最近ちょっと感動した動画を見たので、その紹介をしたいのですが。

ただしその動画、1時間以上もあるものなので、単に「興味のある人は見てね~」ってブログ記事に貼っても、普通は見ないですよね。

そこで、今回はその動画に関する予備知識編としたいと思います。本題は次回の記事で。

 

江戸時代の「和時計」について書いておこうと思います。

 

日本に西洋式の機械時計が伝わったのは1500年代の中盤とされています。

西洋では当時から季節に限らず1日を24時間に均等に分けていましたが、日本では室町時代頃から(それ以前は定時法だったらしい)江戸時代が終わるまで、日の出(明六つ)から日没(暮六つ)までの昼・夜をそれぞれ6等分する不定時法が使われていました(天文や暦法で使う時法は一貫して定時法だったとの事)。

 

Keisan サイト」 より

 

上の図を見ても分かるように、特に夏と冬では昼と夜の長さが大きく違う為、一刻の長さが季節によって異なっていた訳です。

そんな中、定時法の西洋時計が入ってきたのですが、だからと言って時の刻みを西洋風に改めた訳ではなく、日本人は西洋時計を工夫して不定時法に対応した日本独特の「和時計」を作り上げたのでした。

この頃の日本人は、今以上に季節を体感しながら生きてきたのですね。何せ、四季の変化に伴う生活リズムの方に時刻(時計)を合わせたのですから。

江戸時代には多くの種類の和時計が製作されています。

 

2005年 「NHK ハイビジョン特集」 より

 

これは等間隔の円い文字盤を針が回って時計を示すタイプ。時刻表記は現在のものとは違いますが、今でもみられる形式です。

しかし不定時法時代の江戸の世では機械的な工夫が必要でした。

 

2001年 「サイエンスチャンネル」 より

 

時計の文字表記は、上図のような意味になります。

因みに上の方では簡単に書きましたが、厳密には明六つは日の出36分前、暮六つは日没36分後という事です(太陽高度が-7.36度の時)。

 

 

 

このタイプの和時計では、夏は日中が長い為に針の進みを遅くする必要があり、夜は逆に早く進める必要があります。冬はこれの反対になりますね。春分・秋分は昼夜同じスピードです。つまり不定時法は機械式時計にとっては、何とも厄介な時法なのが分かります。

 

 

先の時計は二挺天符式といって、分銅を付けた櫛歯状の横棒(天符:テンプ)が振動して、針を進めるスピードをコントロールしています。

天符は2つあって、上が昼用、下が夜用。明六つ・暮六つで昼用夜用に自動で切り替わるように仕掛けを工夫していました。しかしそれでも季節によって一刻の長さが変わってくるので、約2週間に一度、それぞれの分銅の位置を変える必要がありました。

 

下の動画に和時計の概要や二挺天符式時計の動作原理が説明されています。興味を持った人はどうぞ(4:55~12:00)。

 

 

そしてこちらは尺時計の数々。

 

2005年 「NHK ハイビジョン特集」 より

 

このタイプは縦長の文字盤が1日に相当します。

 

 

針は上から下に一定のスピードで動いて時刻を示します。

 

 

 

このタイプも約2週間に一度、時刻の長さが違う文字盤を入れ替えるなどして不定時法に対応しなければなりませんでした。

この時代、和時計の完全自動化は困難と思われていました。

 

しかし江戸時代の終盤に、それを成し遂げた人物が現れます。

しかも「和時計」に加えて、京都から見た太陽と月の動きを表した「天球儀」、「二十四節気の表示」、「曜日表示」、「十干十二支の表示」、「月齢表示」、「洋時計」という7つの機能(+打鐘機能)を一つのハコに配置し、完全自動化させたというのだから、まさに驚くばかり。

梅之助が見た動画のコメント欄は称賛の嵐でした。

 

「平賀源内とは比べ物にならない本物の日本の発明王。源内以上に偉人と呼んでも過言じゃない」

「このひとは、時代を突き抜けている。天才という言葉は、みだりに使う言葉ではない。だがこのひとはレオナルドダビンチに優るとも劣らぬ天才だろう」

「天才という言葉すら軽く聞こえるレベル」

「これはオーパーツ(その時代に有り得ない物)でいいのではないか?」

 

その時計を「万年自鳴鐘」(万年時計)といい、製作者は田中久重といいます。

 

 

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