一旬驕話(た):アリストパネスの民会乗っ取り喜劇『女の議会』
アリストパネスの喜劇
ボンヤリと本棚を眺めていたら箱入りの本が並んでいる中に筑摩書房「世界古典文学全集第12巻」アリストパネス(昭和39年)が立っていました。アリストパネスと言えばソクラテスを揶揄した『雲』やセックス・ストライキでよく知られている『女の平和』の作者だな~とめくって見ました。この本にはアリストパネスの断片は除き全作品が掲載されているそうでして、いわば全集です。
かなり後ろの方に晩年(紀元前411年)の作ですが村川堅太郎訳『女の議会』(363ページ以下)という作品が載っています。「女の」は同じですが、「平和」ではなくて「議会」です。「平和」は忘れるくらい昔に読んだ(というより、めくった)ことがありますが、「議会」のことは作品の名前さえ覚えていません。タイトルに「議会」とあるくらいですから政治的なニオイがします。「女の」ですし、破廉恥にもセックス・ストライキを舞台に乗せた劇作家の作品です。しかも喜劇ですから女議会敢行ハ失敗セリ、関係者ハ処罰サルというような悲劇の終わり方ではないだろう、どんなシーンで幕は下りるのだろうと思い、特段の義理はないのですが読んでみました。
念の為ですが、ギリシャの劇は屋外で演じられていたので幕は下りない、と言うか、そもそも幕はなく、登場人物は初めから終わりまで観客の見える所にいて、言わば、のべつ幕なく観衆の目に晒されていたのだそうです。日本の能も別に幕はありませんから、似たり寄ったりです。
民会を乗っ取るお話です
「女の議会」のお話は「議会の半分は女性議員にしましょうよ」などという優しきものではありません。ギリシャ、アテネの議会(と言いましても直接政ですから全員参加の民会です)を女性が乗っ取って政治の方針を女性中心に変えてしまうというものです。
乗っ取ると言っても(つい先年ミャンマーで見られたような)武器を使ったクーデターや(こちらもつい先年の「民主主義大国」において実践され、結局は失敗に終わった)民会会場への人海ナダレ込み戦術でもありません。妻たちがヒゲを見事に描き夫の上着とステッキを身に着けて(すなわち男に変装して、です)「田舎者の風情で」(368ページ)民会会場に赴き演説して「女どもに国家を引き渡す」(370ページ)方針を確立させたのです。喜劇ですから、この形式での乗っ取りも是認されるでしょう。
原始共産制的方針
その方針とは「万人が万物を共有し、これによって生活すべきであり(……)万人に共同かつ平等の生活を与え」(374ページ)るところにあります。「万物の共有」をめぐって「喜劇的」会話が進むのですが、劇のテーマは「セックスの共有」という難点に進みます。この喜劇の(終幕は、と言いたいところですが、幕はない劇ですので、)エンディングは女三人で男一人を引っ張り合うというセックス共有の具体例の喜劇的シーンで迎えます。劇は終わるのですが、このテーマは解決したのか、解決しなかったのかは私には不明です。
私は、冒頭で述べたように、この作品を「一体最後はどんな形で終わるのだろうか」と思って読み始めたので、テーマの解法は不明ではありますが、この喜劇の締めくくり方は分かりました。
他愛もないコメントを申し上げます。
女子選手の腋毛脱毛
もう20年も30年も昔のことですが、ドイツ人の女性から「日本の女性(水泳選手だったかシンクロナイズの選手だったか)選手はどうして腋毛を剃るのか」と聴かれたことがありました。ドイツの選手は腋毛は剃らない、自然のままにしている、と言うのです。『女の議会』の冒頭(364ページ)に首謀者の
「取り決めは実行して?」 という確認に対して、仲間の女性が
「あたしはやりましたよ。第一にあたしの腋の下は約束通りに密林も顔負けってわけだし(……)」
と応えています。それを読んだ時に上記のドイツ人の問を思い出したのです。その問いに私が何と答えたかは覚えていませんが、アテナイの女性グループの会話には「アテナイ婦人は肉体の美観を損なうと思われる毛はことごとく抜いたり剃ったりする習慣だった」(387ページ)という訳註が付されています。
アリストパネスから約2500年後の東海の住民である私は「そういうことだったのか」と思っただけで、特段の「笑い」は感じませんでした。これは文章を読んだ印象を申し上げていますが、この会話の時に俳優が演じる仕草で案外「笑い」を呼び起こしていたのかもしれません。
これは今日この頃の話題ですが……
トコロガ2022年9月26日付け毎日新聞に「#「普通」をほどく 体毛処理の自由」という記事が一面で掲載されていました。体毛を剃るか剃らないかは当人の好きなようにすればいいじゃん、という趣旨の記事でした。
