名古屋市政資料館と文化小劇場の特別後援会の「名古屋の歴史2014」後期の第1回講演会が1月27日に、西文化小劇場で開催されたので出掛けて来ました。テーマが興味深かったし、自宅から近いという事もあります。しかし、行ってみて驚きました。小生は自転車で行ったのですが、30分も前にも関わらず、会場はほぼ満席です。このホールには346席あるのですが、とてもそれだけでは足りません。講演開始の午後2時には、ホワイエまで人が溢れてそこにも椅子を並べて50人以上が聴き入るという事態です。
小生はこういう催しには初めての参加ですが、これほど人気があるとは思いませんでした。女性の参加者も多く、歴女は年配層も含めて底辺が広いと痛感した次第です。こういう事態ですから、用意されいたレジメはもちろん足りません。急遽劇場側で追加のレジメを制作していたようです。
さて、講演は名古屋大学名誉教授の溝口常俊氏です。お若そうに見えたのですが2013年に定年で退任されています。そんなことで名誉教授なんですな。専門は歴史地理学,地域環境史, 南アジア地域論ということで、まさにテーマ通りです。

レジメでは写真のような内容になっていました。第1部と2部で1時間、第3部で1時間という構成でしたが、小生としては第1部だけで丸々2時間でもいいなあ、と思えたほどです。師範の書籍では江戸の古地図は数々出版されていますが、名古屋は中々無いですからね。そういう意味でも、清洲越しの名古屋城築城以降の計画的な都市づくりがなされた名古屋の変遷は興味深いものがあります。
最初は名古屋という近世の都市を色に例えるところから始まります。もちろん築城当時は金の鯱がシンボルですから、町のカラーは金色、それが明治時代以降は富国強兵政策で戦いに明け暮れる、暗黒の時代という事で黒色、第2次世界大戦以降は焼け野原となった名古屋はまた一からの街作りという事で、白色。確かに、昭和60、70年代は白い町といわれましたからね。石原裕次郎の歌にも名古屋を歌ったそんな曲がありました。しかし、最近の名古屋の色はグリーンだというのですね。白い町返上で町中にも緑が多くなって来たんだそうです。そう言われてみれば納得ですなぁ。


で、いよいよ本題に入っていきます。名古屋は人工的に造られた都市です。清洲では地盤が弱く洪水の被害も多い地域で、そのために他にも小牧なんかが候補地にあったようですが熱田台地のある名古屋が選ばれたという事です。で、当然家来たちを住まわす町を作るなら、それに付随する生活に必要な鍋窯から始まる生活用品がいる事になります。そのために町後と引っ越す、清洲越しが行なわれたんですなぁ。手っ取り早い街作りです。で、この碁盤の目のような街作り、何と加藤清正が名古屋城の石垣を作る前に整備したというのです。きっちりとした都市計画という事で、町中に用水が取付けられています。図の中にもそれが描かれていますが、広小路にも東西に水路が走っています。それが皆堀川に繋がっているんですな。堀川は福島正則が作ったものですが、これが清洲越しにも大活躍した事でしょう。名古屋はこの加藤清正と福島正則には足を向けては寝られませんな。

名古屋が賑わったのは第7代藩主徳川宗春の時代でした。そして、この頃下級武士の御畳奉行「朝日文左衛門」が残した鸚鵡籠中記があります。18歳から45歳で酒毒で亡くなるまで綴った日記です。溝口氏はこれを全部エクセルに打ち込んだそうで、それを分析すると当時の城下町での人々の生活が浮き彫りになるそうです。文左衛門は釣り好きで、酒好き、芝居(歌舞伎、狂言)好きのうえ、女好きだったんです。また、火事や心中事件が好きだったらしく、何はさておいても現場に飛んでいったようです。色々な本で取り上げられている文左衛門ですが、バツイチで、女中に手をつけてしまうという悪い癖が合ったようです。ただし、妻が実家に帰るときは付き添っていったそうでマメな面も読取る事が出来るようです。



次にこの時代を繁栄する亨現絵巻についての考察がありました。この絵巻は徳川宗春の治世、享保17年(1732)から享保21年頃の本町通りのにぎわいを描いています。地図を横長に貼付けると加増が小さくなってしまいますので立てに貼付けてありますが、右端(上)の広小路より左(下)に進むに連れて南下する構図で、季節も春から秋へと変化しています。芝居や遊廓で賑わう盛り場、南寺町の様子がよくわかる。小売りの店先、食べ物屋、呼び込み看板、参詣者で賑わう寺社境内と芝居小屋、参道の見世物小屋などが描かれ、当時の風俗を知る上でも貴重な資料です。この中で「あかふく」の文字も読取れ、既に赤福餅が存在していた事が伺えますが、日持ちのしない赤福餅を売っていたとは思えません。1705年には大規模なおかげ参りが発生していますからその存在は知られていたでしょう。類似品が売られていたという事でしょう。
まあ、こんな話で大半の次巻を使ってしまい、第1部は明治時代以降は省略で、クローズアップ名古屋も端折ってになってしまいました。うーん、なかなか古地図を目にする事が無いので、もっと古地図の事を知りたかったものです。第3部の現代の名古屋の本町や広小路、京町、魚ノ棚ブラ歩きは最近のウォーキングの成果を語ったものですが、先日の火事で焼けてしまった「鳥久」の事も取り上げられ、移設という方法もあっただけに残念な文化財の消失です。このなかで、本町通の活性化については今名古屋市が取り組んでいるとの事で、この3月に「本町通歴史案内マップ」というパンフレットが出来るそうで、公共施設での配布が予定されています。楽しみですね。
次回は、2月3日に「悪戦苦闘の名古屋港築港の軌跡」というテーマで港文化小劇場で講演があります。うーん、古地図については追加講演があるといいな、というのが個人的な希望です。

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