上毛三碑早巡り(前編) | gayasan8560のブログ

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趣味の鉄道、街歩きネタを中心としたブログです。鉄道については、主に歴史的視点からの記事が多いです。

今月の前半、高崎市に所用があったついでに、かねてから行きたいと思っていた「上毛三碑」(上野三碑)を駆け足で巡ってきました。
上毛三碑は、7世紀から8世紀にかけて上野国内(群馬県内)の直径3㎞以内という狭い範囲に建てられた3つの石碑です。平成の大合併により現在は3つとも高崎市内にあるため、高崎三碑と呼んだ方が実態に近いのですが、それだと有難味に欠ける?せいか、未だに上毛三碑(または上野三碑)よ呼ばれています。
全国的な認知度は今一つですが、当時の社会制度、家族制度、仏教などの情報が詰まった貴重な資料となっており、去年、ユネスコ記憶遺産(世界記憶遺産)への推薦が決定され、順調にいけば来年の三月には登録される可能性があるそうです。

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(1)多胡の碑
三碑の中では一番有名な碑です。特に群馬県民にとっては上毛カルタの中に入っていることから、詳しいことはともかく名前だけは知っている存在となっています。

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現在は、写真のような立派な建物の中に大事にされていますが、樹々に囲まれた姿を遠くからみると、ちょっと豪華な公衆トイレに見えなくもありません。下の写真のような昔の覆屋の方が、風情という点ではあったように思います。

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建物に着いているスイッチを押すと、数分間照明が点灯して屋内にある石碑を見ることができます。他の2碑についても同じ設備がありました。
ちなみに年に1日だけ建物が開放されて、中に入って直接石碑を見ることができるそうです。

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碑文は以下の通りです。

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左大臣正二
位石上尊右大臣正二位藤原尊

和銅四年(711年)に多胡郡が設置されたことを記念して建てられたものです。文中の「給羊」については解釈が複数あるようですが、「羊(人名)に支配を任せる」という意味で、任された羊さんは渡来人だったと考えるのが主流になっています。
和銅といえば秩父地方で銅が採掘され朝廷に献上されたことを祝って改元された元号です。秩父は高麗という地名もあるように、多くの高句麗系の渡来人が移住してきた場所です。銅の採掘にあたっても渡来人の技術が役立ったことでしょう。隣接した地域で渡来人による開発が進められていたようです。

高句麗滅亡(668年)により多くの高句麗系の人が日本に渡ってきたとき、飛鳥政権は東国開発を目的として、その一部を関東山地と関東平野の境界付近に計画的に移住させたと考えられています。その成果が、数十年後に銅の採掘や多胡郡の成立として表れてきたのでしょう。壬申の乱(672年)という朝廷を二分する内乱が起きた時代ではありますが、そのような混乱の中でも、当時の官僚たちは淡々とやるべきことはやっていたのです。その優秀だった官僚たちの代表例ともいう人物が、多胡碑の最後に出てくる藤原尊、つまり藤原不比等です。藤原氏繁栄の礎を築いた不比等のような優秀な官僚たちが、天武・持統朝を支えて東国の開発を進めていたのでしょう。