ヘルフゴッドのラフマニノフ | geezenstacの森

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ヘルフゴッドのラフマニノフ

曲目/ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番ニ短調
1. Allegro ma non tanto 17:27
2. Intermezzo Adagio 10:31
3. Finale: Alla breve 14:03
4.前奏曲 ト短調 Op.32-5 2:52
5.前奏曲 嬰ハ短調 Op.3-2  4:38
6.前奏曲 嬰ト短調 Op.32-12 2:39
7.前奏曲 ト短調 Op.23-5 4:16
ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 Op.36
8. Allegro moderato 7:51
9.Lento 5:38
10.Allegro moi 4:59

 

ピアノ/デヴィッド・ヘルフゴット
指揮/ミラン・ホルヴァート
演奏/コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団

 

録音/1995/11/02
  チボリ・コンサートホール
  コペンハーゲン
P:ニルス・ルービン*、ヴァン・ソレンセン

 

RCA BVCC-754

 

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 ひょんな事から手に入れたCDです。後で、このヘルフゴッドを主人公にした映画があったという事を知ったのですが、当初は決してデヴィッド・ヘルフゴットを知っていたわけではありません。それよりも、最初は指揮者のミラン・ホルヴァートという名前を見てこのCDを手に取った次第です。多分今の人は余程の通でない限り、こんな指揮者の名前は聞いた事が無いでしょう。メジャーなレーベルからはレコードさえも出ていなかった指揮者ですからねぇ。てな事でちょいと経歴を....

 

 ミラン・ホルヴァート(Milan Horvat)は1919年7月28日クロアチア共和国のパクラウに生まれ、ザグレブ音楽アカデミーで学んでいます。1946年にザグレブ放送合唱団の指揮者になり、1946年からはザグレブ放送交響楽団の指揮者に迎えられ1953年までその任にありました。1956年からはザグレブフィルの指揮者になり1970年まで主席に準ずるポストに着いていました。その間、アイルランド(ダブリン)放送交響楽団を5年間、ザグレブフィル、ザグレブ国立歌劇場の首席指揮者を続けながら、1969年から1975年まではウィーン放送響、1975年からはザグレブ放送響の主席も務めていました。1965年にはスラヴ・オペラとともに来日し、「イーゴリ公」、「エフゲニー・オネーギン」を指揮しています。この時、マタチッチも来日し「ボリス・ゴドゥノフ」を指揮しています。この演奏がきっかけでNHK交響楽団は彼を翌年からN響に招き1967年には名誉指揮者の称号を送っています。話しの逸れついでに、マタチッチはザグレブフィルの常任指揮者を1970年から1982年まで務めています。ホルヴァートはザグレブ・フィルとの関係も続けていて、
1985年からは名誉首席指揮者になっています。レパートリーとしては自国、スラヴ圏のロマン派に加えて、新ウィーン楽派、20世紀音楽に個性を発揮していてグラーツ国立音楽大の教授も務めていました。この録音は彼の76歳の時の物で、円熟のサポートを聴くことができます。2014年1月1日に亡くなっていますが、追悼盤は一枚も発売されていません。

 

 小生はこのザグレブフィルの演奏でショスタコーヴィチの交響曲1&9番をカップリングしたターナバウトのLPを手に入れたことで、このホルヴァートに注目していました。そして、ショスタコが好きになったのも5番ではなくこのホルヴァートの9番を聴いたのがきっかけなのです。

 

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 さて、ここからはデヴィッド・ヘルフゴットです。映画「シャイン」のモデルになったという事で一躍話題にはなりました。が、多分映画が忘れ去られてしまえば注目は一過性という事で、今ではすっかりまた忘れられてしまっているのではないでしょうか。何しろタワレコでは全品廃盤の表示、HMVは1点のみ表示があり取寄せ扱い、アマゾンは出品者のみの扱いとなっています。調べた限りでは1991年、1997年~2001年(毎年)、2007年と来日しているようですが、その後はオーストラリアの自宅近郊でのコンサートを中心としているようです。映画で描かれた人生はやや小蝶があるようですが、実際にも天才と狂人の間の紙一重のところを歩んでいるようです。以下Wikiからの引用です。

 

