右往左往した信濃町駅 | gayasan8560のブログ

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何かと話題の新国立競技場。その最寄り駅の一つである信濃町駅も、その誕生にあたっては、新国立競技場問題を思わせる計画の二転三転がありました。

もともと甲武鉄道が新宿駅から都心方向へのルートとして計画していたのは、現在の靖国通りに沿って市ヶ谷を経由し、そこから飯田町を経て神田三崎町に向かうものでした(明治22年7月仮免状下付時点)。この段階ではルート上にない信濃町駅の計画は存在していません。
その後、青山練兵場への兵員・物資の輸送用鉄道として利用したい軍部からの要望もあり、現在の中央線ルートへと計画が変更され本免許が認可されました(明治26年3月免許状下付)。そのとき初めて信濃町駅が計画されたわけですが、その場所は現在の信濃町駅と概ね同じだったようです。
しかし、ここで一つの問題が出てきました。現在の信濃町駅を見てもわかるのですが、駅構内と比較して神宮外苑側が少し高い地形になっています。これでは、信濃町駅から青山練兵場に物資を運ぶのが大変です。そこで、練兵場側との高低差が小さい現在の千駄ヶ谷駅に近い場所に駅位置を変更することにしました。このときの駅は、駅周辺の町名から「大番町駅」と当時の文書内では呼ばれています(注1)。この「大番町駅」の内容で東京市の市区改正委員会の認可ももらい、いよいよ工事が始まりました。
ところが、明治26年6月の段階で駅位置を再度変えることになり、市区改正委員会に対して計画変更の申請が行われました。下図は、そのとき提出された図面です。

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出典:「東京市史稿 市街編第八十七」

このとき市区改正委員会に提示された駅位置変更の表向きの理由は、「旧位置では勾配があり工事が難儀する。また新しい位置の方が公衆にも頗る利便を与える」というものでした。しかし、一部の委員から「そんなことは最初の調査段階で判っていたことではないか。工事を始めてから判ったというのか」と文句が出ます。最もなご意見です。このままでは、計画変更の申請が否決されかねない雰囲気です。ことここに至って、初めて駅位置変更の真の理由が明かされます。
「未ダ発表セサルコトナレトモ陸軍省ニ於テ青山ノ練兵場ニ線路ヲ引入タシトノ企望(原文ママ)ヨリ起リシモ、勾配モ急ニナリ且停車場ヲ広クスル余地モナキユエ変更ノ必要ヲ生シタルモノニテ・・・」
いわゆる青山軍用停車場の計画がここで明かされます。軍の機密なので、できれば明かしたくなかったのかもしれません。
さすがに軍用停車場のためといわれると委員たちは反対できなくなります。出席委員全員の賛成により駅位置変更が認められました。明治26年6月25日のことでした。
そして、その1か月後の7月25日に日清戦争が始まります(注2)。さらに9月には青山軍用停車場が完成し、ここから多くの兵隊さんが戦地に運ばれていくことになります。


注1)大番町
その後、右京町と統合され、双方から1字をとり大京町となる。

注2)日清戦争開戦
日清両国の宣戦布告は8月1日だが、7月25日に行われた豊島沖海戦が実質的な日清戦争の始まり。