卵のふわふわ | geezenstacの森

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卵のふわふわ~八丁堀喰い物草紙・江戸前でもなし

著者 宇江佐真理
発行 講談社 講談社

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 のぶちゃん、何かうまいもん作っておくれよ―。夫との心のすれ違いに悩むのぶをいつも扶けてくれるのは、喰い道楽で心優しい舅、忠右衛門だった。はかない「淡雪豆腐」、蓋を開けりゃ、埒もないことの方が多い「黄身返し卵」。忠右衛門の「喰い物覚え帖」は、江戸を彩る食べ物と、温かい人の心を映し出す。---データベース---

 タイトルからすると料理本だと思っても不思議ではありません。ましてや六編のサブタイトルも料理の名前が並びますからね。でも、実のところは離婚の危機を迎えている若夫婦を巡る連作短編集なのです。主人公は椙田家に嫁いだのぶなんですが、真っ先に登場するのが何と舅の椙田忠右衛門です。この人物がふるっています。湯島の学問所で行われる学問吟味をあっさりと合格しているにもかかわらず、一介の同心です。それも、剣術はからっきしだめで文武両道にはなっていないんですね。こんな人物ですが、仕事となれば朱引きの外まで下手人を追い、行方知れずとなってしまいます。そんなことで、家族が弔いを済ませたあとに、一年後にひょっこりと下手人を連れて戻って来るのです。まあ、今は一線を退いていますから伝説の同心という設定です。それでいて、ここでは何時も腹をすかせている舅で、息子の嫁ののぶちゃんに甘えています。隠居後の椙田忠右衛門の楽しみは美味しいものを食べることなんです。彼が書き付けているのはうまい料理を食した時の覚え帖です。でも、ここに登場するタイトルの食べ物は、それとは関係のないのぶの心の写しとなっている様なものばかりなんです。

 主人公ののぶは子供に恵まれません。夫の正一郎はあこがれの人で、願っても無い結婚と自分から飛び込んだのぶでしたが、その実、正一郎には思いを寄せていた娘に振られて女性不審に陥っていました。それが為、のぶは夫の正一郎と性格が合わないと思っています。夫婦の会話もまともにありませんし、寝屋でも夫婦の営みは無くなっています。ましてや、のぶは好き嫌いが激しく、食べることの出来るのはほんの一握りの食材でしかありません。そんなことで、のぶは離婚を考えてしまいます。

 さてこの作品は、小説現代2003年2月号から2004年5月号に書けて発表された次の六編が収められています。
秘伝 黄身返し卵 小説現代 2003年02月号
美艶 淡雪豆腐 小説現代 2003年05月号
酔余 水雑炊 小説現代 2003年08月号
涼味 心太 小説現代 2003年11月号
安堵 卵のふわふわ 小説現代 2004年02月号
珍味 ちょろぎ 小説現代 2004年05月号

 じつはこれらの食べ物、のぶが食べられる数少ないものなのですが、それぞれがのぶの心を表しています。最初の「黄身返し卵」はこじれにこじれたのぶと正一郎の関係です。まあ、ここで登場する「黄身返し卵」は江戸時代の万宝料理秘密箱(卵百珍)に書かれているものとはちょいと違うようです。殻の中で黄身と白身がひっくり返っているものを想像しますが、ここではただ黄身と白身がまだらになっただけの卵なのです。ただ茹で加減の具合によるものかもしれません。


 殺しがあり、正一郎はその捜査で品川まで出かけます。忠右衛門もその捜査で遊女のいる切り見世に入り浸りでした。そんな舅を連れ戻しにいけと夫に言われ、のぶは下男の次郎助と迎えにいきます。その帰り、深川の回向院前の淡雪豆腐屋に入ります。久しぶりにのぶはおいしい食べ物を口にします。しかし、それは正一郎の知るところとなります。のぶは食い物に仇されているのです。

 のぶの実家は例繰方を務める磯谷家で、思いあまって母親にその事を話します。ただし、のぶの戻る場所はありません。長男の恵兵衛が正一郎に事の次第を話しますが、折り悪く話しはこじれ、売り言葉に買い言葉でけんか別れになり、正一郎は戻ってくるとのぶに手を上げます。のぶが家を出る決心をし、最後に忠右衛門とのぶは水雑炊を作ります。別れの水盃ではなくて水雑炊なのが忠右衛門の粋な計らいです。残り物で拵えたそれは心に残る美味しいものでした。そんなことで、のぶは伯母のところに身を寄せることになります。そこは料理茶屋でのぶの暮らす武家屋敷とは全く趣が違います。忙しい時は帳場の手伝いもしなくてはいけません。料理屋の「おす川」には長男の貞助がいますが、まだ独り者です。その貞助が、家人がいない時にのぶを手込めにしようとします。間一髪で難は逃れますが、もう伯母のところにもいられません。