いずれにしても現在の日本では、体毛を剃るか剃らないかは個人の意志に任されているとは言え新聞記事の材料になるくらい微妙なテーマなのではあります。しかしこれは日常生活の場での話題ですが、芸術(文化)の世界でも体毛の表現はごくありふれた、という訳ではなさそうです。というのは2022年12月4日付けの毎日新聞文化面に漫画家いしかわじゅん氏が鶴田憲二著(漫画は「著」ですか? 「筆」ですか? 「画」ですか? 「著」としておきましょう)『モモ艦長の秘密基地 I』(白泉社、2022年)について次のように評しています。
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(……)緊張感がない。第一、モモは船内に誰も人間がいないので、常に裸だ。裸族なのだ。フサフサの陰毛と腋毛を惜しげもなく晒しているのだが、まあ誰もいないのだから特に惜しくはない。
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私は鶴田憲二さんという漫画家も『モモ艦長の秘密基地』も初めて聞きました。それどころか、もう長いこと週刊誌や月刊誌の、ましてスマホの漫画を見ていないので漫画の動向や描写についてはサッパリ分かりません。ではありますが、このいしかわじゅん氏の漫画評を読みますと、腋毛を描くのは漫画でも珍しいことなのだろうと思います。
この漫画評を入力しながら何か腑に落ちないところがありまして、入力後「何だろう? 」と振り返ってみました。どうもそれは「惜しい」の使い方から来ているようです。初めの「惜しげもなく晒している」は分かります。二度目の「誰もいないのだから惜しくはない」の「惜しい」がよく分かりません。大したことではないのですが、おそらく評者にとっては腋毛を人に見せるのは「惜しい」ことのようです。または単に「惜しげもなく」と「惜しくはない」の言葉遊びをしたのでしょうか。
ギリシャの婦人や日本の水泳選手が腋毛を隠しているのは「惜しい」からではないように思いますが、如何でしょうね・・・・・・?
会議参加費
アリストパネスの『女の議会』に戻りますと、会議乗っ取り首謀者の旦那さんは外出用の上着は奥さんに拝借されるし、体調不良ではあるし民会には行けませんでした。そこに勝利した仲間と分かれた彼女が帰宅します。旦那さんは
「わしが民会からもらったはずの五升の小麦が、お前のおかげでふいになった(……)」
と小言を言います(373ページ)。
民会出席が許されているのはアテネ市民のみです。当時のアテネの市民は約3万人だったそうです。市民というのは家長のようなもので、家族や奴隷は出席できません。そして民会出席は報酬付きなので、上のセリフが出てくるのです。この「五升の小麦」の訳註(391ページ)によると「民会出席者には三オボロスに貨幣が手当てとして渡されたが、これで購い得る小麦の量(……)」とのことです。小麦を米に見立ててみますと、(農林水産省のページ https://www.maff.go.jp/j/seisan/kikaku/attach/pdf/kome_siryou-55.pdf によれば)ここ10年ほどのコメの販売価格は銘柄平均でごく大雑把に言うと60キロで15000円ほどです。1キロ当たり250円です。5升は約7.5キロですから約1900円に当たります。ではありますが、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」によると一人ですと「一日ニ玄米四合」で何とか生活できるそうですから、五升と言えば一人十数日分に当たります。貨幣で言えば、当時のアテネでは2000円ほどで一人十日ほどは過ごせたのでしょうか。
首謀者の旦那さんは、上記のように、民会出席の報酬はもらえなかったと小言をいうのですが、男に変装した首謀者は参加しているのですから報酬をもらっている筈です。お手当の2000円は彼女の懐に消えたのでしょうか?
かなり猥雑で下品なセリフの飛び交う劇です
最後のお手当への拙コメントは2500年という時間と地球の裏側という空間を隔てている生活の実態はまったく無視して数字で言えば、の話です。そのおつもりでお読みください。そして議会乗っ取りというハラハラする政治のテーマから薄い財布の話になってしまいました。「文ハ人ナリ」ですから、書き手の「人」柄が反映したブログになりました。
しかし『女の議会』は世界文学全集にはまれな猥雑なセリフと上品とは思われない仕草が想像される作品でした。