小沢征爾/スラヴァの共演
プロコフィエフ/協奏交響曲
1.第1楽章 10:17
2.第2楽章 17:03
3.第3楽章 9:50
ショスタコーヴィチ/チェロ協奏曲第1番 変ホ長調
4.第1楽章 6:23
5.第2楽章 9:59
6.第3楽章 5:04
7.第4楽章 4:40
チェロ/ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
ホルン/ヒュー・シーナン
指揮/小沢征爾
演奏/ロンドン交響楽団
録音/1987/11 ヘンリー・ウッド・ホール ロンドン
ホルン/ヒュー・シーナン
指揮/小沢征爾
演奏/ロンドン交響楽団
録音/1987/11 ヘンリー・ウッド・ホール ロンドン
P:ヴォルフ・ウェルト、クラウス・L.ノイマン
E:ハンス・マルディン・レンツ
E:ハンス・マルディン・レンツ
ERATO R25E-1036

小沢征爾はこのロンドン交響楽団とも深い繋がりがあり、けっこう録音を残しています。RCAにはフリードマンのソロでチャイコフスキーの録音があるし、ソニーにはシュニトケの録音もあります。そんな中でエラートに録音したのがこの一枚です。プロコフィエフの「チェロとオーケストラのための協奏交響曲ホ短調op.125」は初め1938年「チェロ協奏曲 第1番Op.58」として完成していますが、初演されたが不評に終り、その後1947年ロストロポービッチによって取り上げられ、それを聴いて意を強くしたプロコフィエフはロストロポービッチに相談して改作したものがこの作品というわけです。
昨年亡くなったロストロポーヴィチですが、奇しくも丁度そのとき日本では彼のドキュメンタリー映画の「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」が公開されていました。作品としてはドキュメンタリーということであまり完成度の高いものではありませんでしたが、その中でプロコフィエフとショスタコーヴッチについて語っているところがあり興味深かったのを覚えています。印象に残っているのは、プロコフィエフとショスタコーヴィチとの比較の話で、ロストロポーヴィチに言わせると、この二人の大作曲家は互いにロシアの別の側面を代表していて、優劣は比較できないという。ショスタコーヴィチはロシア人の意思の強さ、不屈の魂を代表していて、プロコフィエフはロシアの雄大な大地をルーツに持っているということです。
なるほど、ここで聴かれるプロコフィエフの音楽の方がどちらかというと民族的・土俗的な音楽というイメージがあるし、それに比べるとショスタコの方は個人的・内声的な内容の音楽という感じがあります。さすがに両者と親交のあった稀代のチェリストだけに示唆に富む発言で興味深いものでした。
1952年2月18日にモスクワでロストロポービッチによって初演されました(その時の指揮は何とリヒテルが務めています)。ということで極めて完成度が高い作品でプロコフィエフの代表作の一つにあげてもいい作品ではないでしょうか。`
この両作品ともにロストロポーヴィチのために作曲されているということもいかに彼の存在が大きかったかということを示しています。プロコフィエフの作品は1952年ということで、死の前年の作品ということになります。主題はチェロ協奏曲第1番の改作ということで同じものが使用されていますが作品としては全く別物といっていいでしょう。晩年の枯れた作風の中にプロコフィエフの書法が凝縮された見事な作品で、タイトルからも解るように、協奏曲というよりはよりシンフォニックな作品に仕上がっています。ロストロポーヴィチのチェロはもうこの曲の代表的な名盤といっていい出来で、それを盟友の小澤征爾が万全のサポートをしています。どちらかというとわりとあっさりした味付けのオーケストラの鳴らし方で、彼の無国籍的な特徴がよく出ています。もう少し泥臭いところがあってもいいと思いますが、これが小澤の美的感覚なんでしょうね。
一方のショスタコーヴィチは生涯に2曲のチェロ協奏曲を作曲していますが、こちらは両曲ともロストロポーヴィチのために作曲されたものです。ショスタコーヴィチは、自分と同じ旧ソ連が生んだ大チェリスト、ロストロポーヴィチの桁外れの実力を目の当たりにして、彼のために2曲のチェロ協奏曲を作曲してのですね。彼なくしては生まれなかったと思われる作品です。このCDでは4楽章構成となっていますが、第3楽章はカデンツァなので、実質的には急―緩―急の3楽章編成の作品として捉えた方がいいのかも知れません。でもカデンツァが長大なので、この演奏では独立した楽章とみなしているようです。
生涯最後のセッション録音となったロストロポーヴィチの演奏は、さすがにこの曲を知り尽くしたという余裕の演奏です。ただ、この曲が作曲された当時の時代背景からするとやや切れ味が無くなったかなぁという印象はあります。そういうすごみは消えていますが、円熟による内声的な歌い回しはより深くなっています。小澤のサポートはそれに輪をかけたような暖色系のややショスタコーヴィチの音色とはかけ離れたものでもう少し切れ味鋭いシャープさが欲しいと感じられます。それでも、この録音は決して色褪せるものではなく記録としての名演の価値は変わりません。

そういう意味では、1985年にゴルバチョフが登場し押し進められたペレストロイカとグラスノスチで世界が緊張から緩和への方向性に傾いた時代背景が、大きく影響している録音といえるのではないでしょうか。ロストロポーヴィチが生きていて、もう一度この曲を取り上げて録音したならばまた違った演奏が展開されたかもしれないような気がします。このエラートのジャケット写真では小沢征爾は自身の名前の入った浴衣を着ています。それに対して、スラヴァは正装です。平和な国日本の聴き手に回り腰に手をかけている姿と、国家と思想闘争を続け両手で主張を表現しようとする人間の考え方の違いがこの写真に現われているようで興味深いものがあります。最近のジャケットはその部分がカットされていますからこの写真は貴重です。