通りゃんせ | geezenstacの森

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通りゃんせ

著者 宇江佐真理
発行 角川書店

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 小仏峠の滝で気を失った二十五歳の青年サラリーマン・大森連は、介抱してくれた時次郎とさなの兄妹から、ここは武蔵国中郡青畑村で、今は天明6年だと告げられる。驚きつつも江戸時代を懸命に生き抜こうとする連に、さなは想いを寄せていく。いっぽう連の歴史知識から幕閣の政変を知った時次郎は、村の領主である旗本・松平伝八郎の立場を守ることに成功。時次郎はいったい何者なのか?天明の大飢饉が迫る中、村の庄屋が殺害される事件が起こる。現代の知識だけで人々を幸せにすることはできない…。江戸へ向かった連は、思いがけない再会を果たすが。連の運命は、そして元の世界には戻れるのか?時間を超えた、感動の長編時代小説。---データベース---

 「野生時代」の2008年6月号から2010年9月号まで、足掛け3年に渡って連載されたものです。時期的にはTBSで「JIN-仁-」(第一期が2009年10月11日から12月20日まで放送され、第二期は2011年4月17日から6月26日まで放送)が放送されるより前に連載が開始された事になります。それよりも、NHKで放送された「タイムスクープハンター」に近い様なリアリズムと社会の底辺を描いているという事ではスタイル的には似ているかもしれません。まあ、主人公の大森連がその時代の人間に関わっていくというところは「JIN」スタイルなんですが、社会の底辺を描くという部分に関しては後者に近いです。そして、この物語は現代の東京から始まりますから、これは現代物と言っていいでしょう。そういう意味では宇江佐真理初の現代小説という事になります。

 タイムトラベラーものですがSFという視点では描かれていません。そんなことでSF小説を期待して読むと落胆します。あくまでも、作者の視点は江戸時代にあります。この作品の一つ特徴は一般の時代小説の江戸や上方を舞台にした作品ではなく、一介の農村を舞台にしています。そう、江戸時代の農民の暮らしを描いているという点がこのストーリーの特徴となっています。しかも、それが天明の大飢饉の時代という特殊な状況を舞台にしています。天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉で、江戸四大飢饉の1つで、日本の近世史上では最大の飢饉でもあります。この小説では田沼意次が失脚した年という事になっていますから、天明6年から翌年にかけての出来事だという事が分かります。そういう時代背景を知ってこの小説を読むと、また違った側面が分かってくるというものです。

 主人公の大森連は、スポーツ用品メーカーに勤務する、25歳の若者です。北海道から東京へ転勤してきますが同時に失恋しています。ある日、趣味のマウンテンバイクでツーリングに出かけた彼は、小仏峠の滝の裏の洞窟で足を滑らせ滑落し気を失ってしまいます。目が覚めると周囲の風景や様子がどうも違います。そこは灯りも何も無い農家でした。そして、自分を助けてくれた時次郎とさなの兄妹から、ここが天明6年の武蔵国中郡青畑村(ちなみに、武蔵国(現在の府中、多摩、埼玉)には那珂郡(なかごうり)があったが中郡はないので青畑村は、飢饉にあえぐ典型的な農村として作者が創作したものでしょう。)だと聞かされた連は、おおいに驚きながらも、タイムスリップという事実を受け入れていきます。名前を連吉と変え、兄妹の家で暮らしながら、しだいに江戸の農村の生活に馴染んでいく連です。その江戸農民の暮らしは、現代と比べるとあまりに生活様式が違いますが、一つ一つ連は受け入れていきます。

 同じ、タイムスリップものでも石川英輔氏の「大江戸神仙伝」シリーズがあり、そちらは速水洋介が文政年間にタイムスリップし現代の技術を使って脚気の薬を作って大成功してしまいます。ところが、このストーリーの主人公はそういう能力を持ち合わせていません。タイムトスリップものには珍しく、主人公が底辺の地位にいます。大体、今までの知識を生かして偉い人に召抱えられたり歴史上の人物と出会ったりするパターンが多いのですが、この本は地道に農民をする話しが書かれています。そういう意味では庶民の眼から見た江戸時代はなかなか新鮮です。

 しかし、天明のこの時代は大飢饉が発生します。連はその真っ只中にタイムスリップし、大飢饉をリアル体験します。村では一揆こそ発生しませんが、庄屋が米の抜け荷を隠していると勘違いされ殺されてしまいます。その後は村が疲弊していく様子が描写されます。当時の人間に比べ頭一つでかい連は、その出生を疑われ事になってしまいます。庄屋の代行をする時次郎の替わりに、身を隠す意味もあり、連は江戸にいる村の知行主の旗本の家を目指します。ごく普通の若者である大森連は、未来人のメリットを、ほとんど発揮できません。歴史的な事柄も江戸の年号を覚えているぐらいで知識を持ちあわせていません。そんな中で、特技として学生時代に整体とストレッチを学んだ事で、知行主の旗本の腰痛を緩和し、気に入られる程度です。しかし、これが為に江戸に足止めを喰らいます。

 そんな中、親方様の中間を務め或る日吉原にお供する事になります。江戸一の繁華街であり行楽スポットでもある「吉原」の世界が魅力的に描かれています。この部分だけが唯一この小説で明るい部分です。そして、ここで幼なじみの賢介に会う事になります。何故、幼なじみの賢介が同じ江戸時代に?ということはこの際追求しない事にします。まあ、彼が登場する事で、主人公のタイムスリップについて、ワームホール理論を持ち出し、一応の説明をしている点も見逃せません。往々にして、時代SF小説はSF作家の作品がほとんどであり、時代作家からのアプローチは稀ですが、ここではワームホール理論や、時間テーマSFでは避けて通れぬタイムパラドクスの問題にも、きっちりと触れて、SFとしての整合性は一応とれています。

 時代小説らしい時代考証もきっちりされており、飢饉の大変さ、当時の幕府の対応ぶりもきっちり描かれています。ここら辺は時代小説作家としての面目躍如といったところでしょう。この時代にたいして、連は一生懸命自分の出来る事を模索します。なぜなら彼は、常に相手の気持ちを思いやり、自分を信じ、受け入れてくれた人々のために、身を粉にして働こうとする爽やかな姿が感動を呼びます。それは、文中に登場する別れた彼女の茜との対比として描かれていきます。

 ただ、最後に時次郎の妹のさなが、村人に手込めにされ陵辱されるという自体に巻き込まれます。さなは連に救いの手を求めます。連はそんな彼女に同情しますが、一緒になれるとは言い出せません。小仏峠の滝で、連はマウンテンバイクを発見します。タイムスリップは連だけでなく、バイクも一緒に起こしていたのです。これで帰れるめどがついたという時に、さなは自殺してしまいます。それは時次郎が江戸に出かけている最中に起きてしまいます。

 飢饉を乗り切った農民たちには村祭の季節が巡って来ます。そこで、連は巫女から占いのお告げを貰います。ここから現代への帰還はどうもあっさりした記述になってしまっていますが、とにかく現代の東京に戻ります。そこでは賢介が一足先に戻っています。再会した二人は、新橋で会います。お互いの経験を話しますが、どうも賢介にはわだかまりがあるようです。その帰り道、終電車に乗った連の横に神田からさなに似た女性が乗って来ます。時は巡っても、ふたりは再会を果たしたのです。

 時代小説として読むとなかなか面白いのですが、SF小説として読むとあまり盛り上がらないので落胆するかもしれません。しかし、平凡な男の目から見た江戸時代はまた新鮮です。