ユダヤ系ポーランド人移民の両親のもとにメルボルンに生まれる。ピアノ以外では猫、チェス、哲学、テニス、水泳に興味をもっている。

6歳で父親にピアノを手ほどきを受けた後、神童として知られるようになる。10歳でパースのピアノ教師フランク・アルントに師事し、姉マーガレットとともに、地方のいくつかのコンクールで入賞する。14歳のとき、国内の音楽界から、アメリカ合衆国に音楽留学に行くことができるように寄金を与えられる。しかしながら父親は、甘え(ことによると精神病の前兆)を理由に留学を許可しなかった。19歳のとき奨学金を得て、3年間ロンドンの王立音楽大学に留学し、シリル・スミスに師事。

ロンドン時代に明らかなノイローゼの症候が現れ始める。オーストラリアの医師クリス・レノルズが語ったところによると、不安神経症であったという。1970年に帰国し、パースに戻り、最初の夫人クレアと1971年に結婚。オーストラリア放送協会の演奏会にたびたび参加する。結婚生活が破れた後に、パースの精神病棟グレイランズに収容される。それから10年以上にわたって、向精神薬や電気痙攣療法といった精神療法を受ける。

1984年より数年間、パースのワインバー「リッカルドス」にて演奏を続けるうち、占星術師ジリアン・マレーと出逢い、再婚。1980年代から1990年代にかけて、国内だけでなくヨーロッパでも演奏活動を続ける。1991年に初来日し、《幻想即興曲》や《ハンガリー狂詩曲》などのライブ演奏が「デビッド・ヘルフゴット・ライブ・イン・ジャパン91」に収録されており、深見東州作曲の「ピアノ小品集」もスタジオで録音している。1994年にロシアで演奏を行い、1997年にはワールド・ツアーを敢行したが、評価は芳しくなく酷評された。1995年には、一部に熱烈な愛好家をもつ指揮者ミラン・ホルヴァートとの共演により、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第3番》をライヴで、《ピアノ・ソナタ第2番》といくつかの前奏曲をスタジオで録音している。現在はニュー・サウスウェールズ州ハッピー・ヴァリーにジリアン夫人と暮らし、自宅「ヘヴン」にて演奏会を続けている。

 

 映画のタイトルとなっている「シャイン」とは「輝き」の事ですが、精神病の病から立ち直りピアニストとしての輝きを取戻していく過程の事を表現しています。映画が公開されたのは1996年ですが、このライブはその前年の演奏という事になります。つまり、コンサートと同時進行で映画が製作されていた事です。そういう意味ではドキュメントと捉える事も出来ます。実際ジェフリー・ラッシュという俳優が演じていますが、アップのピアノの演奏シーンはヘルフゴット自身が演奏しているそうです。まあ、映画のシーンは何カットも撮るので最上の演奏をチョイスしていると思いますが、ここでは通常のコンサートの一発録りですから、この曲に掛けるヘルフ事との技量のほどが伺えるライブです。

 

 ヘルフゴットはこのラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をもっとも得意としているのですが、元々、ラフマニノフの第3番は第2番に競べると人気はありません。これは一般的な印象でしょう。ただ、個人的には第2番も第3番も同じレベルの曲でした。人気云々の前にほとんど同時に2曲を聴いていたからでしょう。

 

 ところで、この演奏第1楽章はそんなに遅いテンポの入りではありません。なんか、ひょうひょうとした感じで構える事無く自然体で始まります。多分テンポはヘルフゴッドの指示なんでしょう。多分ホロヴィッツやアシュケナージの演奏を先に聴いてからこの演奏を聴くと拍子抜けのような演奏に聴こえるのではないでしょうか。しかし、この演奏だけを効くのであれば自然とこの演奏に惹き込まれていきます。そんな不思議な魅力のある演奏なんです。テクニックはあるのですが、独特の癖があります。第2楽章などはまるでムードミュージックのような解釈で演奏していますし、第3楽章にいたってはテンポが揺れすぎてオーケストラが合わせるのに苦労している様が目に浮かびます。まあ、絶賛する人は先に映画を観て感情移入すると聴き方が違ってくるのかもしれません。

 

 

 スタジオ録音された前奏曲とピアノ・ソナタは編集されているせいもあるのでしょう、そんなに大きな破綻はありません。