以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。

「大祓祝詞」を佐藤卿彦先生の著書「顕神本田霊学幽斎記録篇」を手掛かりに考察します。



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 『○天の磐座放ち、天の八重雲を伊頭の千別に千別て、天降し依し奉りき。
 

 古事記〔天降〕の件に、『かれここに天の日子番(ヒコホ)の邇々芸命、天の石位(イワクラ)を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威(イツ)の道(チ)別きに道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして、竺紫の日向の高千穂の霊(ク)じふる峰(タケ)に天降りましき。」と在る。


 天の磐座とは、神の鎮坐する所、神の御座。大虚空の神気が充満している所。勿論人の目には見えないため、磐の如く安定した所と、想定した場所である。


 天の八重雲。古事記には「八重多那雲」とあるが、雲が「た靡(ナビ)く」様(サマ)に見立てたもの。大虚空に幾重にも重なって、太陽の光線を遮る雲の事を云っている。是れは神光・神温を断つもので地上で恩恵を受ける万物は有り難くない存在と見ているが、雨を欲しがる万物は反って此の雲の発生を願うようになる。所謂、地上で受ける恩恵に因って正にもなり邪にもなるものと云える。従って神が天降り坐す時は此の雲を押し分けて、御降臨成されたと申す事である。
 

「伊頭(イズ)の千別に千別て」此の条を、古事記では「稜威(イズ)の道(チ)別き道(チ)別きて」と在るが、何れも意味は同一である。天降り坐す神の神格と申そうか、神位と申し上げるか、神の威力を発揮して天降り坐す様を、道が有るかの如く申して居るもので、祝詞を奏上致して居る人(霊止)の真心に応じて、御出座(オデマ)しになるものである。此処での解釈は「天つ神と国つ神の受霊された」と解すべきであろうし、比の神の所業は、体を持つ人が仲取り持役として活(ハタラ)かなければならないのは、度々の解説の通りである。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)

 言うまでもなく天の磐座、天の八重雲はともに幽界の話なので無形。
「天降し依し奉りき」も同様に、肉体を持った有形の神が虚空から舞い降りてくるわけではない。「神とは人なり」という理解からすれば、歴史的事実ではないとか、科学的ではないとか等々並べて事実無根で信頼性なしというだろう。