「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

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『鈴木廣道は嘉永三年(1850)三月七日山形県飽海郡上田村大字上野曽根字郷野目端五九番地に生れた。三輪武より三ヶ月後である。代々薬師神社の神主の家柄である。長じて国学を好み四方に友を求めて交を結んだが、適々会津高田の友、板内須賀美の紹介によって本田親徳の英名を慕い、書を裁して道を尋ね、遂に入門の許可を得たのは明治十五年(1882)二月であった。三十二才の事である。その年三月意を決して上京、内弟子として仕え親しく就いて学びました。廣道が師の家族(知可夫人と薫子〉に特に親しかったのはこの為であって、当時下谷練兵町に仮寓があった様である。明治十六年は、本田霊学の主著とも云うべき「道之大原」「真道問対」の成った年であって、師に従って副島邸にも出入し、又屢々「真道問対」の事に使したので 副島の見知る処となった。

鈴木は筆者の祖父でありますが、短躯精悍の気に溢れ、直情誠実で言行に表裏なく誠心を以て師事したので、師翁の深く愛する門下の一人となった。副島又之を愛したのは、彼が山形県庄内の産であるのみではなかった。蓋し副島と庄内藩との関係は、維新の際佐幕派として官軍に抗した酒井侯に対して、平定後長州の厳罰主義に反対し、西郷隆盛と共に寛典論を唱えたので、庄内藩士これを徳として爾来交わりが深く、山形県内に遺墨の多いのは之に依ると云われて居ります。随って庄内の人士と聞けば自ずから親近感もあったでありましょうが、或日師に供して副島邸に赴き、適々揮毫の座に会し、師の口添えによって全紙及半裁二枚を戴く好意に会ったのを見ても証明せられると思われる。その二幅は本田親徳全集に収録されて居ります。

廣道は又師の静岡出向の(十六年冬~十八年〉留守中を牛込宮比町に止宿して、皇典講究所に聴講生となり、十七年四月に若き講師木野戸勝隆に就いて古典を学んだが、殆ど年齢の差がなかった為、師友として生涯親交を結んでいた。情誼に厚い一面を物語っている。十八年七月一旦帰国して家事を裁したのですが、この間屢々文書を以て神懸について師の示教を仰いで居る。十九年にも師の帰京によって上京して法術の研究をし帰国、更に二十年春上京して師の一家と共に静岡に赴き、浅間神社の麓山社に於ける幽斎に参列して帰郷、 五月四日皇法・鎮魂・神憑の允可を受け、六月帰国に際し自筆の著書を悉く授かったのであります。

祖父廣道が父重任に語った処によれば、その自筆本を授かるに当って、「汝に鎮魂・神憑の法術を授けたが、之のみを以てすれば一介の祈禱師に堕する恐れがある。故にこの書を繰返しよく読みて道を失ふ勿れ」と師より戒められたと云われます。又之より前に師の許しを得てその著書を書写することとなり、帰国の日迫る為に幾夜もいねず筆執りつづけたので、そのひたぶるな精神力を賞せられて、「師の書きたるものを持つことはよき事」と申され、広道の書写したものを手元に留め置かれ、直筆本は悉く之に賜うたとも伝えられて居ります。その書写本はどうなりましたかわかりませんが、筆者の家に持参した直筆本は遠き北海道に大切に秘蔵されたが故に散佚もせず、又好事家の渉猟にも逢わず、残されて霊学継承者の手に入るに至ったのであります。(『本田親徳研究』)