読み齧り旬記(そ):「痴愚神」と「英雄」(下)

 

 人間社会の要諦    

 痴愚神、別名馬鹿神様のおっしゃるのはつまるところ「この私がいなかったら、… 皆がお互いに幻を作り合うことをせず、お互い同士のペテンや追従もなく、賢明にも目をつぶるというようなこともなく、結局のところ、痴愚の蜜をやり取りしてお互いにまるめあうことがなかったとしたら」(83ページ)人間相互は「そう長いあいだがまんしていられるものではありますまい」(同)というお言葉である。

 

 『痴愚神礼讃』ではさまざまな馬鹿な振る舞いがその効果を上げているのですが、当ブログでここまでに記した「愚行」を列挙すると「友人たちの欠点に目をつぶる」「思い違いをする」「盲目になる」「夢を見る」「欠点を長所として愛し賞賛する」「媚びへつらう」「冗談を交わす」「お愛想をいう」「虚偽を認める」「お互いに幻を作り合う」「お互い同士でペテンや追従をすすめる」が挙げられています。これらによって、すなわち「痴愚の蜜をやり取り」することによって、人間同士は「互いにまるめあ」い円滑に進められていくのです。

 

 これらは人間社会での平常の「馬鹿神様」の及ぼす力です。この説明が終わるとエラスムスの筆は戦争に向かいます(23節、85ページ)。

 

 英雄たちの愚行    

 エラスムスにとっては「戦争こそは … 結局は敵味方双方とも得よりも損をすることになるのに、なにがなんだかわからない動機から、こんな争いごとをやり始めること以上に阿呆なことがあるでしょうか?」(85ページ)ということになります。ですから『プルターク英雄伝』に登場する「英雄」の勇ましい言行は登場しません。なまじっか哲学や文学で知恵を付けたつもりの将軍は(『英雄伝』ではそれぞれ一篇を与えられている)大カトー、小カトー、ブルータス、グラッスス、キケロにしてもコテンパンに一掃され、ゴミ箱行きです(8898ページ)。

 さらに『英雄伝』でキケロと対比されているデモステネスに対しては「敵の姿を見るやいなや、楯を投げ出して逃げ去った … 賢明な雄弁家だったのと同じ程度に卑怯未練な兵士だったあのデモステネス」(86ページ)と断じています。これは河野与一訳岩浪文庫『プルターク英雄伝』(十)の「デーモステネース」篇20節(144ページ)に記されている逸話を引いているのですが、プルタルコス自身もギリシャの雄弁家にして政治家デモステネスが賄賂に目が曇らされてしまう行状も記していてデモステネスを英雄の鑑のように記しているわけではありません、「デーモステネース … 市民に愛慕され、… 不正を行ったり品位をしたせず、極めて適切に覇権を握ったとも述べています河野与一訳プルターク英雄伝(十)岩波書店1976143ページ「デーモステネース」篇を読む限り、エラスムスがこの一言でデモステネスの言行を断ずるのは不公平のように思います。

 

 ただし英雄中の英雄、武人中の武人カエサルとアレクサンドロス大王についてはエラスムスは言及していません。何かいわくがあるのでしょうか。

 

 民衆を治める技能    

 エラスムス戦争という愚行に際して何の役にも立たない例としてエラそうな将軍や政治家挙げるのですが、暴走する民衆平静に導くのは哲学者の説教ではなく、政治家や将軍の馬鹿らしい奇計である、としていますそこには幾つかの例が挙げられているのですが、そこイスパニアに果てたローマの政治家にして将軍セントリウスの逸話を二つ上げています。一つはセントリュスの名を挙げてい90ページ訳者二宮英雄伝「セントーリュスを挙げています。今一つの逸話については著者もセントリュスの名前追挙げていませんし、訳者も英雄伝を挙げていません

 この二つ目の逸話の内容を読んだ時にどこかでまったく同じお話を読んだと思い出してみたら、英雄伝「セントーリュス」篇でのお言葉にあるような暴走する民衆を静めるのが目的ではなく有効な戦術説明するために屈強な若者にヨボヨボの馬の尻尾を一度に抜かせようとし、ヨボヨボ老兵に元気な馬の尻尾を一本ずつ抜かせたというお話で1625ページ)。日本では「(生き)馬の目を抜く」とは言いますが、馬の尻尾を抜くお話はあまり聞きません。

 

 哲人は国を治めることは出来ない     

 続いてエラスムスはプラトンソクラテス教えアリストテレス掟で治められた国があるだろうかと問います。国家を治めるのは哲人の思想ではなくしい凱旋式、支配者の神格化選挙での買収などなどである90ページこういう「狂気ざたから英雄たちの高貴な行為が生まれ 都市国権も法制も宗教も議会も裁判も保持されるのです。こうしてみると人間の生活というものは、すべてこれ痴愚女神様のちょっとしたなぐさめにすぎないのです92ページ)

 

 国家を貫通しているのは馬鹿神様のちょっとした出来心にすぎない、まじめくさってこの出来心を「狂気ざた称する御仁もいらっしゃいますが、というのです。

 

 21世紀の私たちの国家観は馬鹿神様のこの出来心、狂気ざたへの賛否の度合によって決定されているすなわちエラスムスの国家評は諷刺の効きすぎかと考えるか、まだまだ諷刺が足りないと見るかに左右されると言えます。

 

 詩人、雄弁家、キリスト者、教育法律学、神学者     

 エラスムスの馬鹿神様万歳対象まだまだ続きますが、神学者を対象にする53138ページになると節の分量が大幅に増え、諷刺の雰囲気がまじめになってきます。神様の神学者観、と言いますか、当時のキリスト者界隈の愚行諷刺と解するべきなのですが、現代の読者としてはこれは諷刺気配の消えた批判、弾劾だなと分かり易くなります。それやこれやでこの著作は1536年の死後181554年には教皇により禁断書に指定され、その4年後1558年にはエラスムスの全著作が禁断書に指定されています。死後22年経ってから禁断書にするというのは、エラスムスのキリスト教界隈への批判・弾劾はその死後ますます説得力を発揮してきていたのでしょう。 

 

 いくつかの警句    

 『痴愚神礼讃』には聖書やキリスト教神学者だけでなくギリシャやローマの哲学者、政治家から多く引用されています。その引用も興味深いし、随所にみられる警句もナルホドと思わせます。その幾つかを下手な注釈なしで紹介します。

 

 31節 98ページ この私は … 無知と軽率とに助けられて、人間どもにそのみじめさを忘れさせ、幸福を希望させ、ときおり快楽の蜜を味わわせながら、うまいぐあいにその不幸を和らげてやります。

 

 33節 102ページ いちばん幸福な人間は … 自然だけを主人とすることのできる人々なのです。

 

 45121ページ 人間の精神は、真実よりも嘘によって、はるかにわけなく捕らえられてしまうようにでき上っているのです。

 

 63169ページ 『伝道の書』へ戻りましょう。「空の空なるかな、すべて空なり!」と叫んでいますね。私の考えでは、人生は痴愚女神の戯(タワム)れにすぎないということ以外の意味は、そこにはないと思いますね。