一旬驕話(せ)萩原朔太郎の一文と 内田樹氏の「パワークラシー」論  

 

  内田樹氏の「パワークラシー」論    

   拙ブログの2023530更新一旬驕話(に):潔さと末法末世」で潔さについて書きました。それを投稿した後メモによると週刊金曜日2023/4/285/5合併(1422)号に内田樹「「ハラスメント」と「学び」」が掲載されていまして、そこパワークラシについて述べられていました。このエッセイに次のような文章があります

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 以前、この欄で「パワークラシー」について書いたことがある(本紙(週刊金曜日)202333日号参照)。「パワークラシー」というのは「権力者の正統性の根拠が「すでに権力を有していること」であるような政体」(である)……。ふつうは権力の正統性の根拠としては「神から受権された」とか「民意を負託された」……「賢明だから」「有徳だから」というような理由づけが行われる。だが、パワークラシの国では、権力者には「権力者である」という事実以外には権力の正統性の根拠は求められない。

 徳治の国では王が有徳であることをことあるごとに誇示するひつようがあるのと同じようにパワークラシーの国では、権力者はおのれの権力性をひっきりなしに誇示する必要がある。だから、権力者は「ふつうは自制すべき行為」をあえてするようになる。そして、そのような行為をしても抗議もされず処罰もされないことを確認して、権力を実感するのである。

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  内田氏はその所論は「今の日本には「権力を持つ者はどのように抑圧的かつ」適切にそれを用いるべきか」について経験知を語る者が権力を持つ側に一人もいない。みごとに一人もいない」と結論付けます。  

 

  いろいろに 世上流布さる パワークラシー    

   私は「パワークラシー」という単語を知りませんでした。ブログ発行者「散歩の変人」氏の2023425更新 https://sabasaba13.exblog.jp/32956989/ に423日付け東京新聞掲載の「時代を読む 出口なきパワークラシー」が紹介されていまして、そこで内田氏は「パワークラシーというのは私が思いついた造語だから辞書を引いても出てこない。「権力支配」という意味である」と述べています。

 

   「パワークラシー」は前出のように33日週刊金曜日、423日東京新聞、425日「散歩の変人」氏ブログ、428日週刊金曜日で活用されています。33日が内田氏が使い始めた、と思っていました。トコロガ、内田氏自身のブログ「内田樹の研究室」の2023225日の記事のタイトルは「パワークラシーの国で」です(http://blog.tatsuru.com/2023/02/22_1105.html)。これが「パワークラシー」の誕生です。

 

  「権力支配」? 「権力意識支配」?      

  この学術用語を作った人自身が225日の「パワークラシーの国で」では、パワークラシーとは「権力者支配」の意である、と述べていますし、423日の東京新聞の「時代を読む」では「権力支配」という意味である、と述べています。内田氏の造語ですから氏のおっしゃるように解するのが妥当です。

 

  パワーは権力でありクラシーは支配なのですが、私には「権力者支配」「権力支配」よりも「権力意識の支配」と「意識」があった方が分かり易い。デモクラシーは「民衆(による)支配」と言っても、ビュロクラシーは「官僚(による)支配」と言っても把握できるのですが、「権力(者)による支配」は少し分かり難い。それだけでなくパワークラシーには「そう思っていて/いるから}そうなる」ニュアンスがあります。この「そう思っている」意識を前提として権力行使がなされる、と解して「ナルホドね~」と思った次第です。

 

  「権力を持っている心が……」 

  パワークラシーというのは、権力者の正統性の根拠がすでに権力を有しているところにある政体です。自分が持っていると思っている事態の根拠は自分に外にあるのではなく、その事態の芽は当人の中にあるです。内田レポートはその有効範囲を「政体」に、政治権力の世界に限定しています。それはそれでいろいろな人がこのパワークラシー論の効力について論じるでしょうが、私は家柄とか貴種とかが持つ曰く言い難い雰囲気も説明しているように思えます。今で言えば、政治家の世襲制です。

 

  「罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである」    

  まったく別の世界、政治・政体の世界ではなく詩の分野の話です。私には「分かった」と言える詩も詩人もほとんどいないのですが、「分からない」詩人の一人は萩原朔太郎です。朔太郎の詩は何となく波長が合わなくて読むのに疲れます。ではありますが時々引っ張り出して眺めます。読めば疲れる詩人の本をわざわざ引っ張り出さなくてもよさそうなのですが、この本(日本の詩歌 14 「萩原朔太郎」(中公文庫、昭和49年))は本棚の引っ張り出し易い場所に立っているので、つい手が伸びるのです。

 彼の第一詩集「月に吠える」の掉尾は「雲雀の巣」という長い詩です。私にはいかにももったいぶったように見える詩なのですが、その一行の下に短く下線を引いていまして、その本を開く度にその一行が目に入ります。印を付けたのは何時なのかは覚えていないのですが「罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである」という一行です(71ページ)。誰かの作品からの連想かもしれないし、箴言として読めばうなずきたい心も起こって来るのではありますが、それが目に入るたびに「ハテ、何故下線を引いたのだろう?」と思っていました。

 

  正統性の根拠   

  内田氏のパワークラシー論の「権力者の正統性の根拠がすでに権力を有しているところにある」と読んだ時、朔太郎の「罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである」を急に思い出しました。

  罪をおそれる心の正統性は既に罪を感じているところにあり、救われた人の立脚点、正統性は救われたい、と思っているところにあるのです。罪を犯したがゆえに罪を感じ、二度と犯すまいと恐れるのではない。意識はしていなくとも罪の意識が宿っており、何かの振る舞いを契機にして罪の心が起こってくるのです。善行により「汝救われたり」が為されたり起こったりするわけではなく、意識していない救われたい欲求が「救われたいとされている行動」を呼び込むのです。罪や救済の正統性はその根拠を罪や救いを意識しているところにあるのです。

  

  朔太郎の場合は罪という約 30万年5万年ほど前から人間にまとわりついてきた宗教的感性の現在性を述べています。週刊金曜日の内田エッセイでは、「孔子や韓非の時代には」権力は負託されたものとみられており、「権力の用い方を誤った場合には厳しい叱責を受け」るのが常識だった、と述べています。パワークラシーはどんなに長く見てもせいぜいのところ2000年ほどの歴史です。しかもパワークラシーは政体の世界であり、罪や宗教の守備範囲ではありません。

 

  すべての問題の解決策を心理学に求めることはできません。罪を意識しているが故に罪を(おそれるのではなく)犯すケースも多々あるし、救いを知っているが故に救いがたい振舞いに及ぶ傾向もまた指摘されます。21世紀に新たに提示されたパワークラシー論は(「月に吠える」の出版は1917年ですので)約100年前の宗教や罪や良心や信仰に悩んでいた青年の詩の一行を文学や社会一般に還元するのではなく、政治意識に適用しているのです。

 

  パワークラシー論の広がりは……   

  本稿で見たパワークラシー説は1年以上前の雑誌でのエッセーを軸にしているのですが、この1年間でパワークラシー説はどのように言及され展開してきたのかは私は全く不案内です。提唱者自身がその著作『街場の成熟論』で活用しているらしいのですが、ブログ子は未見です。

 

  このブログ文は、パワークラシーは提唱者自身による権力者支配権力支配と訳すよりも「権力意識の支配」と「意識」があった方がどうも分かり易い、という気がして、それを少し拡大したところから発生した他愛無い感想です。