デニス・ラッセル・デイヴィスの英雄 | geezenstacの森

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デニス・ラッセル・デイヴィスの「英雄」

 

曲目/ベートーヴェン
交響曲第3番変ホ長調Op. 55「英雄」
1. Allegro Con Brio 19:01
2. Marcia Funebre: Adagio Assai 16:13
3. Scherzo: Allegro Vivace 5:35
4. Finale: Allegro Molto 12:53
5.コリオラン序曲Op. 62 7:45

 

指揮/デニス・ラッセル・デイヴィス
演奏/ボン・ベートーヴェン・ホール管弦楽団

 

録音/1993
  
P:グレゴリー・K・スカイレス
E:グレゴリー・K・スカイレス
MUSICMASTERS 01312-67121-2

 

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 指揮は最近、リンツ・ブルックナー管弦楽団とのブルックナーの交響曲全集録音で脚光を浴びているデニス・ラッセル・デイヴィスですからご存知の人も多いのではないでしょうか。しかし、彼がベートーヴェンの「エロイカ」を録音していたのを知っている人は少ないでしょう。アメリカでは当時のBMGがディストリビュートして発売していましたから紹介されましたが、日本ではこの演奏は発売されたことが無いと思います。当時はベートーヴェンの「エロイカ」なら何でも買い集めていたので引っかかったディスクです。懐かしいのはボン・ベートーヴェン・ホール管弦楽団の演奏です。デニス・ラッセル・デイヴィスは1987年から1996年までここの常任を務めていましたからその間に録音されたことになります。

 

 このボン・ベートーヴェン・ホール管弦楽団は、人生で初めての海外旅行で最初に聴いたオーケストラでした。それまで、旅行なんで国内でもまともに行ったことが無いのに、いきなり海外旅行でしかも1ヶ月という旅行を計画したのです。ま、今で言う卒業旅行なんですが、当時は学生向けの海外卒業旅行はダイヤモンド・ビッグ社の独占状態でした。そう、あの「地球の歩き方」を発行している会社です。そこの企画のヨーロッパ旅行1ヶ月というものに参加したのです。ツアーといっても最初の1日目のホテルと、最後の集合場所のホテルがセットになっているだけであとは自由に行ってくださいという旅行です。今でこそ、こういうフリーツアーは当たり前ですが1970年代は物珍しいものでした。出世払いのローンを組んでいざ出かけました。当時は1$が360円の時代です。クレジットカードなんてありませんからトラベラーズチェックが当時の主力です。

 

 詳しいことは思い出せませんが、とにかく最初のホテルで一泊したあとは自由行動です。ほとんど毎日行動を友にするメンバーは違います。今考えるとロンドンではミュージカルを観、このボンではオーケストラコンサート、ウィーンではオペラを鑑賞しました。どうやってチケットを手に入れたのかとんと思い出せません。とりあえず種とっとガルとからライン川に沿って鉄道で移動してボンに入り、その地でこのオーケストラを聴いたことに間違いはありません。ただ、コンサートに行ったことは覚えていますが、指揮者は誰だったのかも今となっては思い出せませんが、曲目にドヴォルザークの交響曲第8番があったことだけはなぜか覚えています。

 

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      ここがベートーヴェンの生家です

 

 ところで、なぜこのボンに行ったかというとそこはベートーヴェンの誕生の地であったからです。ボンの駅の直ぐ近くにあったと記憶しています。そこは博物館になっていて日本語の説明書も置いてありました。そんな中にコンサートのパンフレットもあり丁度訪れた日にゆかりのオーケストラのコンサートがあると出ているではありませんか。当時はバックパッキングの旅行で日程はあっても未定のスケジュールです。急遽、列車の時刻表を調べコンサート終了後に乗れる列車を探しコンサートを聴くことにしたのです。一人旅だから出来る行動ですね。というわけで、初めてのコンサートはこのボン・ベートーヴェン・ホール管弦楽団の演奏会となった次第です。

 

 脱線ついでに、一般にはベートーヴェンと言えばウィーンで手からの活動ばかりがめだつていますが、このボン時代こそ多感な青年期を過ごしたベートーヴェンの基礎が確立された場所でもあるのです。ちょいと歴史のお勉強を・・・

 

ベートーヴェンを育んだ街、ボン。ベートーヴェンを生んだ街として、また戦後40年間旧西ドイツの首都だったことからその名が知られています。大国の首都だった割には小さな町で、現在の人口も30万人と主要都市として仲間に入れてもらえるかどうかといったところです。

