ジャン・ミッシェル・ド・フランス/アバの世界の怪 | geezenstacの森

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ジャン・ミッシェル・ド・フランス
アバの世界

曲目/
=A面=
1. チキチータ 5:07
2. テイク・ア・チャンス 3:33
3. イーグル 3:41
4. ヴーレ・ヴ- 3:54
5. ダンシング・クイーン 3:46

 

=B面=
1. ギミー・ギミー・ギミー 4:14
2. マネー・マネー 2:59
3. ロック・ミー 2:59
4. エンジェル・アイズ 3:29
5. きらめき序曲 4:40
6. アマー・ナイト・シティー 3:11

 

演奏/ジャン・ミッシェル・ド・フランス・オーケストラ

 

録音/1980 ドルフィン・スタジオ

 

P:オリビエ・トッサン

 

CBS SONY 25AP1881 

 

イメージ 1

 

 まず、「ジャン・ミッシェル・ド・フランス」というイージー・リスニングのアーティストがいた事をご存知の人はよっぽどの通でしょう。ほとんどこの世界では通用しなかった指揮者ですから・・・・1980年前後は、ソニーはパーシィ・フェイスを76年に失ってこの分野は強力なアーティストがいませんでした。まあ、カラベリがいましたけれどどうも対抗馬というには小粒すぎました。アレンジに個性がなかったんですなぁ。そんなことで、見つけ出したのがこのジャン・ミッシェル・ド・フランスでした。ただし、日本語の解説にはミッシェル・ド・フランスとしか表記されていません。レコードの解説は細野啓一氏が書いていますが、肝心のミッシェル・ド・フランスについてはいい加減な説明しかしていません。曰く、
指揮者でありピアニスト
身長185㎝ 金髪 青い瞳
年齢22歳
没落貴族の末裔

 

 

 

 しかし、音楽の世界でのキャリアに付いては一言も触れられていません。彼の所属は当時ドルフィン・レコードでした。つまりは、リチャード・クレイダーマンと一緒だったのです。片やクレイダーマンは日本ではビクターからアルバムをリリースしていましたが、ミッシェル・ド・フランスはまったく無名でした。解説では65名のオーケストラを率いて演奏していると書いてありますが、このレコードのどの曲を聴いてもそんなオーケストラサウンドを感じる事が出来ません。ましてや、最初にリリースするアルバムに全曲「アバ」の曲を持ってくるというのはまったく異例です。日本では、もう一枚1980年に「パリ便り(27AP1942)」というアルバムが発売されています。むしろ、こちらの方がデビュー盤に相応しい内容でした。内容は、
A①涙から微笑みへ ②愛のオルゴール ③恋のセントラル・パーク ④泣かないでアルゼンティーナ ⑤ロマンス
B①スターズ ②落葉のロマンス ③白い恋人たち ④ザナドゥ ⑤夜のノートルダム
というものでした。

 

イメージ 2

 

 で、奇跡的な事に、彼は来日しています。ただし、オーケストラを率いてではなく、オーケストラを指揮しにです。その時の出来事の顛末があるHPに書き込みがありました。URLを貼ることが禁止されていますので引用してみます。記事はシャンソン歌手の山崎肇さんです。
 FMの人気番組「ジェット・ストリーム」の2000回だか3000回放送を記念したコンサートで、ソニーからアルバムが出ていた指揮者のジャン・ミッシェル・ド・フランスが招待され、たしか大阪シンフォニック・オーケストラを指揮しに、自分のリズムセクションを引き連れて来日したのです。
 会場は大阪フェスティバル・ホール。音楽の条件としては最高に晴れやかな舞台でした。

 彼のプロデューサはリチャード・クレイダーマンのプロデューサー兼マネージャーのオリビエ・トッサンで、指揮が出来ない、たぶんミュージシャンでもない美男子を LPのカバージャケットに使い、ソニーレコードは知ってか知らずか日本版のレコードを出し、誰かがFMに紹介し、来日が決定したのであります。誰も非難するつもりはありません。どんな社会でも、こんなことはたまには起こりうることなのでしょう。もちろん僕らスタッフはそんな事情はまったく分かっていませんでした。

