気付きませんでした。

1月31日にキング・クリムゾンやUK、そしてエイジアに在籍したジョン・ウェットンが亡くなっていました。
67歳、ガンだったそうです。昨年12月のグレッグ・レイクの訃報に続く悲しみです。
梅之助にとって、この人こそが洋楽への伝導者でした。寂しい意味で感無量。
心よりご冥福をお祈りいたします。
 
 
 
 
(上左)2006年頃 Wikipedia より
(上右)キング・クリムゾン時代
(下左)ジョン・ウェットン公式HPより 2009年エイジア・モスクワ公演
(下右)同上
 
梅之助が10代の中頃、彼が中心となったエイジアの1stアルバムをリアルタイムで聴いたのが洋楽の始まりでした。エイジアの曲調は決してプログレとは言い難かったけれど、ポップで良質なハードロックは洋楽入門には最適でした。その後、エイジアメンバーの音楽的系譜を辿る事を通して、プログレリスナーの道へと迷い込んでしまったのが懐かしい思い出です。こういうパターンの人、意外と多いと思います。
ジョン・ウェットンといえばエイジアでの活躍が語られることが多いですが、特筆すべきはキング・クリムゾンでのアルバム「Red」製作時の功績を梅之助は忘れる事が出来ません。当時、やる気をなくしていたロバート・フリップを宥めすかして、以前関わったメンバーをゲストに呼んでアルバム完成までこぎつけたのは彼の尽力が大きいそうです。ヘタすれば、あの名曲「starless」は誕生しなかったのですからね。同曲における少しハスキーなVoとラスト近くの攻撃的なベース・リフは終生、梅之助の心に残るでしょう。
 
多くの、特にプログレ界隈のミュージシャンから追悼の声が寄せられています→「amass」サイト。
特にオリジナル・エイジアメンバーだったジェフリー・ダウンズとカール・パーマーのものは日本語訳にもなっているので、掲載サイトを紹介しておきます。
ジェフリー・ダウンズ →こちら「NMEジャパン」
カール・パーマー →こちら「NMEジャパン」
そしてキング・クリムゾンのリーダー、ロバート・フリップからの追悼は直接紹介しておきましょう。
 
「ジョンは…、とても安らかに、痛みもなく亡くなった。それは有難いと思う。12年間ジョンのマネージャーを務めたMartin Darvillとも話した。ジョンは5時25分に旅立った。
ジョンとは、1965年ボーンマス・カレッジで、2人の10代の学生、地元のギグ仲間として出会ったのが始まりで、約42年間、友達だった。
JWは僕にとって、彼の時代を代表するベーシストで、インターナショナル・クラスのプレイヤーだった。ジョンはその後、シンガー、ソングライターとしてトップに躍り出て、エイジアのデビュー・アルバムは1982年世界で最も売れたアルバムとなった。僕らは良き友人であり続け、1992年ジョンがLAに住んでいるときに一緒に仕事をしたり、2000年代ジョンがボーンマスに戻ったときは、より頻繁に会ってコーヒーとケーキを楽しんだ。
この10年の間、勇敢で立派な姿勢でアルコール依存症に立ち向かい、それについて正直に話すJWは僕のヒーローになった。あまり良くない時期および良い時期にジョンのもとを訪れ、僕らはそれまでの30年間以上に親しくなった。彼の会話は素晴らしく明白で、正直でポジティブで、励みとなるものだった。そして、リサ(ウェットンの奥さん)。彼女に声援を! 僕の友人を幸せな男にしてくれて、ありがとう」
 
上記追悼の文章は「BARKS  JAPAN MUSIC NETWORK」より。
それにしても、このリンク先の写真で、フリップと一緒に写っているの本当にウェットンなの?
信じられないくらい痩せてしまってたんだね・・・
 
追悼の思いを込めて、プログレのエッセンスと、エイジアのポップさが組み合わさったUK時代の曲から好きだった二つを紹介。
多くの名曲をありがとう、ジョン・ウェットン。
 
 
 
 
 
 
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