学生時代の卒業旅行は、ヨーロッパの周遊でした。約一ヶ月をかけてヨーロッパ諸国を巡るわけですが、30年近く前の学生の旅行ですから金があるわけではありません。当然ローンを組んでの旅行ですが、何よりも凄いのは宿泊は最初の1日目と、帰国の前日の最後の日だけ決まっていて後は勝っ手に旅行をしてくれというものです。この旅行で、付いているのは21日間のユーレイルパスです。出発は成田からアンカレッジ経由でロンドンを目指します。帰りはパリのシャルル・ドゴール空港からモスクワ経由で帰国というコースです。当初の予定は大韓航空で南回りルートだったのですが、どういうわけがルートが北回りに変わり、航空会社も大英航空に変わりました。当時は何の予備知識も無かったのですが、出発日の違った仲間はその南回りルートのままで、機体がかなりボロく今にも落ちそうでヒヤヒヤしたと言っていたのを覚えています。同じ旅行代金で大英航空に乗れたのはラッキーでした。まあ、そんなこともあり、その時渡されたのがトーマス・クックの時刻表でした。
今は写真のように日本語版がダイヤモンドビッグ社から発売されていますが、当時はそんな物はありません。ヨーロッパの鉄道を網羅した時刻表で、日中は年を歩き回り、夜は夜行列車をうまく利用して、次ぎの目的地に到着するという旅を有効に組み立てるために辞書と地図を確認しながら事前にルートを組み立てです。スタートはそのイギリスで、学生時代は自分でレコードをイギリスやアメリカから個人輸入していたので知らない国とはいえ何か親しみを感じていました。今でもそうですが、イギリスはそのユーレイルパスが使えない国なので、実際にパスを使い始めたのはドーバー海峡を渡ってホーク・ヴァン・ホランドからオランダに入国してからです。今ではさっぱり忘れてしまいましたが、学生通しの情報交換で安いチケットを何処かから仕入れて海を渡ったんでしょうな。そこから列車でアムステルダムへ向かいアンネの家なんかを見てその日のうちにブリュッセルへ行きました。その時初めて、街角のスタンドでジャンクフードのベルギーワッフルを食べているのですが、近年損なのが流行して懐かしく思ったものです。

大陸に渡ったその日は、早速国際夜行列車に乗ってドイツはハンブルグに向かったのを覚えています。まるでビートルズのハンブルグ行きのコースのようですが、当時はそんなことは少しも考えませんでした。今は東ドイツなんてありませんが当時はベルリンの壁がある時代ですからコースは自ずと限られて来ます。まあとにかく、宿泊費を安く上げるためにハンブルクの次ぎに向かったのはシュトットガルトです。これも夜行での移動です。何故かシュトットガルトでは中央郵便局へ行き、それまでに買いだめたレコードをそこから船便で日本へ送っています。夜行移動はここからケルンへ、ケルンではマック(大聖堂の近くにありました)でハンバーカー食べてからからは、ボンに移動です。当時はここがドイツの首都でした。ベートーヴェンの生家を訪ね、どうやって手に入れたかボン・ベートーヴェンハレ管弦楽団の演奏会を聴いています。で、また夜はフランクフルトに移動です。付箋クフルとは宿が無くてユースホステルに泊まったのを覚えています。ドイツで宿泊したのは多分ここと、次のミュンヘンだけでしょう。ミュンヘンではみんなでビヤホールへ繰り出して乾杯したことだけが記憶に残っています。ミュンヘンからはウィーンへ移動です。ここはやはり、音楽の都ですから3泊はした記憶があります。毎夜音楽会通いで、何とか安いチケットを手に入れて、ウィーン交響楽団の演奏会と国立歌劇場では「トスカ」と「椿姫」を観ました。勿論ここでは映画「第3の男」のラストで登場するウィーンの大観覧車を見に行ったり、ベートーヴェンやシューベルトの墓参りもしました。

ウィーンからは水の都ベネチア入りです。ここでは全く予定に無かったのですが、現地で知り合った楽聖とフェニーチェ劇場でベルディの珍しいオペラ「二人のフォスカリ」を観ています。ベネチアからは一路ローマへ向かいます。ローマでは一泊する予定だったのですが、当時からスリが多く、この時も仲間が一人財布を取られたとかで、最初にヴァチカン市国を回ってからはトレビの泉やスペイン階段だけを見てその日の夜行でスイスに向かいました。仲間の中にはここからスイスアルプスに向かうものもいましたが、小生はレマン湖の辺りをぶらぶらしただけで一泊し、次の日はバルセロナに向かいます。このジュネーブから出るTEEはカタラン・タルゴという列車でいまでも走っていますが、フランスとスペインの軌道幅の違うレールをそのまま走ることが出来る唯一の列車でした。まあ、走りながら国境のポール・ブー駅の軌道変換装置を通過することで車輪の幅を替えることが出来たのです。残念ながら通か時は既に夜でその場面を確認することは出来ませんでしたが、人気の列車らしくえらく混んでいたのを覚えています。

これも、今となっては笑い話ですが、バルセロナの駅に着くと銃を持った兵士があちこちに立っています。この時代スペインは、フランコの独裁政治が終わり民主化に向かっていたのですが、訪れた年の1月にマドリードでアトーチャ駅虐殺事件が発生したいたのでこんな警戒態勢だったのです。ただ、夜に到着しても、泊まる場所が無かったので観光案内所でホテルを斡旋してもらいました。次の日は駅の側のサグラダ・ファミリアを観たり、市場で新鮮なバレンシアオレンジをしこたま買い込んだりしたのを覚えています。そうそう、履いていた靴がぼろぼろになったのでこのバルセロナの靴屋に飛び込んで靴を買ったのでした。

さて、バルセロナからフランスに入るのは直通が無かったので多分リヨンで乗り換えていると思います。今ではTGVが走っていますが当時はまだありませんでした。フランスでは勿論ルーヴル美術館は欠かせませんが、丁度日程が取れたアントニオ・ヤニグロとザグレブ室内管弦楽団の演奏会をサルプレイエルで聴けたのが印象的でした。もう、当時はもうヤニグロは杖をつかなければ歩けない状態でしたからそれほど頻繁にはコンサートを開催していなかったと思います。
まあ、こんな感じで1ヶ月間ヨーロッパを周遊したわけですが、今のダイヤモンド・ビック社の地球の旅を見ても、こういう1ヶ月かけての周遊型の旅は企画されていません。せいぜい10日前後の2~3カ国のミニ周遊だけです。過保護になったものです。ほったらかしの行ってこい型の旅行は保証云々がうるさくて今は企画出来ないのでしょうかね。それにしても、当時のユーレイルパス付きの旅行企画はあっぱれでした。何しろバックパックの恰好で一等車のコンパートメント(個室)を予約無しにふらりと乗れたのですから。それだけ空いていたこともあったのですが、独占状態ですからごろりと横になって練れます。寝台車でなくても良かったんですよ。良い旅が出来たものです。
さて、バックは「ナイト・トレイン」です。何処かで聴いたことがあるのではないでしょうか?そう、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のダンスシーンで流れていた曲です。