 フェスティバル・ホールでの前日リハーサルが始まりました。ジャン・ミッシェル・ド・フランスは長身の美男子で品格に溢れ、彼と比べると今大騒ぎされているペ・ヨンジュなどはウンコみたいな存在と思えるほどでした。シンフォニック・オーケストラを前に指揮台に立ち、ボクが、「皆さんソニーレコードのジャン・ミッシェル・ド・フランスです。よろしくお願い致します」と紹介すると、団員全員が楽器を叩き歓迎の意思表示をしてくれ、新しいスターの登場を疑いもしませんでした。

 しかしながら、指揮をし出すと様子がおかしいのです。自分が連れてきたリズムセクションがきちんと演奏しているので、何とかリハーサルが進んでいくのですが、 自分が指揮をするというより、オーケストラに合わせ手を振っているのです。リハーサルが終ったあとボクは、「当日は何とかよろしくお願い致します」と、第一バイオリン奏者に頭を下げました。彼はとてもさばけた人で「大丈夫ですよ。僕らも営業で、こんな経験は初めてではありません」と言ってくれました。

 フェスティバル・ホールは 人気番組「ジェット・ストリ-ム」のお客様で満員でした。そして危なっかしい指揮ぶりながらもコンサートは快調に進み、お客様はとても満足した様子でした。豪華な食事に囲まれた打ち上げのレストランで、ジャン・ミッシェル・ド・フランスは、関係者から最大の賛辞で迎えられました。ボクは独り言で、「ヘー、みんな喜んでいるんだから、これで良かったんだ」、と呟いていました。

 明くる日フランスに帰る大阪空港でジャン・ミッシェル・ド・フランスは、フランス人ミュージシャンの一人からこう言われました。「工場に帰るのは辛いだろう」「工場で労働者として仕事をしていたお前が、夢が消えた後、また工場に帰るのは辛いだろう」というチョウ侮蔑的内容なのです。その後、彼の噂はまったく聞きません。

 

というものです。この時のコンサートでは、「ジェット・ストリーム」ということで、亡くなられた城達也さんが、番組風に司会・進行し、途中ミッシェル・ド・フランスにインタビューをするコーナーがあり、上記の山崎さんも登場していたようです。この時のリズム・セクションは、リチャード・クレイダーマン・オーケストラのメンバーも混じっていたようです。

 

 衝撃的な内容ですが、これが「ミッシェル・ド・フランス」の実像ではないでしょうか。そんなことで、まったく日本ではCDが発売された形跡はありません。ですから、CD世代の人はまったく知らないといってもいいのではないでしょうか。ちなみに、YouTubeには彼の音源はまったく見当たりません。本家フランスではDELPHINEレーベルからレコードが発売されていますが、オリジナルLPにはA面5曲目の「ダンシング・クィーン」が収録されていません。日本盤ジャケットには何も謳っていませんがこのトラックは日本盤だけのボーナスでしょう。ただし、収録曲順はまったく違います。

 


 このレコードを購入したときは、結構期待して聴いたのですが、何とも中途半端な演奏でリズムセクションはやけにうるさいし、オーケストラアレンジは65名の編成にしては音は薄っぺらいし、おまけにシンセの音が導入されているもののポールモーリアのようには洗練されていないし、という具合で失望し一回聴いただけでレコード棚にお蔵入りという有様でした。今年のラック整理の中で、久しぶりに取り出したわけですが、印象はあまり変わりませんでした。それも合って、世間ではどう評価されていたのだろうかとネットで検索したら先の書き込みに出会ったわけです。いままで、何となくもやもやしていたものが晴れた気がしました。多分、発売元のDELPHINEもこのサウンドでは駄目と見切ってこのプロジェクトを中止したのでしょう。その後はすぱっと市場からは姿を消しました。

 

 今となってはまぼろしのイージーリスニングの貴公子だったと言えるのではないでしょうか。