 そのような認識から私たちは不用意に「田舎町ボンからハプスブルク家の帝都ウィーンへ出てきたベートーヴェン」などと決まり文句のように言ってしまいます。ところが18世紀のボンは後にも先にもないほどの文化的な活況を呈していたのです。無論ウィーンと比べればその規模は小さなものですが、ヨーロッパ各地の先進的な情報を得るには十分な街でした。

 当時のドイツはいくつもの侯国の集合体で、文化面では特に、領主個人の趣味が色濃く反映されそれぞれ特色をもっていました。ボンは神聖ローマ帝国の選挙権を有する選挙侯によって治められていた町です。ボンの文化的下地は17世紀前半の選挙侯フェルディナントの時代から始まります。宮廷ではイタリア音楽が鳴り響いていたということです。18世紀に入ると音楽を推奨し自身でも音楽を楽しむ選挙侯が続きます。ヨーゼフ・クレメンス侯(在位1689~1723)は作曲をたしなみ、クレメンス・アウグスト侯(在位1725~61)はヴィオラ・ダ・ガンバを演奏し、教会音楽に限らず宮廷楽団を置き、演劇を支援したということです。音楽好きのリーダーが続くというのは幸せなことです。次のマックス・フリードリヒ(在位1761~84)の時代にも国民劇場の設置がなされるなど文化が花開きました。この選挙侯の元では歌手であるベートーヴェンの祖父が一時期楽長に就任しました。ボン最後の選挙侯になったマックス・フランツ侯(在位1784~94)は時の皇帝ヨーゼフ二世の弟で、兄同様、啓蒙政策を敷きボンを文化的な一大拠点にしました。

 マックス・フランツ侯は1785年に大学をつくり、学問により国民に光を当てることに力を注ぎ、急進的な教授陣を招くことにも躊躇せずボンを啓蒙思想の中心地としました。マックス・フランツ侯がそんな政策を急激に進めている中ベートーヴェンは、多感な青年期を迎えるのです。若かりし頃に受けた考え方や思想というのは、その人間の血肉となり人生の礎となるものです。1789年の夏学期にはベートーヴェンもこの新しい大学に入学しています。

 急進的な革命家シュナイダー教授から正義と自由についての考えを。フランス革命の理念と通ずるシラーなどを知ったベートーヴェン。揺るぐことのない共和主義的態度、教会的宗教を疑う態度を養い、さらにそこから派生してインドや東洋的考えを身につけるようになるのです。瞬間的に築かれたボンでのこの輝かしい時代に、ベートーヴェンが青年時代を過ごしたことはなんと運命的なことでしょう。単なる才能豊かな音楽家にとどまらない、深い思想を兼ね備えたベートーヴェンの基礎はボンで育まれたのです。

 

 こういう風土もあって第2次世界大戦後は西ドイツの首都はボンに置かれていたのですね。

 

 さて、本題に戻ります。ジャケットを見てもお分かりのように真ん中に
「THE FIRST RECORDING BASED ON THE NEW CRITICAL EDITION」
と書かれています。まあ、この一言に目を奪われてこのCDを入手したことは間違いありません。このニュー・エディション、何が新しいのか?結論はさっぱり分かりません。交響曲第3番のオリジナルスコアは紛失しています。この録音は残されている写譜とパート譜をもとにボンのベートーヴェン研究所のそのせいかに基づいて録音されたものということになっていますが、にわかに信じられません。何となれば、第1楽章のトランペットの扱いはベートーヴェン時代のそれではなく近代の演奏法を使って録音されているからです。

 

 演奏は極めてオーソドックスです。テンポの設定にしてもそうですが、オケの鳴らし方も奇をてらったところがありません。ややティンパニの音がバランス的に大きくそれでいて音がぼやけているのがやや難点です。ブックレットによるとこのオーケストラのメンバーは全部で122名だそうですがもちろんここでは全員は演奏していないでしょう。弦の響きはやや線が細いものでドイツのオーケストラとしては重量感の無い響きですが、くっきりとしたテクスチャーで新鮮な響きとは言えます。近代オーケストラの録音ではこのあとベストセラーを記録するジンマン/チューリッヒ管弦楽団の演奏が登場するわけですが、それとは対照的な響きです。

 

 

 リピートはすべて繰り返すということで第1楽章は19分にも及ぶ演奏時間ですが、そういう長さは感じさせません。たた、キャッチコピーに踊らされて期待すると少々がっかりする演奏ということになってしまいます。そういうポジションの演奏なので発売時にもあまり話題にならなかったのでしょうね。デニス・ラッセル・デイヴィスとしてはこのあとブルックナーでブレークしますが、このボン時代はあまり個性的なキャラクターではなかったようです。