけだ。百人の楽員は百通りの様々な人間で、たった一つの楽譜に対して百の反応を示す。この反応が作曲家のイメージと共鳴しなければならない。指揮者はこのプロセスを作り出し、按配する。指揮者は作曲科の遺言執行人であり、作曲家のメチエ(その分野に特有の表現技法)を理解し、それを洞察しながら、逸脱を修正する。」

 さて、チェリビダッケはコンサートを指揮する事も若い音楽家を指導する事にも尽力した人です。しかし、若手指揮者にも痛烈な言葉を突きつけています。

「今日音楽はディスクから学ぶものらしい。ある若手指揮者は様々なファクターを認識するのに必要な、内的なテンポというものをもはやもっていない。彼はあれこれ名のある指揮者のディスクを聴いて、その中のどこに時分の位置を擬そうとする。」


 こういう言葉が、これでもかと並んでいます。まあ、批評ではチェリが同僚指揮者を評した痛烈な言葉をあげつらって非難していますが、これはこの本の中では枝葉の部分です。ところで、チェリビダッケは

「渡しはマーラーを指揮した事は一度もないし、今後もないだろう。マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。」

 そうは言ってもチェリビダッケのマーラーは存在します。ミュンヘンフィルを振った「亡き子をしのぶ歌」ですけどね。まあ、交響曲に限っては確かにありませんわな。この本でもブルックナーについては一章が割かれています。

「ふつうの人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だが、ブルックナーの次巻は終わったあとにはじまる。」彼のフィナーレはすべて神々しい。逸れは別の世界への希望、救済の希望、もう一度光をたっぷり浴びるよろこび、逸れは彼の音楽以外のどこにもない!」

 そんなチェリビダッケですが、何故か交響曲全集は完成させていません。残念な事です。チェリビダッケが禅の世界に興味をもっていた事はよく知られています。ブルックナーの世界はその仏教思想を具現化しているのでしょう。はじめに終わりがあるという思考は仏教の世界ですからね。

 とにかく、読んでいて色々な事に気づかされる本です。EMIが身売りをした時にこのチェリのボックスセットが投げ売りされた事があります。せっせと買いあさりましたが、この辺を読んでまたぞろそれらを聴いてみたくなりました。

 そうそう、原著はどういうカバーか知りませんが、日本語版は日本でのコンサート写真が使われています。