浜離宮恩賜庭園-1 | geezenstacの森

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浜離宮恩賜庭園-1

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  旧浜離宮庭園

 東京の庭園を散策するのは久しぶりです。これまで、新宿御苑。旧安田庭園、清澄庭園などを見て来ましたが、今回はお台場に宿泊する事もあって、浜離宮恩賜庭園をメインに考えました。しかし、ここへ行こうとすると歩きでは結構難儀します。新橋駅からですと、昭和通りから回り込むか、汐留に抜けて環二通りから汐先橋を北から回り込むしか無いのです。あとは、浜松町から海岸通に出て芝商高から北上するしか無く、車には優しく人には厳しい街作りがされています。

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 今回はグーグルの地図を参考に昭和通りから回り込みました。入り口は大手門橋からになります。時期的には花の端境期に近いという事であまり期待はしませんでしたし、朝から小雨模様という事で9時の開門を待っていたのは小生夫婦だけでした。てなことで、ほとんど貸し切り状態で庭園の散策です。ただ、北側のお花畑は、いまはコスモスの種を植えたばかりで、何もありません。花無し畑でした。園の北側を300年松を見ながら水門を横切り稲生神社を通って、梅林経由で、水上バスの発着場を目指します。

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 途中に一本だけ八重のキキョウが見事な花を付けていました。家紋ではよく見かけますが、八重の桔梗は絶滅危惧種に近いそうです。ここで見られてラッキーでした。

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 桜といえばあちこち名所があり、ここでもかなりの桜が植っています。もちろんこの時期は葉桜なんですが、中にサクランボがなっているのを見つけました。実は桜の中でもサクランボが成るのは、サクラ属サクラ亜属の果樹であるミザクラだけなんですよね。
 
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 小径沿いに「旧稲生神社」があります。国指定特別史跡特別名勝ということですが、創建時期は明らかではないようです。もともと離宮ないにあった数社を、明治27年(1894年)6月20日に東京湾を震源とする地震で倒壊したため集約してここに建てたんだそうです。それ故、各所に他の社で使用されていた古材が使用されて、特に本殿内にある宮殿は江戸期のものであり、大変丁寧な仕事がなされているようです。最近では平成17年に明治期の姿に戻す復元工事が行なわれています。

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 梅林は、梅の収穫も終わったのか実をつけたものは一つもありませんでした。で、辿り着いた水上バスの発着場の前には「アメリカデイゴ」が赤い花を付けていて、今はシンボルのようになっています。

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 その奥はちょっと小高くなっていて、ここに昔は灯台があったようで、その礎石だけが残っています。逸れにしては新しいなぁと思って調べたら、なんと元々は三重県安乗埼に明治6(1931)年に建設された我が国最古の木造様式灯台だったようです。それを昭和24(1949)年に浜離宮恩賜庭園に移設したんだそうです。ただ、その後昭和30(1955)年に今度は横浜港に移設され、さらに昭和48(1973)年から船の科学館にて展示されているそうです。

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 ここからちょっと南に下った所に「将軍お上がりの跡」があります。麗の鳥羽伏見の闘いの時、一目散で逃げ帰った所ですな。たしかにここだけ岸壁の作りになっています。
 
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 この浜離宮恩賜庭園は潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園です。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。先ほど挙げた、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。そして、水門があり、ここから水上バスが出入りしています。ために水門には藤壷がびっしり付いていて、海水である事が分ります。
  
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 寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相 の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。

 その鷹狩りの様子は伺い知る事は出来ませんが、鴨場は残されており、庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つがそのまま残っています。江戸時代でもこの鴨鍋や猪鍋などの肉を食していたのが分ります。
 
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 園の中央にお伝い橋と中島の御茶屋、松の茶屋、燕の茶屋があります。最近この茶屋がつぎつぎと新しくなっていますが、その中でも「燕の茶屋」がこの6月頭に復元工事が完了していました。燕の御茶屋は十一代将軍徳川家斉の時代にあった御茶屋のひとつです。釘隠しの金物がツバメの形をしており、名称の由来と言われています。ただ、残念な事に「松の茶屋」は内部が公開されたようですが、この「燕の茶屋」は中に入っての見学は出来ませんでした。