梅之助の思想信条は世間ではいわゆる「右側」という立場になると思います。個人的には極めて穏健な中立だと思っているけれど、えへへ。。。

よく左翼の言説は、過去の日本政府や日本軍の行動をほとんど全否定していて、それはもう知性もへったくれもありゃしないという呆れたものがあります。

しかし、中には右派の主張にも「それはどうよ」というのが見受けられるのも事実。それは事実認識が不足していたり、整理されていなかったりするのが原因と思われます。

なので梅之助は思想信条、特に歴史問題について書く際は、出来るだけ客観的事実を調べて文章に反映するよう心がけています。もちろん、知識の浅い一般人なので行き届かない所もあったり、感情に任せて書いてしまう事もありますが。。。

 

前回の記事で日本軍による真珠湾攻撃の時、米側に開戦通告が遅れた事に触れました。その際、それに類するネット上の色々な記事を見ていたところ、様々な文章に出っくわしました。

例を挙げると

 

・米国は第二次大戦より後の戦争で、一切、宣戦布告をしていない。

・日本軍は真珠湾攻撃の少し前、マレー半島を攻撃しているが、なぜそちらは問題とならない?

・第二次大戦中、日本以外の交戦国で宣戦布告がされていないケースがいくつか見受けられる。

・日露戦争でも日本は宣戦布告の前にロシア艦隊を攻撃しており、なぜ真珠湾の時だけ問題となる?

 

などです。

そう指摘されると、何だか混乱してよく分からなくなってしまいますね。

そこで少し言葉の意味を確認して、分かりやすく整理してみましょう。

 

 1941年12月9日 朝日新聞

 

「宣戦布告」とは文字通り、これからあなたの国と武力で戦いますよ、と通告し発表する事。

そしてそれに準ずるものとして「最後通牒」というのがあります。

よく一般人の交渉事でも使われる言葉ですが、外交用語としての「最後通牒」とは、国際交渉において相手国がその最終要求を受け入れなければ交渉を打ち切る(事実上の外交断絶宣言)と通告する事で、外交が打ち切られれば通常、次は武力行使の段階に移る事を意味するため、戦争宣言に準ずるものだとされています。

つまり宣戦布告とは、狭い意味では上の「宣戦布告」を、広い意味では「最後通牒」を含んでいる、という事が言えそうですね。

 

実は第二次大戦当時、1907年に成立した「開戦に関する条約」という国際法があって、そこには開戦に先立ち相手国に「宣戦布告」あるいは「条件付き開戦宣言を含む最後通牒」を通告する事、という規定がありました。ただし、上で書いたように外交断絶通告だけでも実質的に後者に相当すると見なされていたようです。

この法律の発端は日露戦争で、日本が「宣戦布告」の前にロシア艦隊を攻撃した事を受けて、開戦におけるルールを整備しようという事になり成立したそうです。

日露戦争をこの条約に当てはめてみると、1904年の

2月8日日本、ロシア旅順艦隊を攻撃

2月10日ロシアに「宣戦布告」

となりますが、

2月6日日本、ロシアとの国交断絶通知(「最後通牒」)

という経緯がある為、問題にはならないという認識をアメリカを含めた中立国は示しています。

因みに第一次大戦の日本はドイツに対して、1914年8月15日に期限を一週間設けた「最後通牒」通告、8月23日「宣戦布告」、開戦、という経緯で、手続きを遵守しました。

 

 日露戦争 旅順の戦い (防衛省防衛研究所所蔵)

 

では真珠湾奇襲の際、予定時間に渡し損ねた「対米覚書」について。

よく一般には宣戦布告が遅れたと表現されるこの文書、厳密には「最後通牒」という意図で日本政府は米国側に渡したかった訳です。文書には「交渉打ち切り」が書かれているだけで「最後通牒になっていない」と字面に捉われて解釈する人もいますが、それは現代の感覚から来る認識不足です。当時は今以上に「戦争は外交の延長上」という考えが世界一般の常識であり、また当時の日米関係の雰囲気もそういうものでした。要は相手国に「次は武力行使ですよ」と分かればいいのであって、「対米覚書」も読めばそれと理解できますよ。

一方、戦前の日本における正式な「宣戦布告」は、「宣戦の詔書」というものです。世界と国民に向けて天皇の名で発せられるものですが、どちらかというと国民向けの側面が強いですね。対清国(日清戦争)、対ロシア(日露戦争)、対ドイツ(第一次大戦)、対米英(第二次大戦)の計4回出されています。

