一旬驕話(よ):渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』と高見順『過渡的』
エラスムスとカルヴァン、寛容か正義か
先々回8月20日の「一旬驕話(を)」で渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫、1992年)の「ある教祖の話(a)」としてジャン・カルヴァンを論じている部分を取り上げました。文庫本の著者はそこでエラスムスとカルヴァン、正義と寛容、政治とフマニスムス(ヒューマニズム)の相克を述べています。
世界が分類し易い進歩か後退かのテーマで分かったような気分に浸っていた冷戦時(の一頃)には多くの論者が「政治と文学」を取り上げて熱っぽく語っていました。21世紀も五分の一を過ぎた時代のせいだけではなく、他愛無い平板化した世間生活を送っているブログ子には、これはとても取り上げられる話柄ではないのですが、オヤと思う小説がありましたので紹介いたします。
高見順『過程的』
武田麟太郎という作家の『日本三文オペラ』が少し気になっていて、部屋の隅に積んであるミカン箱から箱入りの「ちくま書房版 定本限定版 現代日本文学全集75 武田麟太郎、島木健作、高見順集」(昭和42年)を引っ張り出してページをめくってみました。序でながら島木健作と高見順の作品も眺めてみました。
高見順に『虚実』という短編があります。私は高見順については何も知りません。ですからこの短編が私小説なのかどうかは知りませんが、自分の生まれたばかりの死産の子どもをミカン箱に入れて火葬場に運ぶシーンから始まります。実感のこもって小説です。これは昭和11年、30歳の時の作品です。
巻末に『過程的』という作品が掲載されています。タイトルが小説的ではありません。評論だろうと思って読んでみることにしました、トコロガ小説でした。これも私小説なのかどうかは分かりませんが、左翼運動に熱心で理論学習に飽き足らず実践運動に飛び込もうとする青年をめぐる小説家の主人公下島の対応がテーマです(蛇足ですが、この作品の最後には「(昭和二十五年四月)」と記載されているのですが、年譜の昭和25年の項にはこの作品については記載されていません。この作品は案外不幸な作品なのかもしれません)。
「過程的」の意味
この作品『過程的』の最後の方に次のような一節があります(385ページ以下)。
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(……この小説の主人公である)下島は、アスペルで開かれたゲーテ祭の記事を外国雑誌で読んだ。シュヴァイツァがはるばるそれに出席していてゐる。(……)メッセージを讀んで、それがまた下島の心を強く叩いた。現在はヘーゲルの思想とゲーテの思想が至るところで闘っているとシュヴァイツァは言ふのだが、下島はその闘ひは自分の心の中でも行われてゐると観られた。本質を思ひ調和を思ふ心と、現実を思ひ變革を思ひ過程を思ふ心は裂かれてゐる。前者に自分の心を落ちつけさせようと努めてゐるが、そう務めることはすなはち心の分裂してゐることと分裂の故の闘ひの存在することを下島に告げるのである。ヘーゲルの思想とは過程の思想であるとシュヴァイツァは言ふ。一言にして言えば、自分の人生はなにものかの爲の過程にすぎないといふ考え方(……)
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この本が旧仮名遣いですので上の引用も本に準じて旧仮名にしました。もっと手軽にコピー&ペーストは出来ないものかと青空文庫に入ってみたのですが、『過程的』は掲載されていませんし、作成予定にも入っていません。再び「この作品は案外不幸な作品なのかもしれません」。とは言え高見順の作品は山ほどあるのですから、青空文庫の収録予定に入っていないと言っても取り立てて言うほどのことではありませんが、上の転記で旧仮名遣いになっていない箇所がありましたら転記者の不注意・手抜きです。それには「取り立てて言」いたくなる向きもあるかと思いますが、ご勘弁ください。
小説『過程的』のストーリーには紆余曲折があるのですが、「過程的」の意味は作者自身が上のように解説してくれています。この過程的感性は極めて政治的な感性、と高見順は解釈します。現在ですと、「政治的」? 世界の万物で政治的たらざるものは存せず、という向きもあります。そうお考えでしたら「党派的な」または「宗派的な」感性と言ってもよいかと、転記者は考えます。
政治的感性としての過程的感性
小説『過程的』の文脈で言いますと、ヘーゲル的・過程的感性と対照的なのはゲーテ的・文学的感性です。すくなくとも彼の密林の聖者シュヴァイツァはそう見ている筈だと昭和の知識人は考えています。それはそれでいいのですが、ブログ冒頭の対比「エラスムスとカルヴァン、寛容か正義か」から見ますと、「エラスムス-寛容か非寛容か-ゲーテ的にして文学的」vs 「カルヴァン-正義か邪教か-ヘーゲル的にして政治的」となります。
ですが、このエラスムス的、カルヴァン的生き方は、実に困ったことですが、Aさんエラスムス的、Bさんカルヴァン的のように個人の属性としてはっきりと色分けして現れるわけではありません。AさんにもBさんにもエラスムス的感性とカルヴァン的憧憬とが同居しています。一人の個人の中にジギル氏とハイド氏の性向が共存しているのに似ています。 生まれた時代と置かれた位置と周囲の人間関係と個人の決断によって「マ、そういうこともあるだろうに」と「そういうことは地の果てまで追っても許さない」の間で判断と行動を人は選び取るのです。
21世紀の寛容と過程的対応
この過渡的感性に基づく対応は(カルヴァン流の)政治的行動ですから多くの場合目に見える形で現象します(「政治的行動」アレルギーでしたら「政党的行動」「宗派的行動」とお読みください)。目に見えるのは対応ばかりではありません。成果は誇らしげに見せびらかせますし、無残な結果は人々の誹謗の材料になります。しかし人間は、極めてまれな例を除き、この対応を完全に放擲することはできません。
同じように文学的・寛容なる対応から無縁に生きるということもほとんど有り得ません。しかしこのエラスムス的、(シュヴァイツァ流に言えば)ゲーテ的、(渡辺一夫的に言いますと)ルネッサンス的行動の成果は目に見えません。1930年代ドイツの小説ではこの対応が語られ、戦前の知識人は政治的弾圧の結果としてこの種の対応を科されています。
21世紀の日本はどちらの道を選択しようとしているのでしょうか。どちら、というのは原理主義的・教条的・党派的対応でしょうか、寛容ルネッサンス的方向性でしょうかのどちらか、です。20年、30年先にははっきりするのでしょうか。それともどちらの感性も個人のうちに併存するように、どちらの対応・方向性とハッキリしないまま漂流するのでしょうか。