久しぶりにUFJ貨幣資料館へ出掛けました。現在は「広重の三都」と呼ばれる企画展が開催されています。広重にこういう作品があることを今回初めて知りました。検索すると二代目とか三代目の描いた作品が結構ヒットするんですが、初代にもこういう作品集があったんですなぁ。パンフレットによると「東都名所」と呼ばれる外題を持つそろい物は広重の咲くだけでも20種類以上あるそうです。今回はその中から初期の「喜鶴堂佐野屋喜兵衛版」と「松原堂藤岡屋彦太郎版」の2種類が展示されていました。

「にほんばしはくう」と題されたこの絵は夕立の日本橋を描いています。明るい空から降り出した夕立に橋上の人々は傘を差して足早に先を急ぎ、橋の向こうに見える江戸城、更に遠い富士山は雨に霞み、通り雨の臨場感が見事に表現されています。白雨は明るい空から降る雨のこと。夏の夕立の、いかにも通り雨といった雰囲気が出ています。
「浅草金竜山年之市群集」

年末12月の17日は浅草金龍寺の年の市でした。酉の市と同じく現在でも旧暦と同じ日付で行われている数少ない年中行事のひとつです。この日は正月用品の買い出しで浅草寺は大賑わいになります。この図はその人出の様を描いています。まるで今の休日の浅草を彷彿とさせる人出が描かれていて、当時の賑わいぶりを感じ取る事が出来ます。

こちらは別版の東都名所で「道潅山虫聞之図」とありました。秋の野には虫たちの美しい鳴き声が響き渡る図で、小さな子供連れの女性たちや、茣蓙を広げて宴会をしている男性たちの姿が見えます。
さて、「松原堂藤岡屋彦太郎版」は中短冊仕様で4点展示されていましたが、国立国会図書館のデータベースにも登録されていないようで検索しても見つかりませんでした。また。まだまだ埋もれた作品も多々あるという事でしょう。

ここからは京都名所です。永川堂版の横大判錦絵で全10枚の作品です。天保5年頃(1834年頃)の作品で、「祇園社雪中」は特に知られているようです。京都の祇園社は現在の八坂神社で、下河原を南面として、石の鳥居を持つことで有名である。その鳥居には、画の如く「感神院」という竪額があり、照高院道晃親王(後陽成天皇皇子)の筆といわれています。鳥居の前に三人、後に一人、美人の立姿を添え、うしろ向きの人を交じえたり、相傘も入れて変化をもたせています。何処となく雰囲気が有名な五十三次の三島宿に似ています。

江戸の吉原はつとに有名ですが、そのモデルになったのが京都は島原の遊郭でした。どこにあったかというと、京都駅西北の西本願寺の西あたりにあったようです。この絵は、京都の遊郭である島原の夜の風景を描いた作品で、島原の唯一の出入口「島原大門」と、「出口の柳」の様子が描かれています。廓の建物の上に広がる夜空の雲と、雲の切れ目から見える三日月が広重御得意のベロ藍を使っています。

淀川を航行する三十石船と近づいて商売をする、くらわんか舟が描かれています。淀川のように比較的流れが穏やかで、豊かな水量を持つ川は、水上輸送に適していたため、最盛期の江戸時代には京―大坂間で人や荷物を運んだ「三十石船」や、枚方あたりで船客に飲食物の商売を行う「くらわんか舟」など1000艘以上の船が行き交いました。三十石船は、京―大坂を結んだ貨客船。江戸時代末期頃には1日平均約1500人と800トンもの貨物を運んでいたといわれています。

京都嵐山は、古くから知られる桜の名所。二人の船頭が乗る舟は、すーっと桂川を下っていきます。嵐山に流れる川のほとりに咲き誇る桜が、川の深い青とのコントラストで更に美しく色を匂わせます。見渡す限り、桜、桜、桜の嵐山を眺めながらの川下りですが、ここでは敢えて渡月橋は描かれていません。

「浪速名所図絵」も永川堂版の横大判錦絵で全10枚の作品です。正月の10日に、浪速っ子が今宮社に参拝して福徳を願った十日恵比寿の賑わいを描いています。今も浪速区にある今宮神社です。もちろん広重は上方には行った事がありませんから、全点『摂津名所図会』を典拠としていて、それを広重なりに視点を変えて描いています。そのため、ここでは人物描写に主眼が置かれ、商都大坂の民衆エネルギーを表現しようとした新しい型の名所絵

大阪と言えば天下の台所といわれた堂島でしょう。ここで全国の米相場が決まった所ですからね。蜆川と堂島川に挟まれた一帯を堂島といい、貞享2年(1685)河村瑞賢の両川改修後に開発され、天満舟を造る舟大工が多く住み、舟小屋ができ発展していった。元禄年間(1688~1703)頃には遊所町となり、その後遊所は曽根崎新地に移り、堂島には米市場が開かれ、享保15年(1730)に米相場会所がつくられ、また諸藩の蔵屋敷も多く立地し商業の中心地となっていったという歴史があります。

江戸の吉原、京都の島原、そして大阪の新町は全国3箇所のみの官許の遊里であったところです。いまの西区の新町です。この図は5月の太夫行列を描いています。上方の遊里は独自の格付けがあり、最も格が高いのは「太夫(たゆう)」。次に「天神(てんじん)」、「鹿子位(かこい:正しくは囲と書く。島原の遊廓では鹿恋と書く)」と続き、一番下が「端女郎(はしじょろう)」と呼ばれていました。
それにしても、こういう作品まで広重が残していた事をこの企画展で初めて知りました。いゃあ、浮世絵も奥が深いです。