 

 日露戦争の「宣戦の詔書」(国立公文書館HP「近代国家日本の登場」より)

 

次に日本軍のマレー攻撃に関して。こちらは何らかの形で通告する事は端っから予定していませんでした。問題にならなかったのは、たまたま相手方(英国)がそういう態度を取っただけの事です。理由は推察になりますが、既に日本の同盟国ドイツ・イタリアと戦争状態であったため、米国のように国民を開戦意識へと誘導する必要がなかったからではないでしょうか。

また、第二次大戦におけるドイツ軍の戦端のほとんどが宣戦布告無しで開かれています。この点はどうなっているんでしょうね。ホロコーストという戦争犯罪の陰に隠れてしまって、問題にされていないのかもしれません。

 

 マレー攻略戦 シンガポール市内を行進する日本軍 (Wikipediaより)

 

宣戦布告について酷いケースを一例だけ。

それはソ連の対日参戦。

翌年4月まで残っていた日ソ不可侵条約を破り、ソ連が日本に攻め込んで来たのは1945年8月9日。攻撃開始の約1時間前に、ソ連の外相・モロトフは駐ソ日本大使・佐藤尚武に宣戦布告を宣言しています。佐藤大使はモロトフの許可を取り、モスクワ中央電信局から日本外務省に打電するものの、この公電は日本に届きませんでした。実はモスクワ中央電信局が受理したにも関わらず、意図的に日本電信局に送信しなかったからです。日本がソ連の参戦を知ったのは、侵攻開始から約4時間後。タス通信などのマスコミ報道によってでした。

酷いソ連の背信行為です。

この事実は昨年8月8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになっていて、産経ニュースが報じています(→記事はこちら)。

 

真珠湾の話に戻ります。

ハルノートを実質的な「最後通牒」だと見る向きもあるようですが、それに関しては何とも言えません。もちろん米国の本音がそこにあるのは間違いありませんが、米国は国内世論の関係で自ら戦争に打って出る事は出来ず、日本側から開戦してもらわねばならない立場でした。よってハルノートは日米交渉の米国側からの提案という形になっています。

つまり、米国としては「まだ交渉中」というフリをしていた訳で、そこを日本軍が「最後通牒」を手交する前にハワイを攻撃してしまったので、ここぞとばかりルーズベルトがそれを最大限利用して自国を開戦に導き、日本の悪評を際立たせる結果となってしまいました。

「はめられた」とはいえ、この日本の失策は弁明の余地がありません。具体的な交渉のなかった英国とは、そこも若干事情が違うように思われます。

ただ、ルーズベルトの日本非難は日露戦争のケースも絡めて「日本は常に宣戦布告をせず、騙し討ちをする国」としており、事実を歪曲しています。そこは本当に卑怯ですね。

一応触れておきますが、東京裁判では真珠湾奇襲攻撃そのものには無罪判決が出ているそうです。

 

 日米交渉 記者会見する野村・来栖大使 (Wikipediaより)

 

戦後の米国の戦争については、調べるのも骨が折れそうなので止めておきます。米国は身勝手な国なので人を非難しておきながら、自らはしょっちゅうルールを力の論理で無視していますからね。ご都合主義もいいところ。まあ、戦前・戦後を通して、列強・大国とは皆そんなもんです。

ただし、戦後の戦争で全く宣戦布告していないというのは間違いのようで、梅之助の記憶している限りでは2003年イラク戦争の際、当時のブッシュ大統領がサダム・フセインにTV演説で「最後通牒」を突き付けています。先制空爆の後、本格攻撃の前でしたけど。

 

戦後も数多くの戦争・紛争はありましたが、有力国家がそれぞれ核の傘に収まった為、ガチンコ対決という構図がなくなり中小国同士の代理戦争となったり、国連の介入があって複雑になったりと、発端とその経過は一言では言えない現状です。

なんか北朝鮮などは常に「最後通牒」&「宣戦布告」みたいな声明を乱発しているよね。

 

以上、ざっと振り返ってみると、宣戦布告の有無に関する評価はその時々の世界情勢、対象国の政治事情などによって大きく変転するみたいです。そう考えると、いつまでも日本だけが「騙し討ち国家」という過去のレッテルを引きずらねばならないのは、明らかに不当でしょう。

 

 

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