
院長はソファで息絶えていた。テーブルにはブランデーボトルとグラス。いずれからも青酸反応が認められた。病院は多額の負債を抱え、院長にはそれを返済してもなお余る巨額の生命保険がかけられていた。自殺か、他殺か。捜査はいくつもの推論のあいだで揺れ動く。推理の醍醐味を満喫できる傑作ミステリー集。---データベース---
短編三作が収められた一冊です。どれもこれも、精緻な筆逹で警察の捜査方法の一部始終が事細かに描き込まれています。殺人事件の場合身元が割れれば事件は半分以上解決したも同然といわれますが、これらのストーリーもそういう基本設定に基づき刑事たちが犯人割り出しに活躍します。
◆最後の藁
「最後の藁一本が駱駝の背を折る」という言葉をご存じですか?故事の一つで、いかにタフなラクダの背中も、過重な負担には耐えられない。限界ギリギリまできていたら、例えあとワラ一本載せただけでもラクダの背中も折れてしまう。そこからきています。そのココロは、「我慢の限界を超えさせる最後のトドメ」という意味で、言わんとするところは、大いなる不安に苛まれながら、変化ストレスは蓄積しつつある。昔だったら笑って済ますような些細なストレス(ストロー)でも、切羽詰まった精神状況においては感情の暴発を招きがちになるということ。
このストーリーはそういう故事に基づいたストーリー建てです。死亡していた病院の院長は青酸死です。しかし、ブランデーを飲んだグラスとボトルの中の青酸の濃度が食い違っているのです。このことから、殺人は当事者に近しい人間に疑いがかかります。その日、院長の妻は女友達と湯布院に泊まりがけでゴルフに出かけていてアリバイがあります。しかし、このゴルフ旅行にはちょっとした裏があります。各人の部屋はシングルで、翌日のゴルフのスタートも早朝というスケジュールです。最初はその時間しかとれないということでしたが、実際はその時間が指定されたものでした。妻のアリバイが崩れかけます。そうなんです。その設定は愛人との密会の時間をつくるための工作であったのです。病院の経営は火の車で、夫婦の住む屋敷も抵当に入っていました。夫の保険金が降りれば病院は安泰という状況だったのです。しかし、妻は、そんなことより愛人との時間を過ごすためにゴルフ旅行をセットしたのでした。
事件は振り出しに戻りますが、刑事たちの地道な聞き込み捜査は、事件解決の突破口を見つけます。殺人という最後のトリガーを引いたのは意外な人物でした。こういうのを正当な推理小説というのでしょう。目立ったヒーローはいませんが事件は確実に解決してゆきます。そして、残された妻は愛人と結ばれるかというと、それは読んだ人だけが知ることになります。
◆たおやかな落下
銀行の支店長が人を轢いてしまったと警察に出頭します。しかし、彼が轢いた女性はすでに死後数時間経っていて死後硬直が始まっていました。彼は死んで道路に横たわっていた死体の女性を轢いてしまったのです。しかし、早朝のゴルフ練習に出かける時には死体がなく、帰ってきた時にあったというのです。死体が勝手に動いたとは思えない矛盾がありました。最初、身元不明でしたが、行方不明者の捜索依頼が出されていてまもなく身元が割れます。夫の話では普段めったに出かけない妻がいないのは不自然というわけです。夫には出張のアリバイがあり、ようとして犯人が浮かんでこなかったのですが、近所の聞き込みでたまに夫婦の自宅に背の高い男が訪れていた事が明らかになります。犬を飼っていたということで獣医だということが判りますが、私服で訪れていたことに不信を感じます。そして、追及すると愛人であったことが判ります。そして、男がおおとずれた時には女はすでに庭で死んでいたということが語られ、自分のアリバイをつくるために死体に工作をしたことを認めます。しかし、死体は約1キロ離れた場所で発見されたのです。
発見場所まで死体を運んだのはなんと落つとでした。実は夫婦の家は売りに出ていて、その家で妻が死んでいたということになると何かと面倒になるので死体を移動したというのです。はたして、妻は自分でベランダから庭に落ちて死んだのでしょうか?妻の友人の言葉が耳に残ります。
「・・・終わりが来る前に、私が消えるわ、って。誰にも迷惑がかからないよう、絶対に自殺とは思われない方法で・・・」
「・・・終わりが来る前に、私が消えるわ、って。誰にも迷惑がかからないよう、絶対に自殺とは思われない方法で・・・」
死人に口無しですが、死んだ妻は二人の男に愛されて幸せでした。その自分の最後はしたたかな決意を秘めているようで読み終わって女の業の深さを思い知らされた気がしました。
◆仮説の行方
二人の女が喫茶店の駐車場の裏で殺されます。一見無差別殺人のような状況です。刑事たちが必死に殺された女の身元を洗い背後関係を調べます。一人はフィットネスクラブのインストラクター、もう一人は企画会社の契約社員でした。二人は全く関係がなく、事件の関連性が伺えませんでした。しかし、犯人が自首してくると事件の様相は一変します。容疑者は全く一人の女は無関係に殺してしまったと主張するのです。しかし、携帯に残された着信の履歴は主張を裏付けてはいませんでした。犯人の背後に、別の男が介在したことがおぼろげながら浮かんできます。しかし、それは仮説でしかありませんでした。
そんな時、犯人の妻が動きます。弁護士を訪れ封筒を預けます。警察は、尾行してその事実をつかむと捜査令状をとってその封筒を押収します。それは一本のカセットテープでした。そこには、契約殺人の誓約が吹き込まれていたのです。やはり、影の男は存在しました。しかし、妻はそれを裁判の後に公にして欲しいと願っていたのです。妻は夫の「一事不再理」を願ってとった処置でした。やましい金を受け取る契約よりも、夫の刑の減免を願う妻の毅然とした意志でした。
いざ、夫が殺人を犯した段になってもけなげに夫に従う妻の姿に、先の二作品とはちがう女の生き様を感じます。ここでは触れませんでしたが、夫婦には女を憎むそれなりの理由があったのです。
先にも書きましたが、推理小説としては寸分の隙もない完璧なストーリーです。警察はきっちりとした捜査を行ない、しかる後に犯人を逮捕しています。こういう小説に巡り会えるときは幸せを感じます。