ジャワハルラール・ネルーは、マハトマ・ガンディーとともにインド独立運動を指導し、1947年インドの初代首相に就任します。しかし、国内の経済政策では成功を収めるに至らず、晩年に行き詰まりを見せる中、亡くなってしまいました。
【ネルーの生い立ち】
1889年、インド北部の富裕なバラモン階級の家柄に生まれた彼は、イギリスに渡り弁護士の資格を取得して帰郷。
【独立運動】
ネルーはすぐにインド独立運動に身を捧げ、マハトマ・ガンディーやスバス・チャンドラ・ボースなどと共にイギリスからの独立運動を指導していきます。その後ネルーは何度も国民会議議長に選出されますが、その間何度も投獄されています...
(獄中生活は通算10年)
【ネルーの国際政策】
国際的には「非同盟・中立」の外交を推進し、1954年、中華人民共和国の周恩来と会談を行い、1.領土主権の尊重 2.相互不可侵 3.内政不干渉 4.平等互恵 5.平和共存 の「平和五原則」を掲げます!
翌1955年には、周恩来(中国)、スカルノ大統領(インドネシア)、ナセル大統領(エジプト)と共にアジア・アフリカ会議を開催し、反帝国主義・反植民地主義を謳い、平和五原則を拡充した「平和十原則」を定めます。
【ネルーの国内政策】
内政的には民主主義体制を堅持し、ガンディーとネルーのカリスマにより、ネルーが死去するまで政権交代は一度も起こりませんでした。
【晩年】
高い理想に基づく政治や彼の立ち居振る舞い、廉潔さ、さらにはマハトマ・ガンディーの後継者として高いカリスマ性を持ち続けますが、晩年、ネルーは様々な問題に直面することとなります!
友好的な関係を築こうとした中華人民共和国とは、チベット亡命政府をインドが抱えていることや国境線などを巡って対立を深め、中印国境紛争でインドは敗北...
さらに、人口増加に伴い国内の経済は行き詰まり、国民の多くは貧しいまま...
そして1964年5月27日、首相在任中に心臓発作で亡くなります。遺体は荼毘に付され、墓としてシャンティ・ヴァナが建立されました。
【日本との関連】
日本が白人国であるロシアを打ち破ったこと(日露戦争)で、インドは、「欧米列強の植民地支配にあえぐアジア諸国の民が自らの力でそれを打破することができるということを示した」と賞賛!しかし、その後大日本帝国が欧米帝国主義と同じく、近隣諸国を植民地支配下に置いたことを強く批判!
《インドゾウを寄贈》
第二次世界大戦前、上野動物園には3頭のインドゾウがいましたが、「空襲で逃げ出して暴れたら困る」と殺処分(実際には餓死)されてしまいます。(童話『かわいそうなぞう』を参照)
「東京でゾウが見たい」
という子供たちの声に
ネルーは「日本の子供たちにゾウを見せてあげたい」
と1949年、1頭のゾウを上野動物園に寄贈!
上野動物園で象と対面するネルー首相
《仏舎利を寄贈》
「愛は戦いである。 武器の代わりが誠実であるだけで、それは地上における最も激しい、厳しい、自らを捨ててかからねばならぬ戦いである。」
「人間の中には、何かしら悪魔的なものもあると同様、神に似た何かが存在する。」
「世には笑いのときもあれば涙のときもあるように、働くときもあれば遊ぶときもある。そして、今日こそ、この国にあっては、その働くときである。」
「歴史を読むのは楽しみだ。だが、それよりもっと心を引き、興味があるのは、歴史を作ることに参加することだ。」