 こんなこともあり、のぶは暑気あたりで倒れ、実家に戻されます。肩身の狭い思いですが、事の成り行きを知っている10歳の甥の冬馬にも心配され、一度正一郎と話してはといわれる始末です。そんなとき、思いを寄せていた女の子供がかどわかしに遭います。事件を追って正一郎は東奔西走します。のぶは兄の恵兵衛に言われ、事件には女が絡んでいるのではと椙田家に知らせにいきます。その事は舅に話すつもりでしたが、正一郎もその場に居合わせました。退出する時、のぶは正一郎に呼び止められ一緒に水茶屋で話しをします。正一郎と一緒に食べる心太は辛く酸っぱいものでした。のぶは思いの丈を正一郎にぶつけます。
「私はお前さまと二人でいても、一人でいる時よりずっと寂しかった。」
この言葉は正一郎の胸にぐさっと突き刺さります。

 かどわかし事件はのぶの機転により無事解決します。影に日なたにのぶを心配していた忠右衛門はのぶの活躍に大喜びです。のぶはその忠右衛門の勧めで女筆指南所のおひでのところで働くことになります。おひでには一人息子の輝助がいます。文武両道に優れているようで10歳で冬馬と一緒です。ところがこの息子はただの町家の息子ではありません。さる藩の藩主の落胤だったのです。藩の跡継ぎの息子が亡くなっていて、輝助が戻ることになるのですが命を狙われている節があります。忠右衛門が付き添って磯谷家に向かう途中俗に襲われます。剣がからっきしの忠右衛門ですが、女子供は守らねばなりません。その時、冬馬が通りかかり石を投げて援護し、やがて正一郎も駆けつけます。しかし、忠右衛門は額に怪我を負ってしまいます。そんなことで、のぶと輝助、冬馬は椙田家に泊まることになります。ここで舅に作るのが卵のふわふわのです。それには正一郎も鰹節を削って協力してくれます。のぶはそんな正一郎は見たことがありません。卵のふわふわは砂糖を加えるのがミソのようです。それはのぶと正一郎の間をとりもつ忠右衛門のようでもあります。

 さあ、大団円です。ここでは油屋・桐屋の娘、おゆうが料理茶屋で夫婦喧嘩の末、出産してしまうことから事件が起こります。おゆうの亭主は入り婿でした。しかし、男の子を産んだので自分はもう用がないと姿を消してしまうのです。その男を追って正一郎は品川に向かいます。昔の品川は朱引きの外で江戸ではありません。その品川は忠右衛門の妻のふでの故郷でもあります。なんとなれば、ふでは品川の引手茶屋の娘でした。品川で出奔していた忠右衛門はいつしかふでと深間なっていました。そんなことで事件を解決し江戸に戻った時は妻となった次第です。そういうことを聞かせれた夜、椙田家は女中の作った黒豆をつついていました。その中には赤く色付けされたちょろぎが入っています。ちょろぎは黒豆と一緒に出される正月料理です。甘酸っぱくてちょっと辛い食べ物です。黒豆の惹き立て役みたいなものですが、甘い黒豆とは好対照で主役ではありません。ところが椙田家はみなこれが好きなのです。

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                        ちょろぎと黒豆

 事件は解決し、のぶはやはり正月を磯谷家で迎えます。年が明けて、忠右衛門は妻のふでと一緒に墓参りのつもりで品川に出かけます。戻って来たら隠居することにします。しかし、忠右衛門は戻って来ませんでした。海釣りをしていてそのまま波にさらわれたようです。のぶは兄からその話を聞きに椙田家へ向かいます。ぽつんと一人佇む正一郎の胸にのぶは顔を埋めます。離縁は無くなりました。ただ、死体があがらないので役所には永訪ねの扱いにしてあります。忠右衛門は一度葬式を出された身ですからね。そんなこともあり、のぶは優しくなった正一郎との間に待望の子を儲けます。それは忠右衛門の生き写しの様な男の子でした。

 この小説はのふせの目を通して、男と女の有り様が描かれていますが、その間を取り持つのが登場する食べ物です。それは主食となり得るものは一つもありません。タイトルにも「江戸前でもなし」との断りがあるように、ただただ、舅の忠右衛門が嫁ののぶを慮っての食べ物であるかのように登場させています。心太だけは夫の正一郎の好みのようですが、それをものぶは食します。最初、のぶは鰻もだめ、ひかりものの魚もだめ、、塩辛、粕漬け、麹漬けの癖のあるもの、紫蘇、茗荷などの香り野菜もだめなのです。そういうのぶを慮った忠右衛門の優しさが光る作品です。最後のちょろぎはまさに、忠右衛門そのものを表した食べ物として登場します。無用の用としてのちょろぎが忠右衛門なのです。その好き嫌いのはげしいのぶが、妊娠した後は何でも口にするようになります。正一郎も変わりますがのぶも変わっていたのです。そんなことで、夫婦仲は元に戻り無事子も宿すことが出来たのです。

 最初は食べ物草子かと敬遠していましたが中身は全く違いました。どのようなものも題材にしてしまう宇江佐真理さんの創作力には脱帽です。もしこの作品がドラマ化される様なことがあれば、忠右衛門の役は是非とも小林稔侍さんにやってもらいたいですね。